8.生きるための槍
間近で対峙する黒竜の存在感は、異常という言葉すら生ぬるいものだった。
一般的な一軒家ほどもある巨大な頭部。城壁をそのまま横に倒したかのような分厚い胴体。一本一本が樹齢数百年の大木に匹敵する、強靭な四肢。
トーマは、喉の奥がカラカラに干からびるのを感じながら、必死に生唾を飲み込んだ。これはもはや「生物」との戦いではない。押し寄せる土砂崩れや、巨大な台風を相手に槍一本で立ち向かうような、無謀極まりない自然災害との戦争だった。
黒竜は、その黄金の双眸で洞窟内の人間たちを冷酷に見下ろすと、今一度、大気を激しく震わせる咆哮を放った。
——グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
凄まじい衝撃波が狭い洞窟内を吹き荒れ、それだけで数人の盗賊が壁へと吹き飛ばされて気絶する。
「うわああああっ! 無理だ、勝てるわけねえ!」
「逃げろ! 逃げるんだ!」
「バカ野郎、逃げた先に安全な場所なんかあるか!」
後方からディーンの怒号が飛ぶ。
「この距離で背中を見せれば、奴のブレス一発で全員が骨すら残らず消えるぞ! 生き残りたければ、死に物狂いで武器を振るえ!」
最高位ハンターの言葉には、絶望の淵にある人間を無理矢理にでも立ち上がらせるだけの重みがあった。盗賊たちが涙を流しながらも、再び武器を構え直す。
トーマは槍の穂先を黒竜の眉間へと向けた。
右隣には、すでに恐怖を乗り越えてボウガンを番えているラッシュ。左隣には、相変わらず不気味な笑みを浮かべたまま、細い鞭を指に絡めているハンジ。後方からはアンゼリカが必死に詠唱する魔法の光が、トーマたちの身体を優しく包み込んでいく。そして最前線には、そびえ立つ山のように頼もしい父親の背中。
気がつけば——いつの間にか、完璧な一つの「パーティー」として機能していた。
黒竜が動いた。ほんの一歩、その巨大な前足が地面を踏みしめただけで、洞窟の床が目に見えて陥没する。次の瞬間、視界のすべてを埋め尽くすようなスピードで、巨大な尻尾が横一線に振り抜かれた。
「伏せろおおおっ!」
ディーンの叫びと同時に、トーマたちは一斉に地面へと五体投地した。直後、頭上を凄まじい質量が通過し、背後にあった頑丈な岩壁が、まるで豆腐のように粉々に消し飛んだ。巻き上がった土砂と煙が、視界を最悪なまでに遮る。
「……おいおい、今の掠っただけでも即死だろ、反則すぎないか?」
トーマが顔を引きつらせながら立ち上がると、隣のハンジが涼しい顔でナイフを構え直した。
「あはは、だからドラゴンだって言ったじゃん。理不尽の塊なんだよ、奴らは。——ほら、ラッシュ、合図に合わせて目を狙って!」
「了解っ! 食らええええええバカ野郎!」
ラッシュが叫びながら引き金を引く。鋼鉄の矢は黒竜の右目へと真っ直ぐに飛んだが——カンッ! という硬質な音と共に、極厚の鱗に容易く弾き返されてしまった。
「嘘だろ!? オイラの最高威力の矢が傷一つつけられないなんて!」
「当然だ! アレの鱗は、並の鉄器じゃ傷一つつかん! オレが隙を作る、合わせろ!」
ディーンが地面を爆発させるような勢いで跳躍した。背中の極大斧槍が、凄まじい闘気をまとって半月を描く。
「おおおおおっ、喰らいやがれ!」
全力の一撃が、黒竜の首筋へと叩きつけられた。激しい火花が散り、強固な鱗が数枚、バリィンと音を立てて砕け散る。しかし、金剛級ハンターの全力を以てしても、巨大な肉体の表面を僅かに傷つけた程度に過ぎなかった。
◇◇◇
戦いは、文字通りの泥沼と化していった。
生き残るために必死な盗賊たちも、ディーンの指示に従って死に物狂いで突撃を繰り返す。今は一蓮托生、運命共同体だ。誰か一人でも戦線を離脱すれば、その瞬間に全体のバランスが崩れて全滅する。奇妙な、けれど絶対的な連帯感が、悪党と狩人たちの間に生まれていた。
「右から爪が来るぞ! 防げ!」
「ラッシュ、上だ! 岩が落ちてくる!」
「ハンジ、そっちの足を止めろ!」
「はいはい、了解っとー!」
ラッシュの正確な射撃が黒竜の意識を逸らし、盗賊たちがその隙に傷口へと刃を突き立てる。ディーンの斧槍が容赦なく肉を削り、ハンジの仕込鞭が黒竜の細い前足に幾重にも絡みついて、その動きを確実に制限していく。
そんな膠着状態の中、後方からアンゼリカの、割れんばかりの叫び声が響いた。
「——皆さん、下がってください! 最大出力、行きます!」
彼女が杖を地面に突き立てると、洞窟の床一面に、巨大で複雑な黄金の魔法陣が浮かび上がった。彼女の専門である、戦闘用錬金術の奥義だ。
周囲に転がっていた無数の岩石や崩れた天井の破片が、一瞬にして形を変え、数十本の巨大な「石杭」へと変形していく。
「貫けえええええええええっ!」
アンゼリカの腕の一振りに合わせて、無数の石杭が弾丸のような速度で射出され、黒竜の胴体や翼の付け根へと次々と突き刺さっていった。
——グオオオオオオオオオッ!?
黒竜が、この日初めて、明確な「苦悶」の声を上げた。強固な鱗の隙間から、ドクドクと漆黒の鮮血が溢れ出す。
「効いてる……! トーマさん、効いてます!」
アンゼリカが息を荒くしながら叫ぶ。
トーマはその声を聞いた瞬間——胸の最奥で、ずっと固く閉ざされていた何かが、音を立てて砕け散るのを感じた。
生きている。本当に、今、この世界を生きている。
前世の記憶を取り戻してからというもの、どこかで冷めた目で自分を見つめているもう一人の自分がいた。けれど、今は違う。
心臓が破裂しそうなほどの音を立てている。身体中に、熱い血が巡っている。
そして、絶対に守らなければならない母親がいる。
生きたい。この世界で、本気で生きていきたい。
その瞬間、前世の母親の笑顔が浮かんだ。
『冬真、もういいのよ』
その声は、これまでのような重さを持っていなかった。
『あんたは、その世界で、新しいお母さんと一緒に、精一杯幸せになりなさい。——元気でね、冬真』
ごめん、母ちゃん。ありがとう、母ちゃん。
オレはもう、後ろを振り向かない。




