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#2 不死身の騎士、弟子に生き方を教わる

「右脚」


老薬売りに化けたガルヴァンは、右脚を引きずった。


「さっきは左だった」


「両方痛む老人では駄目か」


「門の手前で急に悪化する老人は怪しまれるの」


リナは杖で彼の膝裏を小突いた。ガルヴァンは崩れかけ、反射的に背筋を伸ばして踏みとどまった。


「だから立ち直り方が強すぎるって。百戦不敗の老人がどこにいるのよ」


「ここに」


「死んだでしょ、あんたは」


王都の南門には、黒騎士ガルヴァンの死を悼む布告と、二代目黒騎士の誕生を祝う布告が並んでいた。


死んだほうの肖像には白い花が描き足され、生まれたほうの肖像には金の光が描き足されている。中身の鎧は同じだった。黒い兜、黒い剣、王国へ命を捧げよという同じ文句。


《不死の加護は鎧とともに継承された。七日後、王の御前にて二代目・不死身の英雄の戴冠を行う》


門兵は老薬売りの荷車を覗き込んだ。乾燥させた薬草、軟膏の壺、包帯、鍋。その底に、短剣と偽造印章と、二代目を殺せと書かれた契約書が隠れている。


「爺さん、名は」


ガルヴァンは三呼吸黙った。


「バルだ」


「どこから来た」


「北方第五軍が焼いた村から」


リナは杖で彼の足を踏んだ。


「お爺ちゃん、焼いたのは村じゃなくて地図でしょ。もう、昔話は全部戦争になっちゃうんだから」


門兵は面倒そうに手を振った。二人は王都へ入った。


「出身地を聞かれただけよ」


「嘘は苦手だ」


「私を孫だと言うのは平気なくせに」


「弟子よりは似ている」


「どこが」


「口が悪い」


リナは荷車を彼の踵へぶつけた。


三日前、宿の夕食に運ばれてきたパンの中から、金貨と契約書が出た。


《英雄殺しリナへ。二代目・不死身の英雄を、戴冠の日までに殺せ。死が万人に見える形なら、報酬を倍とする》


差出人の名はなかった。封蝋には王家の傍流、三本角の鹿が刻まれていた。王が新しい英雄を使って徴兵を始めれば、領地から兵を奪われる者はいくらでもいる。二代目を憎んでいるのではない。自分の兵を惜しんでいるだけだ。


