「なぜ泣いているのですか?」
「優斗くん、広香がね……」
優斗が広香の病室に行けなくなってからひと月ほど。広香の両親から電話があった。慌てて病院へと急ぐ。
広香の記憶がなくなった。
優斗に関する記憶なのか、それとも広香の両親も含まれているのか。それはわからなかったが、もしすべて忘れていたのだとしたら。また恋人に戻れるのではないかと、優斗は期待を抱いた。
「えっと、こんにちは」
広香は病室に駆け込んだ優斗に少し驚き、あまりにも必死なように見えたので笑いながら挨拶をする。その笑い方はまったく変わらなかったために、優斗は少し安堵した。
「広香、大丈夫なのか?」
馬鹿げた問いだった。大丈夫じゃないから優斗が呼ばれたというのに。それを自覚し、照れ隠しに笑う。
「はい、大丈夫です。何も覚えてないんですけど、これ以上悪くはならないって言われたので」
話す内容から、何もなくなってしまったのだと優斗は理解した。恋人同士だった期間も、幼いころから一緒に過ごしてきた時間も、……拒絶したことも。
何もわからない広香に、自分たちは恋人同士だと言い、関係を再構築することは可能だろうか。そんなことを優斗は考えていた。
「あ、あなたにこれを……」
「?」
広香が優斗に渡したのは封筒と一冊のノートだった。
「引き出しに入っていて、あなた宛でしたから、たぶんこれでいいはずです」
「開けていいのかな?」
「たぶん」
広香は何も覚えていない。これであっているのかもわからない。優斗は一応聞いた後、躊躇なくノートを開いた。びっしりと書いてある、日記というより記録と思われる文字の羅列。何色かのペンで装飾されている。
優斗のこと、両親のこと、友達のこと。話したこと、忘れたことに気付いたこと、思い出せないこと。そのときどきの気持ちが書いてあるわけではないが、筆跡の乱れから推測できる。特に名前や特徴が書いてあるページには折り癖がついていて、何度もペンでなぞった跡があった。忘れないように繰り返し書いたのだろうか。
続けて封筒を開けた。
* + * + * + * + *
自分が剥がれ落ちていく感覚。
記憶があるうちに死にたいの。
あなたを忘れてしまうのはとても苦しいから。
でも毎日のように来てくれるあなたに期待してしまう。
次に会ったら、次に会ったら。
そしてまた日々を重ね、欠落していく。
あなたがこの文章を読んだときには、
私はもう何も覚えてないのかもしれない。
とても優しい時間をありがとう。
本当に好き、でした。
過去形になってしまうのがとても悲しい。
あなたは何もなくなってしまった私を好きでいてくれるかな。
恋人同士でいてくれるかな。
もしそれが叶っても、ずっと一緒にいてくれると言ってくれても、
それは私ではないんだ。
私は、今、ここにいる、あなたの記憶を持った存在。
また一から思い出を築く存在じゃない。
少しずつ忘れていく私も、既にあなたの知っている私じゃない。
さようなら。私は死にました。忘れてください。ごめんね。大好き。
* + * + * + * + *
手紙は遺書のようだった。いや、確かに遺書なのだろう。消える記憶、思い出。確かに存在していた広香はもう過去のものとなってしまった。
「なぜ泣いているのですか?」
「ごめん……ごめんな……」
不思議そうに優斗を見上げる広香。拒絶されても通うのを止めなければよかった。手袋を取りに戻ればよかった。あの日、笑って別れたらよかった。優斗は後悔に襲われていた。
しかし今の彼女にとって優斗は知らない男。手紙を握りしめて泣くことしかできなかった。
泣いている優斗の手を広香が包み込む。
驚いた優斗が顔を上げて広香を見た。
「なんだか、安心しませんか? ずっとこうしてもらった気がするんです」
優斗の涙は止まらない。
「……ありがとう」
絞り出すように礼を言い、優斗は泣き続けた。




