56. 緊急勅令条項第十七項
突き当たりの壁の前で、リーシェは立ち止まった。
「ナイナイ」
壁が消え、隔離された下り階段が現れた。石造りの狭い階段が、地下へと続いている。松明の灯りが壁面を揺らしていた。
「あぁぁぁ! なぜ隠し階段まで突破されとるんだぁぁぁ!」
遠くで参謀総長の悲鳴が聞こえてくる。国王さえ守っていればチャンスはあると考えていたのに、最短距離で国王へと迫られてしまっているのだ。
『なぜって、私がついてるからに決まってるじゃない。キャハッ!』
リリカは楽しそうに笑った。
リーシェは階段を降りていく。
地下の通路。冷たい空気。突き当たりに、鉄の扉。
『ビンゴ! 国王みーっけ!』
リリカは腕を突き上げる。
「ナイナイ」
扉を消すと向こうに、部屋が見えた。
緊急執務室。
小さな部屋だった。机と椅子。蝋燭の灯り。壁に掛けられた王国の地図。そして――二人の警備兵が剣を抜いて構えている。
「ナイナイ」
警備兵が消えた。
「キャァァ!」
部屋の隅にいた侍女が悲鳴を上げ、隅っこで縮こまって震えている。
リーシェはあごで『去れ』と指示すると、真っ青になって逃げだしていった。
出ていくのを確認したリーシェは鉄の扉を元に戻す。いよいよ本当の意味での交渉が始まる。邪魔が入られては困るのだ。
◇
部屋の奥に、一人の男が立っていた。
ひげを蓄えた五十代の男。赤い衣に金糸の刺繍。だがその顔は真っ青で、手に握った剣が小刻みに震えていた。
国王だった。
「き、貴様……! このような狼藉、許されんぞ……!」
国王が剣をリーシェに突きつけた。刃先が震え、蝋燭の灯りを反射してちらちらと光る。
リーシェは、その剣を見つめ――。
「ナイナイ」
剣が消えた。
国王の手の中から。柄から刃まで、一瞬で。握りしめていたはずの手が、空を掴んでいた。
「ひっ……!」
国王が後ずさった。背中が壁にぶつかる。逃げ場がない。蝋燭の灯りが、恐怖に歪んだ国王の顔を照らしていた。
リーシェはその顔を見つめた。無表情のまま。
怖がらせたいわけでも脅したいわけでもなかった。ただ、契約をしてほしいだけなのだ。静かに暮らすために。それだけのために、こんな大事になってしまった。
――ほんと、タルい。
「宰相が、陛下のご裁可が必要だとおっしゃるので、やってきました」
リーシェの声は、淡々としていた。王の前に立つ者の声ではなく、面倒な手続きを片付けに来た者の声。
リーシェは右手を国王の横に翳した。
「出ろ」
宰相グレンヴァルが、虚空から現れた。会議室で消されたままの姿勢で、足元がよろめく。慌ててキョロキョロし――国王の姿を認めて我に返った。
「はい。説明して」
リーシェは面倒くさそうに指示した。
「へ、陛下……申し訳ございません……」
「何をやっとるんだ、貴様……!」
国王の声は怒りに震えていたが、その奥にある恐怖を隠しきれていなかった。
「いいから早く契約を……」
リーシェはウンザリしながら言った。
宰相が必死に食い下がる。
「国が絡む魔法契約というものは、そう簡単にできるものではないのだ! 法務官の審査が必要であり、枢密院の承認を経て――」
『何言ってんのよ。王の裁可があればすぐにできるわよ。緊急勅令条項の第十七項に明記されてるじゃない』
リリカの声が、呆れたようにリーシェの中で響いた。
「緊急勅令条項の第十七項を適用してください」
リーシェが無表情に詰め寄った。
宰相の顔が、さらに歪んだ。
ごまかしきれない。一体この少女は何者なのだろうか? と、宰相は絶望に支配された。
「くぅぅぅ……」
「嫌なら陛下も消えていただいて、この国ごともらってもいいんですよ?」
リーシェは淡々と言った。もちろん本気ではないが、あまり時間もかけていられなかった。
「な、何を言うか、貴様!!」
国王が真っ赤になった。恐怖が怒りに反転し、王としての矜持が辛うじて背筋を伸ばしている。
「そうだ、陛下を消したところで国は回らんぞ! 国というのはそう簡単なものではない! 行政の統括にしても、金融政策にしても、外交にしても、多くのノウハウと経験なくしては何も――」
『バカじゃないの? そんなの私がやるわよ』
リリカが、けろりと言った。
「リリカさんが新国王になるそうです」
「は?」「はぁっ!?」
国王と宰相の声が、同時に裏返った。
「アステリア家が王位を引き継ぐってことですかね。リリカさん、頭もいいし、魔法も強いし、適任じゃないですか?」
『やだぁ、持ち上げないでよぉ。でもまぁ、やれって言われたらやるわよ? 今の国王よりマシに回す自信あるし。キャハッ!』
リリカはまんざらでもない様子だった。
「ななななな、何を言う!!」
国王の顔が、赤から紫に変わった。
「それはクーデターだ! 反逆だ!!」




