6.英雄の影と、最悪の報せ
それからさらに一ヶ月が経過した、ある日の昼下がりのこと。事件は、前触れもなく唐突に引き起こされた。
四人がいつものように冒険者ギルドの広間で掲示板を眺めていたときだった。
突如として、ギルドの入り口付近が異常なほどに騒がしくなった。
「おい……嘘だろ、あの人がなんで王都に……」
「おい見ろよ、あの背中の得物……間違いない、あの方だ!」
荒くれ者たちが一斉にざわつき、モーセの海割りのように、入り口から中央の通路へと道を開けていく。
そこに現れたのは、周囲を圧倒する威圧感を放つ、巨大な体躯の男だった。
身長は二メータ近い。身にまとった漆黒の軽鎧には無数の傷跡が刻まれており、彫りの深い厳つい顔には歴戦の猛者だけが持つ独特の凄みが宿っていた。そしてその背中には、男の身長をも超える極大の斧槍が背負われている。
その男の姿を見た瞬間、トーマは椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。
「親父……!?」
その声に反応し、巨大な男——ディーンがゆっくりと振り向いた。ディーンは、王国でも数少ない最高位の『金剛級』に属する魔獣ハンターであり、ガトー村に居を構えるトーマの父親その人だった。
ディーンはトーマの姿を認めると、その厳つい顔の口元を、ほんの少しだけ緩めた。
「……久しぶりだな、トーマ。少しは引き締まった顔になったじゃないか」
「親父、なんで王都に……いや、それよりその顔、一体何があったんだ?」
トーマの心臓が、嫌な予感でドクドクと激しく脈打ち始める。ディーンの表情には、いつもの豪快さが完全に消え失せ、見たこともないほど暗い重さが漂っていたからだ。
「……場所を変えるぞ。ここでは話せん」
◇◇◇
ギルドの二階にある、防音の施された高位冒険者用の個室。
重い木製の円卓を囲むようにして、ディーン、トーマ、ラッシュ、ハンジ、アンゼリカの五人が座っていた。部屋の中には、針が落ちても聞こえるほどの沈黙が流れている。
やがて、ディーンが組み交わした太い指の隙間から、地鳴りのような重い声で語り始めた。
「事の始まりは、一ヶ月ほど前だ」
「一ヶ月前……ガトー村で何かあったのか?」
「ああ。ここ数年、村の周辺では不作が続いていたのは知っているか。冬を越すための蓄えが底を突きかけ、村長は仕方がなく、街の悪質な商人から多額の金を借り入れたんだ」
トーマは拳を握りしめる。前世の知識があるからこそ、そうした金貸しがどれほど恐ろしい結末を招くか、容易に想像がついた。
「だが、当然のように返済期限になっても金は集まらなかった。するとその商人は、裏で繋がっている凶悪な『黒い牙』と呼ばれる盗賊団を村に差し向けてきたんだ。村を脅し、略奪の限りを尽くした挙句——」
ディーンはギリ、と奥歯を噛み締め、机の木肌が凹むほどの力で拳を叩きつけた。
「借金の『カタ』として、リジーが連れていかれた。奴らの北の山の根城へな」
ドン、とラッシュが猛烈な勢いで立ち上がり、机を叩いた。
「ふざけんじゃねえよ! 村の、リジーおばちゃんを連れ去るなんて、絶対に許せねえ!」
アンゼリカもまた、恐怖と憤りで顔を真っ青に染め、杖を強く握りしめている。
「そんな……そんな非道なこと、あっていいはずがありません……!」
だが——そんな仲間たちの激昂の中で、トーマだけが、妙に静かだった。
頭のてっぺんから冷や水を浴びせられたかのように、心のどこかが冷めている。
母親。リジー。自分を育ててくれた、大切な人だ。
けれど、脳裏の片隅で、小さな声が囁く。
(でもさ、彼女は本当の母親じゃないだろ?)
最低だな、オレは。
トーマは自分の胸ぐらを掴んで殴りつけたい衝動に駆られた。リジーは何一つ悪くない。異世界に転生し、何も分からず泣いていた赤ん坊のオレを抱き上げ、泥だらけになりながら育ててくれた。三ヶ月前、引きこもって死んだようになっていたオレの襟首を掴んで、無理矢理外の世界へ連れ出してくれたのは、間違いなく彼女だ。
それなのに、オレはまだ、前世の記憶を言い訳にして、彼女との間に見えない線を引こうとしている。
「トーマ」
ディーンの鋭い眼光が、悩める息子の瞳を正面から射抜いた。
「……お前はどうする。行くか、残るか」
「オレは——」
言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
その長い沈黙を破ったのは、ラッシュだった。彼はボウガンを背中に叩きつけると、まっすぐ扉へと歩き出した。
「オイラは行くぞ! アニキが迷ってる理由なんて知らねえ! でもな、オイラにとってリジーおばちゃんは、実の母親みたいなもんだ! アニキが行かないって言うなら、オイラ一人ででも盗賊の首を引っ捕らえに行ってやる!」
ラッシュの目には、大粒の涙が浮かんでいた。怒りと、悔しさと、親友へのもどかしさ。
アンゼリカもまた、迷いのない足取りで立ち上がり、トーマの前に立った。
「私も行きます、トーマさん。大切な人を助けるのに、それ以上の理由なんて必要ないはずです!」
彼女の瞳には、一切の曇りがなかった。
「……やれやれ」
ハンジがふぅとため息をつきながら立ち上がる。
「ま、自分も付き合わざるを得ないよねぇ。ここで二人を一人で行かせたら、あとで夢見が悪くて寝られなくなっちゃうし。何よりさ——」
ハンジはトーマの肩を、ぽんと軽く叩いた。
「自分たち、『親友』でしょ? お前が一人で抱えきれないなら、少しは分けてよ」
「お前ら……」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
そのとき、脳裏に、前世の母親の姿が浮かんだ。スーパーの安売りで卵を買ってきてくれた姿。深夜に帰宅した自分を起きて待ち、温かいご飯を出してくれた姿。そして、自分の葬式で、人目をはばからず泣き崩れていた姿。
もしあの母ちゃんが、今のオレを見たら——きっとこう言う。
『目の前にいるお母さんを、血が繋がってないからって見捨てるような子に育てた覚えはないわよ』
幻聴かもしれない。けれど、前世の母なら、絶対にそう言うと確信できた。
トーマは拳を握りしめ、円卓を叩いて立ち上がった。
「——行く」
声は、まだ僅かに震えていたかもしれない。けれど、その瞳から迷いの色は消えていた。
「オレも行く。母ちゃんを、助け出す!」
ディーンはそれを見て、フッと鼻で笑った。ほんの少しだけ、誇らしそうに。