「有名になると仕事のほうから来るのね」


リナが金貨を数える横で、ガルヴァンは契約書を三度読み直した。


「私の二代目か」


「嬉しい?」


「墓から出て抗議したい」


「やめて。国葬代を返せって言われる」


王都へ入った翌朝、二人は練兵場の見物台にいた。


二代目黒騎士は、百人の兵を前に剣を振っていた。体格はガルヴァンより一回り小さい。黒鎧に振り回され、踏み込むたびに肩が泳ぐ。教官の鞭が背甲を叩いた。


「遅い! 不死身の英雄が、その程度か!」


見物人は笑った。中身が痛みを感じないとでも思っている笑い方だった。


黒騎士はもう一度剣を上げた。盾を持つ左手が下がった。


「肘を締めろ」


隣で、老薬売りが言った。


声は小さかったが、練兵場までよく通った。


黒い兜がこちらを向く。ガルヴァンは杖を持ったまま、自分の左脇を示した。


「盾の縁を顎へ寄せろ。剣より先に肩を入れるな」


黒騎士が構え直した。今度の踏み込みは鎧の重さに負けなかった。教官が驚き、見物人が沸いた。


リナは笑顔のまま、ガルヴァンの脇腹をつねった。


「標的を育てないで」


「あれでは暗殺者が来る前に訓練で死ぬ」


「私が暗殺者なの」


「ならばなおさら、よい状態で仕留めろ」


「肉屋みたいなこと言わないで」


翌日、黒騎士は見違えるほどよくなっていた。


盾は下がらず、足ももつれない。ただし昨日より半頭ぶん背が高く、剣を右ではなく左に持っていた。


「成長が早い」


ガルヴァンが感心した。


「一晩で骨まで伸ばす訓練を知ってる?」


「知らん」


「じゃあ、別人よ」


リナは黒騎士の足元を見た。昨日の長靴には踵に銀鋲が三つあった。今日は二つ。昨日は見物席の子供が投げた林檎を右手で受けた。今日は左手で剣を持っている。


三日目の黒騎士は、咳をしていた。四日目は階段を数えながら上った。五日目は兜の隙間から赤い三つ編みが一本出て、教官に押し込まれた。


「五人」


宿へ戻ると、リナは卓上へ五種類の靴跡を描いた。


「少なくともね」


「同じ鎧を交代で着せているのか」


「不死身の作り方としては安上がり」


ガルヴァンは黙った。


王は一人の男を三百年使った。男が死ねば、今度は何人でも一人にすればよい。使う側には、ずいぶん自然な工夫だった。


「鎧の中身を確かめる」


リナは立ち上がった。


「殺すためか」


「人数によって料金が変わるでしょ」


王立療養院は、黒騎士専用棟の薬を毎朝、外の商人から買っていた。


二日後、老薬売りのバルと孫娘は、関節軟膏を積んでその門を通った。ガルヴァンが作った軟膏は、戦場で骨を折った兵に使っていたものだった。効き目は本物で、匂いは死んだ沼のようだった。


「もっと普通の匂いにできなかったの?」


「効能に匂いは関係ない」


「商売にはあるの」


薬師長は鼻をつまみながら、三十壺まとめて買った。


専用棟の洗濯室には、七人分の下着が干されていた。大きさが七つ。襟には名前の代わりに、一から七までの数字が縫いつけられている。


リナは包帯の束を抱え、廊下の角を曲がった。奥の治療室で、赤毛の少女が上衣を脱いで座っている。背中には鞭の痕が格子のように走り、左の肩は紫に腫れていた。


「五号、明日は戴冠の予行だ。咳を止めろ」


軍医が言った。


「止まらなければ」


「六号を使う。お前の食事は抜く」


軍医が出ていくと、少女は卓上の小刀をつかんだ。


「誰」


「包帯屋」


「包帯屋は鍵を開けて入らない」


「王立は配達口を分かりにくくするのね」


少女は刃を向けたまま、咳き込んだ。刃先まで震えた。


リナは一歩で間合いへ入り、手首を押さえた。小刀を取り上げる代わりに、袖から蜜飴を一つ出してその手へ握らせた。


「五号じゃない名前は」


「ない」


「前は」


少女は飴を見た。すぐには口へ入れなかった。


「ネラ」


「私はリナ」


少女が顔を上げた。


「英雄殺し」


「似顔絵ほど背は高くないけどね」


「殺しに来たの」


「そのつもりだった。何人殺せば一人ぶんになるのか、数えに来たところ」


ネラの指が飴を強く握った。


「七人。最初は十人いた」


戴冠式では、王が黒騎士の胸を《継承の槍》で貫く。


幕が下りる。槍を受けた一人を床下へ運び、別の一人が王宮の塔に現れる。鐘が七つ鳴るまでに広場を一周し、違う門、違う窓、違う馬上へ次々と黒騎士が姿を見せる。人間には不可能な速さで移動し、死から戻ったように見せるのだ。


