第二話「豊穣の谷の野営と、最強騎士の胃袋を掴むスープ」
「――以上が、東部国境地帯における関税引き下げの暫定合意案です。こちらの特産品である魔宝石の輸出枠を二割譲渡する代わりに、あちらの余剰小麦を適正価格で優先的に買い上げる。……いかがでしょうか、アルバート大臣」
王城内の外務省、その最も奥にある重厚な執務室。 私は分厚い報告書を机に置き、一切の感情を交えない淡々とした声で報告を終えた。
「見事だ、オルン。赴任してわずか二年で、あの強欲な東の商人たちをここまで追い詰めるとはな」 アルバート外務大臣は、書類に目を通しながら深く頷いた。
私が外務省に入省して、二年の歳月が流れていた。 現在21歳。睡眠時間を極限まで削り、前世の知識と持ち前の根性で泥臭く交渉を重ねてきた結果、私は異例の早さで外務筆頭補佐へと昇進していた。 常に冷静沈着で、どんな圧力にも動じず、氷のような微笑みで相手の利益を削り取るその手腕から、いつしか貴族や他国の外交官たちは私を『氷の外交官』と呼ばれるようになっていた。
「お前さん、相変わらず血も涙もない交渉をするねぇ。東の特使が『あの女は血の代わりに氷水が流れているに違いない』って泣いてたぜ?」 執務室のソファで優雅にお茶を飲んでいた先輩外交官のシリルが、意地悪く笑う。 「お褒めにあずかり光栄です、シリル先輩。ですが、我が国に有利な食糧ルートを確保するためなら、私は喜んで氷の悪魔にでもなりますよ」
私は涼しい顔で答えたが、内心では(血の代わりに氷水なんて失礼な! 私の血はクラウン様への熱い愛で沸騰しっぱなしよ!)と叫んでいた。 そう、私がここまで仕事の鬼と化した理由はただ一つ。将来必ず訪れる大冷害と食糧難に備え、ガートンコヨ王国の食糧庫をパンパンに満たしておくためだ。すべては、愛する推しを餓死させないための壮大な下準備である。
「さて、オルン。次のお前の任務だが……」 アルバート大臣が、一枚の指令書を私に差し出した。 「北の国境沿いにある中立地帯で、ホウライ国の特使との極秘会談を行ってもらう。将来的な大規模農業提携の布石となる重要な任務だ。道中は魔獣の出る危険地帯を通るため、王城から最精鋭の護衛をつける」
「護衛、ですか? 騎士団のどの部隊が……」 「第一竜騎士団だ。団長のクラウン・ザバーグ自らが、お前の護衛として同行する」
「……っっ!!」
私は、被っていた『氷の外交官』の仮面が物理的に割れそうになるのを必死に堪え、自分の太ももをつねった。 (ク、クラウン様が!? 私の直属の護衛に!? やったぁぁぁっ!!)
「どうかしたか、オルン。顔が少し赤いようだが」 「い、いえ! なにもありません! 外務省の代表として、恥じぬよう任務を完遂してまいります!!」 私は弾かれたように敬礼し、足早に執務室を後にした。扉を閉めた瞬間、誰もいない廊下で一人「っしゃあぁぁぁっ!」とガッツポーズを決めたのは言うまでもない。
数日後。 私たち外務省の使節団と、護衛の第一竜騎士団は王都を出発し、北の国境へと向かっていた。
