(Side:エリック・アダプトン#1)
エリックには、「前の世界」がいつも見えている訳ではなかった。
朝、目を覚ませば、天井には薄青い魔道灯が浮いている。
窓を開ければ畑の向こうを荷役ゴーレムが歩き、父が土の精霊へ今日の水量を相談している。
姉たちは井戸の横で口喧嘩をし、兄は魔力を通した鎌で麦の茎を試し刈りしていた。
エリックにとって、家族はこの家族であり、自分の名前は、エリックだった。
ただ、ときどき、一瞬だけ、違う、と思うことがあった。
たとえば、玄関だった。雨の日に外から戻ると、靴底へ泥がついている。
母は、マットで泥を落とした後、そのまま入っていいと言う。
でも、敷居をまたぐ直前で、胸の奥がむずむずして、足が止まる。
そこに何かがある気がするのだ――段差か、境目か。
いや、『ここから先は靴では入らない』という決まりかもしれない。
その理由は思いだせなかった。思いだせないのに、靴のまま一歩進むと、悪いことをしたような気持ちになる。
ある晩、母が笑って言った。
「また止まっているわね。脱ぎたいなら脱いでもいいの。でも、明日の朝、自分で履きなさいね」
「みんな、脱がないの?」
「寝室でなければね。どうして?」
エリックは、答えられなかった。「そうだったから」と言いかけたのだけど、その「そう」がどこにあるのか分からなくなった。
代わりに靴を脱ぎ、姉のぶんまで壁際へ揃えた。
姉は、「またエリックの変な並べ方」と笑ったが、その晩は、不思議とぐっすり眠れた。
魔道灯も、ときどき何か違うもののように見えた。
家の灯りは、壁の呼び石へ触れて魔力を少し流せば、ゆっくりと暗くなった。
便利だし、怖くもない。
なのに、眠いときだけ、手が勝手に壁の別の場所を探した。
指先で押せる、小さく硬いものがあるはずだと思った。
見つからないと、胸の中へ、何か埋まらないものがあるように感じた。
「すいっち」
昔は、その穴の名前を知っていた。
今では、どうしてそれを『すいっち』呼ぶのかも分からない。
家から村の中央へ行くときは、もっと困った。
道には荷馬車も魔道駆動車も通るが、横断場所を示すのは地面に刻まれた安全紋だけだ。
紋が白く光れば歩行者が優先され、橙なら車両が優先される。
大人は道になにもいなければ、橙でも渡る。
エリックには、それが落ち着かなかった。
「まだだよ」
母が道へ出ようとすると、何度か腕を引いたことがある。
「赤じゃないけど、まだ。青になってから」
「青には、ならないわよ。この紋は白か橙だけね」
言われてみれば、その通りだった。
エリックは恥ずかしくなって手を離した。
でも、向こうから大きな魔道駆動車が近づいてくると、喉の奥がぎゅっとして、光る白いものが目の前へ迫る感じがした。
何が迫ってくるのかは、思い出せなかった。とにかく、その大きなモノが怖かった。
近所の工房にいる四本腕のゴーレムは好きだった。
大きいが、動きはゆっくりで、命令された荷物しか運ばない。
最初に見たときだけ「ロボット」と口にして、兄に笑われた。
「ロボットって、何だよ?」
「こういうの」
「じゃあ、ゴーレムでいいだろ?」
兄の言うことは正しかった。
それからエリックもゴーレムと呼ぶようになった。
呼び方を一つ覚えるたび、前の名前が一つ消えるような気がした。
それが、悲しいのか寂しいのか、自分でも分からなかった。
もちろん、母が作る豆と根菜の煮込みは好きだし、姉たちと納屋の裏で遊ぶのも好きだった。
父と畑へ出れば、芽の出た麦を見つけるのが楽しい。
なのに、食卓へ座った瞬間、四角い薄い板を探してしまうことがある。
誰かから連絡が来ていないか確かめなければならないような気がして、何もない自分の服を触るのだ。
「また探してる」
姉が、からかうように告げる。
「何を?」
「それをこっちが聞いてるのよ!」
エリックは笑ってごまかした。
たぶん、何かを持っていた。手のひらに収まる、黒くて平たいものだ。
そこまで思うと、その先は霧の中だった。
前の自分が男だったのか女だったのかも、何歳だったのかも、分からない。
名前を聞かれるのが一番嫌だった。
名前だけは思い出せそうな気がするからだ。
舌の奥まで出てきているのに、声にすると別の音になった。
代わりに、どうでもよさそうなものばかり、覚えていた。
濡れた道路の匂い、透明な傘についた雨粒、狭い場所に大勢が立ち、同じ方向へ揺れる感覚――。
小さな音が鳴ると、人々が一斉に歩き始めること、紙の袋から出した温かい食べ物の匂い、夜なのに明るい看板、遠くで響く、短い旋律――。
大事な人の顔は思い出せないのに、そういう記憶だけが残っていた。
ときどき、母の顔を見ている途中で、別の声が重なる。
――傘、持った?
声の主の顔は思いだせない。
母なのか、女の人なのか、それさえ分からない。
ただ、その声を思い出すと胸が苦しくなるので、エリックは、今の母の袖を握る。
「どうしたの?」
「なんでもない。お母さん、今日、雨降る?」
「午後は降るかもしれないわね。魔道ラヂオで言っていたわ。傘、持っていく?」
同じ意味の言葉を、違う声で聞く。
そのたびに、二つの家が一瞬だけ重なった。




