2話 魔法と出会い
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目を開けると、視界いっぱいに空が広がっていた。
(……おかしい)
さっきまで、俺は夜の住宅街にいたはずだ。
背中には柔らかな草の感触がある。頬には、少し湿った土の冷たさ。遠くから風が吹き、草の擦れる音が聞こえてくる。
それらを感じて、俺はようやく気づいた。
五感が戻っている。身体も、取り戻せたのだろうか。
俺は手を握り、開いた。指先の感覚も、腕を動かす感覚もある。
俺はここにいる。生きている。
しかしその時違和感に気づく。
服装が変わっているのだ。
「一番お気に入りのジャージ?」
運動兼、普段使いの丈夫なジャージで俺がいつも着ているものだ。
しかし、さっきまでは着ていなかった。
さらに言えばつけてなかったはずの、デシタル腕時計もついている。
(なんでだ?)
しかし、それよりも気になることがある。
ここがどこなのかだ。
身体を起こし、周囲を見渡す。
視界いっぱいに広がっているのは、住宅街でも夜空でもなく、雲を突き抜けてしまいそうなほど巨大な木々だった。
幹は太く、見上げても頂上が見えない。
葉が空を覆い、その隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を落としている。
「………」
驚きと疑問が頭を駆けめぐる。
旅行で見たことのあるセコイアの木も高かったが、これはその比にすらならない。
そして何より、知らない。
足元の草も、周囲に生えている植物も、遠くに見える木々も。
知っているものが一つもない。
少し胸が冷たくなる。
さっきまでいた場所とは、明らかに違う。
だが、それと同時に、好奇心の昂りも感じていた。
(ここはどこ? 何なんだこの植生は? さっきの空間は? 友人は? 俺は生きてるのか?)
疑問が頭の中に次々と浮かんでくる。
その疑問を解消するため、俺は立ち上がった。
(まずは、知らないとな)
半ば興奮しながら歩みを進める。
膝ほどまで草が茂った場所をかき分け、草の少ない場所ではそのまま足を進める。
ところどころに立つ巨大な木々を見上げながら、知らない景色の中を歩いていく。
(猫じゃらし? ホトケノザ? カラスノエンドウ?)
記憶にある植物と照らし合わせてみるが、やはり違う。
似ているが、確実に違うと感じる。
そう、例えるなら猿と人間のようなものだ。
全体的に見れば似ているが、中身も特徴も全然違う。
(あれはなんだろ?)
観察しながら楽しく歩いていたが、少しずつ気分も曇ってきた。
(誰もいない)
しばらく歩けば、どこか人のいる場所に出るかと思ったが、まったくと言っていいほど気配がない。
(喉、乾いたな……)
歩き続けたせいか、身体も重い。
それに、目を覚ましてからずっと、身体の奥に妙な疲労感が残っていた。
あの空間での負担が、まだ抜けていないのかもしれない。
俺はとうとう、地面に倒れ込んだ。
草が背中に触れる。
その感触が、ここがまったく知らない場所なのだと改めて感じさせた。
(疲れた……歩きたくない)
目を閉じる。
(せめて水があれば、もう少し、もう少し動けるのに)
水が欲しい、喉を潤したい。
そんな思いが強くなる。
瞼の裏に、小さな水滴を思い浮かべた。
透明で、丸くて、今にも落ちそうな水滴。
そこにあればいい。
そう思いながら、手を伸ばす。
ピトッ。
「………?」
指先に、そこにあるはずのない感触があった。
思わず、目を勢いよく開ける。
「………??」
目の前には、水滴が浮いていた。
幻じゃないかと指先でつつく。
すると、水滴は頬に落ちてきた。
冷たい。
確かに、水だった。
そこで俺の脳はようやく、それらの情報を許容した。
(……水をイメージしたら、水が出てきた?)
ありえない。
そう思ったが、起きてしまった事象は説明できなければならない。
(なら、検証だ)
目を瞑り、もう一度水をイメージする。
(透明で、透き通った水球が浮かんでいる……)
そして目を開ける。
「まじか……」
さっきよりも大きな水球が、目の前に浮かんでいた。
「ゴクリ……」
渇いた喉が、それを求めるように音を鳴らす。
俺は水球に口を近づけた。
「パァン!」
顔の前で水が弾け飛んだ。
「……なんで?」
すぐさま問題点を考え始める。
そういえば、さっきも水滴に触れた瞬間に落ちていた。
そして今回は、飲むことに意識を逸らした瞬間に破裂した。
「水をイメージし続ける必要がある?」
仮説は立った。もう一度検証だ。
さっきと同じ手順で水を出す。
次は意識を逸らさずに口を近づける。
ゴクッ。
「美味ぁ」
予想通り、水は破裂せずに俺の喉を通った。
もう少し飲もう。
ゴクッ。
もう少し。
ゴクッ。
もう少しだけ。
ゴクッ。
足らないな。もう少し。
ゴクッ。
(あれ?)
喉がまったく潤わない。何度飲んでも喉が渇くのだ。
「これ、水か?」
いや、確かに水だ、俺の知っている水だ。
それ以外に、これを形容する言葉は俺の中には無い。
(どういうことだ?)
また考え込みそうになり、ふと今の状況を思い出す。
「人を探さないと」
考えている場合じゃない。歩くんだ。
ひとまず街を探せばなんとかなる。
最悪一人だけでもいいから見つけなければ。
俺は喉の渇きを、水のようなもので誤魔化しながら進んだ。
カァン!
何か音が聞こえた。
自然の音ではない。
(ようやく人が?!)
