第三話「北の砦の極秘会談と、氷の外交官の交渉術」
豊穣の谷を抜け、さらに北へ。 私たち外務省の使節団と第一竜騎士団の馬車隊は、次第に緑が減り、岩肌が剥き出しになった険しい山道を進んでいた。 目指すは、ガートンコヨ王国の北の果てに位置する『古の砦』。そこが、農業大国であるホウライ国の特使との極秘会談の舞台である。
「……道が悪くなってきましたね。馬車がかなり揺れます」 馬車の中で分厚い資料と睨み合っていた私は、ガタン!と大きく車体が跳ねた瞬間に体勢を崩し、危うく座席から転げ落ちそうになった。
「――おっと。大丈夫ですか、オルン殿」
ガシッ。 窓の外から差し込まれた強靭な腕が、私の肩をしっかりと支えてくれた。 驚いて顔を上げると、漆黒の軍馬に跨って馬車と並走していたクラウン様が、窓越しに私を気遣うように覗き込んでいた。
「ク、クラウン様……! ありがとうございます。つい、資料に夢中になってしまって」 「熱心なのは結構ですが、舌を噛みますよ。この先の山道は魔獣の生息域にも入るため、俺は馬車のすぐ横につきます。……何かあれば、すぐに俺の名を呼んでください」
氷藍色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。 その低く落ち着いた声と、微かに漂う鉄と皮の匂い。前世で画面越しに見ていた『最強の騎士』に直接名前を呼んで守られるという事実に、私の限界オタクとしての心臓は早鐘を打ち始めた。
(あああっ、推しが近い! しかも初日の野営でのスープ以降、クラウン様の方からこまめに声をかけてくれるようになったわ! 胃袋を掴む作戦、確かな手応えを感じる……!)
私は心の中でガッツポーズを決めつつも、表面上は『氷の外交官』の涼しい顔を保ち、「心強いです、団長」とだけ短く返した。 クラウン様は小さく頷き、再び前方を向いた。彼の横顔を見つめながら、私は手元の資料――ホウライ国の特産品リスト――を強く握り締めた。
(絶対に、この交渉を成功させる。彼の未来の命は、この会談にかかっているんだから)
夕刻。冷たい北風が吹きすさぶ中、私たちは国境の『古の砦』へと到着した。 すでに砦には、異国の豪奢な絹の服を纏った一行が到着していた。彼らこそが、東の果てに位置する豊穣の国・ホウライの使節団だ。
「よくぞ遠路はるばるお越しいただいた、ガートンコヨ王国の使者殿。私がホウライ国特使、コウである」 出迎えたのは、切れ長の鋭い目つきをした、いかにも食えない雰囲気の若い男だった。手には扇子を持ち、口元には不敵な笑みを浮かべている。
「お初にお目にかかります、コウ特使。ガートンコヨ王国外務省筆頭補佐、オルン・バリランと申します。本日は両国の未来のための有意義な対話ができることを光栄に思います」 私は完璧なカーテシー(臣下の礼)を取り、冷ややかな微笑みを返した。
砦の一室に用意された円卓。 私とコウ特使が向かい合い、私の背後には護衛としてクラウン様が静かに控えている。彼の放つ圧倒的な威圧感は、それだけで相手の交渉のペースを乱す強力なカードになっていた。
