2.停滞~引きこもり
トーマはそれから、三日三晩にわたって高熱にうなされ続けた。
村の医師が薬草を煎じ、母親のリジーが寝ずの番で冷たいてぬぐいを額に当て続けた。夢の中で、トーマはずっと二つの世界を行き来していた。ウサギを追う山道と、満員電車に揺られる通勤ラッシュ。槍の重みと、キーボードを叩く指の感覚。
丸四日目の朝、ようやく熱が引いた。
目を覚ましたトーマは、自分がこの世界のガトー村で育った「トーマ」であり、同時に、地球という星の日本という国で一生を終えた「佐竹冬真」でもあることを、静かに理解していた。
だが、それは物語にあるような晴れやかな覚醒ではなかった。
前世の記憶を思い出した瞬間から、胸は形容しがたい重さに支配されていた。前世の母親を一人残し、孤独の中で泣かせたまま自分は死んでしまった——その事実が、どうしても胸から離れない。
「母ちゃん……」
薄暗い寝室の布団の中で、トーマはぽつりと呟いた。
その声を聞き咎めたリジーが、心配そうに顔を覗かせ、ごつごつとした温かい手を額へと当てた。
「おや、トーマ。まだ熱があるのかい? うわ言を言って……」
「……」
「トーマ? どうしたんだい、そんな目で見てさ」
「……ごめん」
「え? 何がだい?」
トーマはそれ以上、言葉を返せなかった。
目の前にいるのは、幼い頃から自分を育ててくれた現世の母、リジーだ。しかしそのリジーの顔の向こうに、どうしても前世の母親の、あの泣き崩れる姿が重なる。どちらも自分にとっての「母親」だった。だからこそ、うまく笑えなかった。
結果として、トーマは部屋へ引きこもるようになった。
一週間が経ち、二週間が経ち、やがて丸一ヶ月が過ぎても、トーマは薄暗い自室から一歩も外へ出ようとしなかった。あれほど好きだった狩りにも出ない。父親から譲り受けた槍を握ることもない。ただ寝返りを打っては、木目の浮き出た天井をじっと見つめ続けるだけの日々だった。
そんなトーマを心配して、村の仲間たちが何度も部屋を訪ねてきた。
「アニキー!」
どん、と勢いよくドアを開けて入ってきたのは、幼馴染のラッシュだった。年の頃はトーマより二つ下で、小柄だがすばしっこく、ボウガンを使わせれば村一番の少年だ。
「いつまで寝てんだよ! ほら、山に行こうぜ。東の谷に美味そうな野ブタの足跡があったんだ。アニキの槍がないと仕留めきれねえよ!」
「……悪い、ラッシュ。しばらくはいいや」
「またかよぉ……。もう一ヶ月だぞ? 頭に丸太が当たってから、アニキ完全に抜け殻じゃんか」
ラッシュが不満げに頬を膨らませていると、背後からもう一人の親友ハンジがひょっこりと顔を出した。
「まーまーラッシュ、そんなに急かすなって。あ、トーマ、生きてる? そろそろ外の空気を吸った方が体にいいと思うんだけどね。ずっと部屋にいるとさ、カビ生えてきそうじゃん?」
ハンジはトーマと同い年の青年で、どこか掴みどころのない、飄々とした雰囲気をまとっていた。普段は村の雑用を手伝っているが、妙に手先が器用で、時折村の人間が知らないような世渡りの知識を見せることがある。
「……」
「おーい、返事くらいしてくれてもよくない? せっかくお見舞いに来たんだからさー」
ハンジが軽口を叩いても、トーマは寝具を頭から被り、背を向けるだけだった。
話すことなど何もなかった。いや、話せなかった。
二つの人生を持ち、その片方で最悪の親不孝をしてきたなどと、誰に説明できようか。自分だけがこうして若く健康な体を授かり、のうのうと生きていることが、どこか後ろめたかった。
そんな日々がついに三ヶ月に及んだある朝のこと。
ガトー村最強と名高い、現世の母リジーの堪忍袋の緒が、完全に限界を迎えた。