道中の景色は、息を呑むほど美しかった。 険しい山々を抜けると、そこには『豊穣の谷』と呼ばれる広大な大自然が広がっていた。初夏の陽射しを受けてキラキラと輝く透き通った清流。風が吹くたびに、ざわわざわわと黄金色の波のように揺れる見渡す限りの麦畑。 遠くには青々とした山脈が連なり、空はどこまでも高く澄み切っている。
(なんて綺麗な風景……。この美しい国を、彼が命を懸けて守っているのね……)
私は馬車の窓からその景色を眺めながら、ふと視線を前に向けた。 使節団の先頭を行くのは、陽光を弾いて輝く黒鉄の鎧を纏ったクラウン様と、彼の相棒である巨大な白竜だ。 銀糸の髪が風に揺れ、真っ直ぐに前を見据えるその横顔は、前世の漫画で見たどのコマよりも美しく、そして……どこか近寄り難い、孤独な空気を感じさせた。
「団長! そろそろ日が暮れます。この先の川辺で野営にしましょう!」 クラウン様の右腕である明るい副団長、ゲイルが声をかける。 「ああ。各員、野営の準備にかかれ。使節団の馬車を中央に配置し、周囲の警戒を怠るな」 低く、よく通るクラウン様の声が響き渡った。
日が落ち、川辺にいくつかの焚き火が焚かれた。 騎士たちは手際よくテントを張り、魔術師が指先から小さな火球を出して薪に火をつける。(この世界の魔法はこれくらいが限界だ。便利な着火剤程度の役割しかない)。
「オルン殿。本日は長旅でお疲れでしょう。食事は我々騎士団から配給しますので、馬車の中でお休みになっていてください」 野営の準備が整った頃、クラウン様自らが私の馬車に声をかけに来てくれた。 その手には、騎士団の標準的な携帯食料――カチカチに乾燥させた塩漬け肉と、石のように硬い黒パンが握られている。
(……出たわ。原作でもクラウン様が『味のしない砂を噛んでいるようだ』と表現していた、あの絶望的な携帯食料!)
騎士団は常に死と隣り合わせのため、食事の味など二の次なのだ。しかし、料理の出来ない彼は、これから何日もこのカチカチの保存食を食べ続けることになる。 限界オタクであり、推しの胃袋を救うために料理スキルを極めた私が、そんな悲劇を黙って見過ごせるはずがなかった。
「お待ちください、クラウン団長」 私は馬車から降り、氷の外交官としての態度を保ちながら、彼を呼び止めた。
「食事の用意は、私がいたします」 「……は? オルン殿が、ですか?」 クラウン様が、驚いたように氷藍色の瞳を瞬かせた。
「ええ。皆さんは日中の警護で疲労が溜まっているはず。ここは私が腕を振るいます。ゲイル副団長、荷馬車から私の私物の木箱を下ろしていただけますか?」 「は、はいっ!」 ゲイル副団長が慌てて持ってきた木箱を開けると、中には私が王都から持ち込んだ愛用の調理器具と、様々な調味料、そして道中で密かに採取しておいた野草やキノコがぎっしりと詰まっていた。
「オルン殿、お気持ちはありがたいですが、貴族の令嬢にこのような野外での炊事をさせるわけには……」 「私は没落寸前の貧乏男爵家の出ですから。自炊はお手の物です。それに、これからの過酷な交渉と護衛を乗り切るためには、温かくて栄養のある食事が必要です」
私は彼の制止を断り、エプロンを身につけて焚き火の前に立った。
手際よく鍋に清流の水を張り、騎士団の硬い塩漬け肉を細かく刻んで水から煮出す。 (このお肉、そのまま焼くと硬くて塩辛いけど、煮込めばいい出汁が出るのよね!)