「さて、オルン殿。単刀直入に言おう。貴国が求めている我が国の『白き穀物(米)』と『黒き万能調味料(醤油)』の定期輸出についてだが……」 コウ特使が扇子をパチンと閉じ、目を細めた。 「条件が合わない。貴国が提示した魔宝石の輸出枠程度では、我が国の貴重な食糧を安定供給する理由には乏しい。……我が国は現在、南方の群島連合国からも高値での取引を持ちかけられているのだ」
いきなりの強気な牽制。 商人上がりのコウ特使は、こちらの足元を完全に見ていた。ガートンコヨ王国が将来的な食糧難を見越して焦っていることを察知し、さらに条件を吊り上げる腹積もりなのだ。
「なるほど。群島連合国、ですか」 私は一切の動揺を見せず、フッと氷のように冷たい笑みを浮かべた。 「あちらは確かに資金力があります。しかし、彼らの海軍力では、東の海域に出没する『海竜』の群れから安全な航路を確保することは不可能です。荷の三割は海に沈むでしょう」
「……っ」 コウ特使の眉がピクリと動いた。
「一方、我が国と陸路で結ばれればどうなるか。……後ろをご覧ください。我が国には、世界最強と謳われる第一竜騎士団が存在します」 私は背後に立つクラウン様を手で示した。 「我が国と専属契約を結べば、ガートンコヨ王国の誇る竜騎士団が、ホウライ国境までの陸路輸送の『完全な安全』を保証いたします。海に沈むリスクを抱えた高値か、確実に届き、恒久的な利益を生む陸路か。……どちらがホウライ国にとって真の利益となるか、聡明なコウ特使ならばお分かりのはず」
「…………」 コウ特使は沈黙し、鋭い視線で私とクラウン様を交互に見比べた。 クラウン様は一言も発さないが、その腰の長剣に添えられた手と、一切の隙のない立ち姿が、私の言葉の絶対的な裏付けとなっていた。
「……ふふっ。はははっ!」 やがて、コウ特使は扇子で口元を隠し、愉快そうに笑い出した。 「噂には聞いていたが、まさかこれほどとは。氷の外交官殿、貴女は本当に恐ろしい女性だ。我が国の弱点と、貴国の最大の強みである『武力』を、こうも美しく交渉のテーブルに乗せるとはな」
「お褒めにあずかり光栄です」 「だが……まだ首を縦に振るわけにはいかない」 コウ特使が身を乗り出した。 「我が国の『白き穀物(米)』は、調理法が独特だ。貴国のような硬いパンと塩漬け肉しか食べない武骨な国に、我が国の食文化の真髄が理解できるとは思えない。……価値のわからぬ者に、宝を売る気はない」
食文化への誇り。それこそが、ホウライ国の商人たちが最も重んじるポイントだった。
(……きたわね。この展開は、想定の範囲内よ!) 私は待ってましたとばかりに立ち上がり、コウ特使に真っ直ぐに向き合った。
「では、証明してみせましょう。我が国が、ホウライ国の食文化をどれほど深く理解し、愛しているかを。……今夜の晩餐は、私が用意いたします。それをご賞味いただいた上で、最終的な決断をお願いできますか?」
「ほう……? この私が納得する料理を、貴女が作ると?」 「ええ。必ずや」
私は力強く頷いた。 背後のクラウン様が、驚いたように微かに息を呑む気配がした。
その夜、古の砦の厨房。 私は腕まくりをして、王都から持ち込んだ最高の食材と、ホウライ国への敬意を示すための『特別な料理』の準備に取り掛かっていた。
(前世の知識を総動員して、絶対に美味い米料理を作ってやる!)
