8章 優しさ
「……ん」
どれほどの時間が流れただろうか。青年は、微かな鳥のさえずりと、差し込む柔らかな光の中で目を覚ました。
(ここは……どこだ?)
体を起こそうとするが、鉛のように重い。
這いつくばった硬い砂漠の大地ではない。背中にあるのは、驚くほど柔らかく、清潔なベッドの感触だった。見覚えのない、木造りの小さくも温かみのある部屋。衣服の血痕は綺麗に拭き取られ、ボロボロだった黒と赤のフードは、ベッドの脇の椅子に丁寧に畳まれて置かれていた。
そして、枕元には彼の命よりも大切な三振りの魔剣——「強欲」「憤怒」「傲慢」が、そのままの姿で静かに並べられている。
「あ、気がついたんだね」扉が静かに開き、一人の人物が部屋に入ってきた。扉を開けて入ってきたのは、見慣れぬ若葉色のエプロンを身に纏った少女だった。
名はティア。砂漠の果てのこの街で、ひっそりと小さな花屋を営んでいるのだという。
「行き倒れてるのを見つけてびっくりしちゃった。はい、お水。まだ無理しちゃダメだよ」差し出された木コップを、青年は無言で受け取った。心の大事な部分を落とし、ただ悪を滅ぼすためだけに生きてきた彼にとって、見ず知らずの他人から向けられる純粋な善意は、あまりにも眩しく、そして戸惑うものだった。
数日後、肉体の倦怠感がすっかり抜けた青年は、ベッドの脇に置かれた三振りの魔剣を手に取り、部屋を出ようとした。
「待って!」
ティアがその背中に声をかける。
「助けてもらったお礼……タダで街を出るつもりはない。俺にできることがあれば言え。魔族の間引きか? それとも人間の悪党の暗殺か?」
物騒極まりない言葉を大真面目に紡ぐ青年に、ティアは呆れたように息を吐き、一本の、見たこともない鮮やかな緑色の衣服を差し出した。「ううん、私の仕事——花屋の店員になって。それがお礼!」
「……にあわねえ、、」
鏡の前に立った青年は、心底嫌そうな声を漏らした。
いつも身に纏っていた、返り血の染みついた黒と赤のフードは洗濯に回され、今の彼が着ているのは、花屋専用の瑞々しい若葉色の服。
白髪と赤眼という、戦場では復讐鬼として恐れられる禍々しい容姿の彼が、春の訪れを告げるような爽やかな若葉色の衣服に身を包んでいる。
そのあまりのギャップに、本人はおぞましい呪いでもかけられたかのように眉間を深く寄せていた。
「そんなことないよ! すっごく似合ってる。ほら、そのお花、お店の前に並べておいてね!」ティアに手渡されたのは、大罪の剣ではなく、可憐な黄色い花が咲いた植木鉢だった。
魔物を屠ること、悪を断つことしか知らなかった青年が、若葉色の服を着て、おずおずと花を運ぶ。
【魔除けの加護】や【悪夢の加護】は、降るような日差しと、花の甘い香りを遮ってはくれない。復讐鬼と呼ばれる前の、ただの「一人の青年」としての時間が、砂漠の街の片隅で静かに流れていく。しかし、そんな彼らの穏やかな日常の裏で、街には再び不穏な影が近づきつつあった




