「来ないのかと思った。来てくれて嬉しい」
広香は屋上が好きだ。珍しくこの病院は屋上が開放されている。フェンスにつかまりながら町を見る。このまま、記憶があるうちに。そんなことを思っていた。
「やっぱりここか」
男の声。看護師に見つかったかと一瞬思ったが、聞きなれた声だったので焦りもすぐ消える。
「町が見えるからね。景色綺麗だし」
「冷える前に部屋に戻るぞ」
優斗は広香の手を掴む。優斗の手の温かさを感じ、広香は少し嬉しくなった。まだこの温もりを独り占めできている。ぐっと握ると握り返してくれる。そんな日々が続きますようにと広香は強く願った。
部屋に戻った二人はいつも通り他愛もない会話をした。
あの時から、優斗は知り合いの話を出さなくなった。広香はそれに気づいていたが、何もないように振る舞った。当たり障りのない話題。広香が出す話題に相槌を打つ優斗。
「優斗、あのね……」
「どうした?」
少しの沈黙。広香は意を決したように優斗の目を真っ直ぐ見つめる。優斗もまた、その目を見つめ返す。
「お医者様に言われたんだけど、この病気は、一度綺麗に記憶が消えてしまうと、また新しく覚え直せるらしいの。……もし私が全部忘れても」
「大丈夫だ。すぐよくなるよ。今の医学はすごいから」
広香の言葉を遮って優斗は言う。忘れるなんて認めないとでも言うように。現実を受け入れていないのは優斗の方だったのかもしれない。
「……うん」
広香は目を伏せた。しかしすぐに顔を上げて優斗を見る。その行動が、優斗を忘れないように脳に焼き付けようとしているように見えた。
「手、ちょうだい」
広香がそう言うと優斗は黙って両手で包み込んだ。暗闇の中に沈んでしまう自分を、愛しい人に引っ張り上げてもらえるような感じがして、広香はここ数日、よく手を求めていた。
優斗も広香の安堵を感じ取り、できる限り要望に応えるようにしていた。
「ねえ、やっぱり、私は」
「大丈夫だって。広香は心配性だな」
根拠などない。それでも優斗は大丈夫と繰り返す。自身に言い聞かせるように。
「私が優斗のこと忘れちゃったら、ここの引き出し開けてね。お母さんやお父さんには見られたくない物が入っているの」
「そんな日、来ないよ」
優斗は頑なに認めない。広香はそこが嬉しくもあり、寂しくもあった。自分の中から優斗が消えてしまったら、どうなるのだろう。怒るのか、悲しむのか。予想できなかった。広香自身も、優斗にどのような行動をとってほしいのか、わかっていなかった。
「眠くなっちゃった」
「大丈夫か?」
「手、握っててね。そうしてくれたら、大丈夫な気がするの」
広香の病は睡眠時に進行する。起きるたびに何かが欠けている。何が、は全くわからない。欠けたことすら気づけない。それを自覚してから悲しくて苦しくて、広香は眠りにつく前にいつも泣いていた。
そんなこともあり、長い間あまりよく眠れていなかった。
今日は優斗がいるから大丈夫だ。起きたら一番に見る顔が優斗だから。きっと今日は忘れない。消えない。そう思っていたから、欲求に身を委ねた。
「参った」
優斗は広香が寝たのを確認してからぽつりとつぶやく。今日もバイトが入っている。広香はもう「バイトをしている優斗」を認識していない。もしかしたら、同じ大学に入っていることすら忘れているのかもしれない。
「風邪ひいたことにしよう……。病室で携帯はさすがにまずいかな」
繋いでいた手を離す。携帯を使えるエリアまで行き、店長に休む旨を伝えた。特に忙しい時期ではなかったため、詮索もされずに休みを取れた。すぐに広香の病室へと戻る。
広香は起き上がっていた。
まずい、と優斗は思った。長電話をしていたわけではないのに、こんなに短時間で起きるなんて。不安にさせてしまったかもしれない。泣いているかもしれない。慌てて広香のベッドの前に行く。
「広香、ごめん」
「優斗?」
広香は怒っても泣いてもいなかった。窓の外を見ながらぼーっとしていたようだ。優斗は少し安心して、それでも約束を破ってしまったことを謝らなければと、再び口を開こうとした。
「今日は遅かったね」
しかし広香の一言で優斗の思考は止まる。
「来ないのかと思った。来てくれて嬉しい」
優斗は広香が手を離してしまったことに怒ってこういう振る舞いをしているのかと疑ったが、どうやら本当に優斗が訪れたことを忘れてしまっているらしい。以前調べた病気の症状が頭の中で暴れる。
「さっきから」
ここまで言って、口を噤む。余計なことを言ってしまった。さっきから一緒にいるじゃないか。そんなことを言っても誰も得しないことはわかっていた。
「私、忘れてる……?」
優斗は思わず視線を逸らした。それは答えを言っているようなものだった。
「ごめん、優斗。今日は帰って」
広香の声は震えていた。優斗にはベッドの柵しか見えない。後ろめたさから顔を上げることができなかった。
「ごめん……」
「お願い、帰って」
泣き声で、しかし力強く言われてしまい、優斗は病室を後にするしかなかった。