「オルン殿。本当に、貴女が料理をするのですか?」 厨房の入り口に、クラウン様が心配そうな顔で立っていた。 「外交官たる者が、自ら厨房に立つなど聞いたことがありません。それに、相手は食にうるさいホウライの特使……もし失敗すれば、交渉が……」
「大丈夫です、クラウン様。私を信じてください」 私は微笑みながら、持参した土鍋を火にかけた。 「それに、これも『戦い』です。相手の心を動かすには、言葉だけでなく、胃袋を満たすのが一番の近道ですから」
私はまず、事前に手に入れておいたホウライの『白き穀物(米)』を、澄んだ水で丁寧に研ぎ、土鍋でふっくらと炊き上げた。 次に、ガートンコヨ王国の特産である高級な『魔猪の肉』を分厚く切り、ホウライの特使への誠意を示す『黒き万能調味料(醤油)』と、甘い果実酒を混ぜた特製ダレに漬け込む。 そして、それを熱した鉄板で豪快に焼き上げた。ジュウウゥッ!という音と共に、醤油の焦げる香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がる。
「……っ。なんなんだ、この暴力的なまでに食欲をそそる匂いは……」 クラウン様が、ゴクリと喉を鳴らした。普段は感情を表に出さない彼が、料理の匂いだけで完全に魅了されているのがわかる。
「完成です。グレンリードの肉と、ホウライの調味料を融合させた……『魔猪の特製照り焼き丼』です」
私は炊き立てのツヤツヤの白米の上に、分厚い照り焼き肉を乗せ、仕上げに山椒に似たスパイスを振りかけた。
円卓に運ばれたその料理を見た瞬間。 コウ特使は、信じられないものを見るように目を見開いた。
「こ、これは……我が国の米を、ここまで完璧に炊き上げているだと? それに、この肉のテリ……!」 「どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」
コウ特使が匙を手に取り、肉と米を一緒に口へと運ぶ。
「――っ!!!!」 コウ特使が、雷に打たれたように固まった。 「美味い……! なんだこれは! 濃厚な肉の脂と、我が国の調味料が完璧に調和している! それを、この白き穀物がすべて受け止め、口の中で極上の旨味へと昇華させている……! 貴国に、これほど我が国の食を理解している者がいたとは……!」
コウ特使は、もはや外交官としての威厳も忘れ、夢中で丼をかき込み始めた。
「クラウン様も、どうぞ。護衛の疲れを癒やしてください」 私がクラウン様にも丼を差し出すと、彼は真剣な顔で匙を取り、一口食べた。
「……!」 またしても、クラウン様の動きが停止した。 「……オルン殿。貴女は、魔法使いか何かなのですか」 クラウン様が、信じられないという顔で私を見つめる。 「俺はこれまで、肉はただ焼いて塩を振るだけのものだと思っていた。だが、この……『コメ』という不思議な穀物と一緒に食べることで、肉がこれほどまでに力強いご馳走になるとは。……腹の底から、力が湧いてくるようだ」
(やったぁぁぁっ! コメの偉大さを、最強の騎士に教え込んだぞ!! これで絶対に食糧難の時にも白米を食べさせて生き延びさせるルートが開拓できる!!) 私は内心で大歓喜の舞を踊りながら、「お粗末様でした」と優雅に微笑んだ。
「……完敗だ、氷の外交官殿」 空になった丼を置き、コウ特使が深い深いため息をついた。 「貴女の食に対する情熱と理解、そして貴国の騎士の力。これらを天秤にかけて、これ以上渋る理由はない。……白き穀物と調味料の優先輸出、貴国の提示した条件で正式に調印しよう」
「ありがとうございます、コウ特使。末長い良き関係を」
こうして、私の前世の知識(料理スキル)と、クラウン様の圧倒的な武力を背景にした『豊穣の谷の極秘会談』は、これ以上ないほどの大成功を収めたのだった。
会談の翌朝。 すべての調印を終え、王都への帰路につく準備をしていた時。
「オルン殿」 馬車に乗ろうとした私の背中に、クラウン様が声をかけてきた。
振り返ると、彼は少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた後、意を決したように私を真っ直ぐに見つめた。
「昨夜の食事……その、本当に美味しかったです。俺は不器用で、気の利いた言葉も言えませんが……貴女の作る料理は、その、とても……心が安らぎます」 最強の騎士と恐れられる彼が、少しだけ耳を赤くして、不器用な感謝の言葉。
「……ふふっ。ありがとうございます、クラウン様」 私は、嬉しさで胸がいっぱいになりながら微笑んだ。 「王都に帰っても、もしお疲れの時や、お腹が空いた時は……いつでも外務省の私のところに来てくださいね。美味しいお弁当、作ってお待ちしてますから」
「……弁当、ですか。……ええ、楽しみにしています」 クラウン様は、わずかに口元を緩め、フッと柔らかい笑みをこぼした。
それは、原作漫画では決して見ることのなかった、彼の穏やかな笑顔だった。 『ただの仕事仲間』から、『美味しいご飯を作ってくれる特別な人』へ。 二人の距離が、ほんの数センチだけ、確かに縮まった瞬間だった