肉から旨味と塩気が溶け出したところに、道中で摘んだ風味豊かな野草と、香りの強い野生のキノコを投入する。 さらに、隠し味として王都から持参した『魔豚の骨からとった粉末スープ』と、少量のミルクを加えてコクを出す。 最後に、石のように硬い黒パンを一口大に砕いて鍋に入れ、スープの旨味をたっぷりと吸わせて柔らかく煮込んだ。
グツグツという音と共に、焚き火の周囲に、胃袋を鷲掴みにするような香ばしくも濃厚な匂いが漂い始めた。
「……なんだこれ、めちゃくちゃいい匂いがするぞ……!?」 「腹が……腹が鳴って死にそうだ……!」 周囲で休んでいた騎士たちが、吸い寄せられるように鍋の周りに集まってくる。遠くで休んでいた白竜のシロまで、『キュルルゥ……』とよだれを垂らして首を伸ばしてきた。
「完成です。『塩漬け肉とキノコの特製ミルク煮込みパン』。温かいうちにどうぞ」 私は木椀にたっぷりとスープをよそい、まずは護衛の責任者であるクラウン様へと差し出した。
「…………」 クラウン様は、信じられないものを見るような目で私と椀を交互に見比べた後、恐る恐るそれを受け取った。
「頂きます」 彼が木のスプーンで、スープを吸ってトロトロになったパンと肉をすくい、口へと運ぶ。
その瞬間。 クラウン様の動きが、ピタリと止まった。
氷藍色の瞳が見開き、瞬きを忘れたように虚空を見つめている。 (ど、どうしよう。お口に合わなかった!? 牛乳の風味が強すぎたかしら!?) 私が内心で冷や汗を流していると。
「……美味い」 ポツリと、彼の口から低く震えるような声が漏れた。
「こんな……温かくて、体全体に染み渡るような食事は、いつぶりだろうか。硬かった肉が嘘のように柔らかく、キノコの風味が……」 クラウン様は、そこから先は無言になり、ただひたすらに、夢中でスープを口に運び始めた。 普段の隙のない冷徹な騎士団長の顔ではない。まるで、久しぶりに実家に帰って母親の手料理を食べた子供のような、無防備で、心の底からホッとしたような表情。
(ああ……っ! クラウン様が、私の料理を美味しそうに食べてくれている……!) 私は、感極まって泣き出しそうになるのを必死に堪え、氷の外交官としての澄ました顔を維持した。
「さあ、皆さんにもたくさんありますよ! おかわりも自由ですからね」 「うおおおおっ! オルン殿、一生ついていきます!!」 ゲイル副団長をはじめとする騎士たちが、歓声を上げて鍋に群がる。白竜のシロにも、大きめの桶にたっぷり入れてやると、夢中で顔を突っ込んで食べていた。
食後。 騎士たちが満足して眠りにつく中、私は一人、焚き火の前で鍋の後片付けをしていた。
「手伝いますよ」 と、背後から声がして、クラウン様が私の隣にしゃがみ込んだ。 「クラウン様。いけません、団長に洗い物など……」 「俺は料理が全くできない不器用な男です。洗うことくらいさせてください。……それに、あの極上のスープの礼がまだでしたから」
彼は布巾を受け取り、私の洗った木椀を丁寧に拭き始めた。 薪のパチパチとはぜる音だけが、静かな夜の川辺に響く。 見上げれば、こぼれ落ちそうなほどの満天の星空が広がっていた。
「……驚きました。王城で『氷の外交官』と恐れられる貴女が、これほど温かく、家庭的な料理を作れるとは」 クラウン様が、焚き火の光に照らされた横顔で、静かに語りかけてくる。 「俺は平民の出で、幼い頃から剣を振るうことしか知らず、食事はただ生きるための『作業』でしかありませんでした。……ですが、今日の貴女のスープを飲んで、食事が『幸せ』なのだと気づかされました」
その言葉に、私の胸の奥がギュッと締め付けられた。 (原作のあなたも、そうやって一人で孤独に戦い続けて……最後は飢えて死んでしまったのよね。でも、もう絶対にそんな思いはさせないから)
私は、氷の仮面をそっと下ろし、彼に向かって心からの――前世からずっと彼に向けていた、柔らかく温かい微笑みを浮かべた。
「私は、美味しいものを食べている人の顔を見るのが好きなんです。……だから、護衛の任務が終わるまで、食事のことは私に任せてください。クラウン様にも、もっともっと美味しいものをたくさん作って差し上げますから」
「…………っ」 クラウン様が、私の笑顔を見た瞬間、ほんの少しだけ息を呑み、目を丸くした。
「……どう、されました?」 「……いえ。貴女は……不思議なお方だ。王城で見せる冷たい顔よりも、今の焚き火に照らされたその笑顔の方が、ずっと……」 クラウン様は言葉を濁し、ふいっと顔を逸らしてしまった。 暗くてよく見えないが、彼の耳の先がほんのりと赤く染まっていたことに、私は気づかなかった。
「ただの仕事仲間」として同行したはずのこの護衛任務。 この豊穣の谷での星空の下の一杯のスープが、孤独だった最強の竜騎士の心に、小さな、けれど決して消えない『温かな火』を灯した瞬間だった。




