「もう、来なくていいよ」
広香は封筒に何枚か便箋を入れた。宛名は優斗。糊付けをし、引き出しに入れる。それと交換でノートを取り出し読む。わからない名前が増えた。もう両親の名前も思い出せない。広香はため息を吐いた。
全てを綺麗に忘れたら、また覚え直すことができる。
言い換えれば、綺麗に忘れるまではさっきのことすら思い出せなくなってしまう。
広香は怖くて仕方なかった。両親が持ってきてくれたアルバムも、忘れている事実を突きつけてくるだけで、ただ寂しさだけが募った。写真の場所には確かに行った。何人かで遊んだ気もする。ただ、誰かはわからない。その中に優斗もいたのだろうか。
広香はもう、幼馴染で恋人の優斗、という関係しかわからない。思い出は消えてしまった。好きという気持ちは残っている。おそらくこの気持ちすらなくなるのだろう。もう時間はない。
だから、いっそ。
「優斗、別れよう」
「え?」
「もう優斗のこと好きじゃないの。わかんなくなっちゃった。一緒にいる意味もないし」
広香の、精一杯の強がりだった。あなたに興味はない、と伝えられるように、必死で演技する。
「キッカケも何も思い出せないの。好きでいる理由がないの。わかる?」
「……」
優斗は無表情で広香を見つめた。怒っているようでも、悲しんでいるようでもあった。
「もう、来なくていいよ」
決定的な言葉。広香が絶対に言いたくなかった言葉。でもそれ以上に、優斗が自分に縛られるのが嫌だった。
「広香が、それを選択するなら、何も言わない」
しばらくの沈黙のあとに優斗が発した言葉。広香は知らず知らずのうちに俯いていて、優斗の表情を見ることはできなかった。
広香が最後に見たのは、大好きな優斗の笑い顔ではなかった。
「はい、はい、そういうことです」
優斗は病院を出るとすぐさま電話をかけた。
「そのときは、お願いします」
相手は広香の両親。ほぼ毎回、広香の見舞いのあとに報告をしていた。と言っても広香が隠していることや会話内容ではなく、身体的に元気そうだったかどうかを言う程度だったのだが。
広香の両親は忙しく、週一で見舞いにくるのもやっとだった。優斗はその状況も考えて、できる限り寂しい思いをさせないよう、行く頻度を多くしていた。
しかし今日は、広香に拒絶されてしまった。今後、見舞いには来ることはできない。その理由をバイトや勉学が忙しくなったからだと伝えた。広香本人に来ないでくれと言われたなんて、言えない。
広香が嘘を吐いたことはわかっている。でもそれはかなり悩んだ末の決断だろう。愛する人の決意を砕くことはできなかった。それが双方望んでなかったものだとしても。
「あ、手袋忘れた」
寒さで気づく。優斗は病室に戻ろうとして、思いとどまった。あとで広香の両親に回収してもらおう。
優斗にはもう、直接会うという選択を取ることはできなかった。




