「また、忘れちゃったのかと思った」
広香は開いていたノートを閉じ、引き出しに入れた。机を取り外しベッドに横になる。真っ白なベッド。クリーム色の壁。ここは病室だ。
広香が入院して今日で一か月になる。罹った病気はとても珍しく治療法も見つかっていない。ただ、死に繋がるものではないため、そのまま日常生活を続ける者も多い。広香は治験に協力するという選択肢を取ったため、長く入院することになった。
「広香」
病室の入り口から声がしたのでそちらを見ると男性が立っていた。年齢は広香と同じくらいだろうか。典型的な大学生といった感じの格好だ。
「優斗」
男性を見てにこりと笑う広香。
広香と優斗のふたりは恋人同士で、優斗は広香が入院してからほぼ毎日病室に通っている。恋人という関係になってから日は浅いが、付き合いは長い。親同士が仲良く、幼いころから遊ぶことが多かった。
「大学は?」
「水曜は全休だってば」
「……ごめんね」
その返事を聞いて、広香は思わず謝り、目を伏せる。
また忘れている。その事実を何度となく突きつけられているが、慣れない。
広香の病気は記憶が少しずつ消えていくものだ。その記憶は人物に関するものだけで、日常の行動には全く支障はない。治療法はなく、進行を遅らせる薬もない。忘れていく思い出の中にはもちろん親のことも恋人である優斗のことも含まれている。
「……ごめん」
続けて優斗も謝り、沈黙が訪れた。
優斗は広香の症状を知っている。広香の両親から説明を受けたし、自分なりにインターネットやパンフレットで調べた。それでも何度も言ったことを忘れられていると苛立つ。どうしても感情が先に出てしまうのだ。傷つけてから気づく。幾度となく繰り返してしまっていた。
「あ、今日はね、紗奈が来たの」
「そうなんだ」
沈黙を破ったのは広香だった。
「みんなには病気のこと、詳しくは言ってないんだけど、いきなり休学したから驚いたみたいで」
共通の知り合いの名前を出す。広香はこの一か月、会えていない人々のことは忘れてしまうのではないかと恐れていた。久々に会った友人と特に違和感なく話せたので安堵したと気持ちを優斗に伝える。きっと薬が効いていて進行が止まっているのだろうと、希望を抱く。
それもすぐに砕かれた。
「そういえば琴音も心配してたぞ」
「こと、ね?」
知らない名だ。広香は初めにそう思ったが、優斗の話しぶりから自分も知っている人らしいということはわかった。わかったのだが、全く思い出せない。
不思議そうな顔をした広香を見て、優斗は焦った。琴音は大学に入ってからの知り合いで、所属しているサークルの後輩だ。人懐っこく多くの先輩に可愛がられている。広香も例外ではなく、よく二人で出かけていた。広香はそれを覚えていない。
「サークルの後輩だよ」
「ごめん、わからない」
「もしかして接点なかったのかな。サークル人多いし」
優斗は広香が忘れていく記憶を自覚してしまうことがないように振る舞いに気を付けているつもりだった。そのような、逃れられないつらさを体験してほしくはなかった。だから、誤魔化した。
「また、忘れちゃったのかと思った」
その気遣いを見透かして、広香は言葉を返す。優斗に顔を向けて笑う。全く思い出せない琴音に心の中で謝り、恐怖した。この調子で何もかも忘れてしまうのだろうか。布団を強く掴む。不安に塗り潰されないように。
「俺の知り合いでも広香と仲良いって限らないもんな。不安にさせてごめん」
二人でいるときは謝ってばかりだなと優斗は思った。失言ばかりだ。もう見舞いに来ないほうがいいのかもしれない。いつもそう思ってしまうが、見舞いを止めたら、きっと広香の中の優斗という存在が消えてしまうのだろう。それが怖くて毎日のように通っている。ずっと一緒にいた相手に忘れられる。想像したくもないことだった。
「じゃあそろそろ行くわ。バイトの時間だ」
「わかった。バイト頑張って。またね」
もっと一緒にいてほしい。広香は言葉を飲み込んだ。今は覚えていても明日はどうかわからない。今日の時点で、優斗の生活サイクルがわからなくなってしまっている。ほんの少しでも一緒にいる時間を長くしたい。ずっと一緒にいるなら忘れる暇も無いだろうから。しかしそれは叶わない。優斗には優斗の生活がある。だから広香は見送ることしかできない。
「今度来るときは何か持ってこようか?」
「大丈夫。優斗が来てくれるだけで幸せ」
広香は笑う。これは本心だ。好きな人に愛されて、あとは何もいらない。好きな人と一緒にいるだけでいい。この好きという感情すら消えてしまうのだろうか。ネガティブなことしか考えられない。泣いてしまう前に優斗を送り出さなければ。
「俺も愛されてるなー。と、本当に遅刻する。じゃあまたな」
手を振りながら病室を後にする優斗。それを見送って、広香は引き出しからノートを出す。
ノートには毎日の出来事が書いてあった。見直しても覚えていない部分が多い。それは普通のことなのか、症状のせいなのか、広香にはわからなかった。




