(Side:エリック・アダプトン#2)
六歳になる頃、エリックは「でんしゃ」と言わなくなった。
忘れたことに本人は気づいていなかった。
村の荷車を見ても、鉱山の軌道車を見ても、それは荷車と軌道車だった。
魔道スクリーンはテレビではなく、スクリーンになった。
灯りを消すときも壁を探さず、呼び石へ自然に手を伸ばすようになった。
父は、それを喜んでいるようにも、寂しがっているようにも見えた。
「前に、おまえは変な言葉をいくつか知ってたんだぞ」
夕食のあと、父が冗談めかして言ったことがある。
「どんな?」
「それを言うと、また覚え直すだろ。先生に怒られる」
エリックは笑った。
「だったら、言わなくていいよ」
――本当に、知りたいとは思わなかった。
ただ、なくならないものもあった。
玄関では、ときどき靴を脱ぎそうになるし、大きな魔道駆動車が暗い道で正面から近づくと、理由もなく母の手を強く握った。
雨の日には、濡れた石畳の匂いを嗅いだ瞬間、知らない街の影を思いだすことがある。
その影には名前がない。
高い建物があり、沢山の窓があった。
夜なのに明るいし、人が多い。
みんなが急いでいた。
雨粒のついた透明な傘らしきものを持って歩いている。
それ以上、思い出そうとすると、朧気になった。
ある日、学院から帰る途中で雨が降った。
母は鞄から折り畳み式の防水布を取り出し、二人の頭の上へ広げた。
魔方陣で浮いて、雨を風魔法で遠ざける道具だ。
この世界では普通の雨具だったが、エリックはそれを見上げて、何故か笑った。
「どうしたの?」
「これ、へんだ」
「何が?」
「前のは、透けていた気がする」
母は足を止めなかった。
「そう。きれいだった?」
「たぶん。いっぱい雨がついてた」
「誰と歩いてたの?」
母の問いに、エリックはしばらく考えた。
昔なら、ここで胸が苦しくなったはずだった。
でも、今は、ただ遠い夢を探るような感じしか、しない。
「わかんない。でも、誰かが『傘持った?』って言ってた」
「かさ?」
「うん。これのこと。たぶん」
母はその語を繰り返さなかった。
研究協会から、大人が未知語を何度も復唱すると、本人の記憶と後から覚えた言葉の区別がつかなくなる、と教わっていたからだろう。
代わりに、防水布をエリックの方へ少し傾けた。
「雨に濡れたくなければ、今はこれで我慢してね」
「うん」
二人で歩いた。
石畳を打つ雨音が少しだけ強くなり、その向こうで、聞いたことのないはずの短いピッという不思議な音が鳴った気がした。
振り返っても、そこには魔道灯の光しかなかった。