俺は慌てて、その音の方向へ走り出した。
そして、その光景を見てすぐに立ち止まる。
「なに?」
自分と同じくらいの青年がいる。
それはいい。それはいいんだ。
問題は、その青年の相手だ。
大きな翼の生えたトカゲのような生き物が、青年を襲っている。
青年は剣で攻撃を受け流し、反撃していた。
しかし、
「うッッ!」
トカゲのような生き物の太い尻尾が、青年の腹に直撃した。
「大丈夫か?!」
思わずそう言ってしまった。
それが間違いだった。
グルッ。
トカゲのような生き物が、こちらを向いた。
そして、口を大きく開いた。
「何? なになになに?!」
その口の前には、大きな火球が出現している。
「―――!」
青年が何かを叫ぶ。
(なんだあれは? 火? どうやって? 水が出せるなら火も? あいつは何をしようとしてる?)
疑問を処理できず、俺の身体は硬直する。
そして、火球から炎が放たれ、俺の方へ吹き出された。
その瞬間、思考が一つの予感に統一される。
(死……)
「――!」
青年が何かを叫んだ。
次の瞬間、青年が俺の身体を片腕で抱え、前方へ飛び込んだ。
「うおっ!」
視界が大きく揺れる。
直後、轟音とともに炎が通り過ぎた。
さっきまで俺がいた場所が、烈火によって焼けていた。
「……っ!」
俺は息を呑んだ、本当に間一髪だった。
青年は俺を抱えたまま地面に倒れ込んでいた。
「……助けてくれたのか?」
青年が俺を見つめ、何かを話す。
「何語?」
音に聞き覚えがない。外国人だろうか。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺と青年が向き合っている間にも、トカゲは再び火球をこちらに向けていた。
青年がこちらを向いて再度何かを話す。
「防げるかって?」
言葉は分からない。
それなのに、なぜか意図だけは伝わってきた。
相手は火を吐く。俺は水を作れる。
「多分、防げる」
「―――!」
「待てっ! やっぱり嘘!」
青年は俺の話を聞かず、走り出した。
(任せた!)
なぜか、そう伝わってきた。
(どうやって防ぐ? あいつは誰だ? 何語だ? なぜ言葉が分からないのに、意図が分かる?)
あぁ、もう知らないことでいっぱいだ。
だが、防げるかと問われ、俺は防げると返した。
そして、青年は俺を信じて走り出した。
なら、することは一つ。
「炎を防ぐ」
(大きい水玉を作る?)
いや、それじゃ駄目だ。
さっきの様子を見るに、炎は勢いよく吐き出されている。
水はその勢いで吹き飛ばされてしまうだろう。
(巨大な水球を目の前で固定する)
それしかない。
(できるのか?)
いや、この際それはどうでもいい。
やらなければいけない。
青年はトカゲの横へ回り込んでいた。
剣を構え、駆けていく。
きっと、あいつを倒す気だ。
あの青年は何故か俺のことを10割信用していた。
それが何故か、感覚的に分かった。
根拠のない信頼なんて、迷惑だ。
なのになんでだろうか。
(あいつの期待に応えたい)
俺は瞼を閉じ、集中する。
水を集めろ。
もっとだ。
もっと大きく。
巨大なイメージを……。
目を開けると、そこには巨大な水球があった。
(やばい)
今にも水球が破裂しそうだ。
(大きいものは制御が難しいのか?)
立て直さないと……。
しかし、そんなことを考えている余裕はなかった。
「ゴオォォォオオ!」
炎が放たれた。
赤い光が視界を埋め尽くし、熱気が一気に押し寄せる。
「耐えろ!」
俺は水に意識を集中する。
吹き飛ばされるな。
ここにいろ。
この場所に留まれ。
水をその場に固定するイメージ。
「シュウゥゥ……!」
凄まじい音と共に、水が一気に蒸発していく。
(熱い)
顔まで熱が届いてくる。
それでも。
「まだ……!」
水が消える。
なら、更に生成し続ける。
「耐えろ!」
炎を受け止め続ける。
やがて、
「……!」
炎が途切れた。
目の前には、大量の蒸気が立ち込めている。
視界が白い。
その向こうに、トカゲのような生き物の姿が僅かに見えた。
青年の影は、既にそのすぐ近くまで迫っていた。
「ダァン!」
地面を強く蹴る音が響いた。
青年の身体が高く跳ね上がる。
蒸気の中から飛び出した青年は、トカゲの首へ狙いを定めた。
そして、落下の勢いを乗せて剣を振り下ろす。
鋭い刃が首を捉えた。
「ズバッ!」
トカゲの首が胴体から離れる。
勢いを失った巨体が、地面へと崩れ落ちた。
俺はしばらく、その光景を呆然と見つめていた。
「……終わった?」
「―――――!」
(勝ったぞ!)
青年から、それが伝わった。
その返事を受け取った瞬間、身体から力が抜けた。
俺はその場に尻もちをつく。
「疲れたぁ……」
息が荒い。
肌が熱い。
魔法を維持し続けた疲労に、炎の熱と転移からの負担が重なっていた。
青年が剣を収め、近づいてくる。
満面の笑みで。
「―――――!」
(ありがとう!)
そう言って、彼は右手を俺の目の前に差し出した。
「どういたしまして」
俺は、知らない青年の手を取った。
(結局、誰なんだろ……。誰でもいいか)
そうだ。この場所について聞かないと。
喉も渇いた、本当に疲れた。
俺は薄れゆく視界で、青年の赤い瞳を見つめながら、
意識を失った。