「——いつまで腐ってやがるんだい、このバカ息子がァァァ!!」
早朝の静寂を切り裂いて、凄まじい衝撃とともにトーマの部屋のドアが文字通り「蹴破られた」。
バリィィンと景気いい音を立てて木片が飛び散り、村中に響き渡らんばかりの大声が鼓膜を震わせる。
「か、母ちゃん……!? 何すんだよ一体!」
「うるさい! 誰が母ちゃんだい!」
「いや、どう見ても俺の母ちゃんだろ!」
「問答無用!」
リジーはどこにそんな力があるのかわからない細腕を伸ばすと、トーマの着ていた服の襟首をがっしりと掴んだ。リジーは昔、父親のディーンと共に前線を張っていた元冒険者であり、その腕力は衰えるどころか年々凄みを増している。
そのまま、ずるずると部屋の床を引きずられていく。
「ぎゃあああああああ! 床ですれる! 痛い痛い!」
悲鳴などどこ吹く風で、リジーはそのまま廊下を滑らせ、玄関を通り抜け、勢いよく家の外の地面へとトーマを放り出した。
ドサリと土埃の舞う地面に転がったトーマが痛みに悶えていると、なぜかそのすぐ隣に、別の二つの人影が降ってきた。
「ぶふぇっ!?」
「うわっとっと、危な!」
たまたま通りかかっただけのラッシュとハンジまでもが、襟首を掴まれてまとめて放り出されていたのだ。
「リジーさん、なんで自分らまで投げ飛ばされなきゃいけないんですかね!?」
ハンジが服についた泥を払いながら、珍しく本気で困惑した声を上げる。するとリジーは、腰に手を当てて仁王立ちになりながら三人を見下ろして言い放った。
「アンタも共犯みたいなもんだろ! この三ヶ月、ずるずると甘やかしやがって!」
「いやいやいや、理不尽すぎません!? 自分ら、これでも結構声かけてたんですよ!?」
ハンジの抗弁を、リジーは鋭い眼光一発で黙らせた。
そして、地面にへたり込んだままのトーマをビシッと指差す。
「いいかい、トーマ!」
「は、はいっ!」
反射的に背筋を伸ばして返事をしてしまう。前世の記憶があろうとなかろうと、この母親への反射だけは身体に染み付いているらしかった。
「旅に出な!」
「……え?」
「今すぐここから旅に出るんだよ! そして、二度とこの村に帰ってくるんじゃないよ!」
「えええええええええっ!? いくら何でも極端すぎるだろ! 俺、一応頭を怪我した病人——」
「三ヶ月も寝てりゃあ傷なんか塞がって、お釣りが出るわ! いいかい、人生に迷ったなら、とにかく立って歩け! 前に進め! 立ち止まって天井を見てたって、新しい景色なんか降ってきやしないんだよ! アンタには立派な足がついているんだから!」
リジーはそう言うと、ガトー村のはるか先、王国の中心地——王都の方向を力強く指差した。
「でも、母ちゃん……!」
「行けええええい!!」
有無を言わさぬ怒号とともに、ガシャァンと家の扉が閉められ、内側から厳重に鍵がかけられた。
残された三人は、初夏の爽やかな風が吹き抜ける中、呆然と立ち尽くすしかなかった。
長い沈黙。
やがて、ラッシュがポリポリと頭を掻きながら口を開いた。
「……なぁ、アニキ。どうする? 本当に鍵、開けてくれそうにないぞ」
ハンジがやれやれと肩をすくめ、トーマの顔を覗き込む。
「ま、あのリジーおばさんが一度言い出したら、テコでも動かないのは知ってるでしょ? せっかくだし、王都、行ってみる?」
「……」
トーマはゆっくりと空を見上げた。
雲ひとつない、抜けるような青空だった。
三ヶ月ぶりに、家の外で直に見る太陽の光は、少しだけ眩しすぎて目に沁みた。
だが——不思議なことに。あれほど重く胸にのしかかっていたものが、ほんの少しだけ、風に洗われて軽くなった気がした。