「最初に刺されるのは誰」


「七号。ミロ」


「助かる仕掛けは」


「ない。死んだら、六人で続ける」


ネラは飴を割った。半分を口に入れ、半分を衣服の下へ隠した。


「食事を抜かれたとき、ミロにあげる」


「ミロはいくつ」


「十三」


リナは七人の名前を聞いた。トマ、イーサ、カイ、ベス、ネラ、ユール、ミロ。


全員、戦で家を失っていた。保護院で読み書きのできる者、背丈の近い者から選ばれた。採用の日に死亡証明が出され、古い名前を呼んだ者は食事を減らされた。


「逃げたら、代わりが選ばれる」


ネラが言った。


「だから逃げなかった?」


「逃げられなかった。鎧を脱いでも、行くところがない」


リナは包帯を広げ、ネラの肩を固定した。きつすぎないか二度確かめた。


「戴冠まで三日ある」


「私たちを殺す?」


「仕事はする」


リナは空になった飴の紙へ、細い字で何かを書いた。


「でも、殺す相手を変える」


宿へ戻ったリナは、契約書を卓上へ置いた。その隣へ七人の名を書き並べた。


ガルヴァンは最後まで読んだ。


「私が鎧を着る」


「却下」


「槍を受けても死なない。七人はその間に逃がせる」


「あんたが広場へ出たら、王は大喜びで初代を使い直す。七人は嘘を知ってるから、今度こそ全員殺される」


「ならば王を――」


「次の王が出る」


ガルヴァンは口を閉じた。


「死ぬとか殺すとか、できることだけ先に言わないで」


「ほかに何ができる」


「逃げる。隠れる。嘘をつく。人に頼る。負けた顔をして、生きて帰る」


「難しいな」


「だから教える」


リナは七人の名前を指で叩いた。


「ここからは私が師匠。作戦を立てる。あんたは言われたとおりにする」


「承知した、師匠」


「呼ばないで。腹が立つ」


最初の授業は、普通に歩くことだった。


ガルヴァンは市場を端から端まで、誰の注目も集めずに歩かなければならない。


一度目は、転びかけた魚屋の荷車を片手で支えて失格になった。二度目は、喧嘩を始めた兵士二人の間へ入り、三秒で両方を座らせて失格になった。三度目は、迷子を母親のところへ届け、礼を言われている間に尾行役のリナを見失った。


「困っている者を放置しろという授業か」


「助け方を小さくしろって授業。荷車は二人で押す。喧嘩は巡邏を呼ぶ。迷子は菓子屋のおばさんに頼む。一人で全部終わらせようとしない」


「終わらせられるのに?」


「あんたがいなくなった翌日、誰がやるのよ」


二度目の授業は、変装だった。


リナはガルヴァンへ王宮の下働きの服を着せた。肩幅を隠すため背に綿を入れ、顎へ白い髭を貼り、前歯の一本へ炭を塗った。


「笑って」


ガルヴァンは笑った。


「拷問の前みたい」


「楽しくはない」


「楽しそうに見せるのが変装」


「敵を欺く笑顔なら知っている」


「それで三つの国が降伏した顔を、洗濯係に向けないで」


三度目の授業は、逃げることだった。


リナは宿の裏庭で木匙を投げ、ガルヴァンに避けさせた。彼はすべて払い落とした。


「拾わない。反撃しない。出口へ走る」


「背を向ければ当たる」


「当たっても死なないでしょ」


「師匠が投げている」


「弟子だったとき、私の刃は平気で受けたくせに」


「あの頃は嫌われていた」


木匙が額に当たった。


その夜、リナは寝台の上へ紙片を広げた。


王宮の見取り図。式次第。兵の交代時刻。印刷所の青い屋根灯を使った合図。七人の靴の寸法。逃げた先で保護を頼めるパン焼き組合、船大工、北門の修道院、旅芸人一座の印。契約の前金は、六着の古鎧と、黒い舞台塗料と、印刷所の職人を黙らせる費用に変わっていた。


ガルヴァンが紙の端を持ち上げた。そこには七人が好きな食べ物まで書いてある。


「逃走に必要か」


「空腹で菓子屋に寄って捕まるかもしれない」


「ベス、焼き栗。カイ、干し杏。ミロ、蜜飴」


「覚えなくていい」


「もう覚えた」


リナは紙を取り返した。


七人には、薬の包み紙にして指示を送った。何時にどの扉を出るか。どの階段を使うか。鎧を着たまま走るとき、どこで息をつくか。


一つだけ、折り返しが戻ってきた。カイの字だった。


《近衛副長の印は、右の角が欠けてる。これだと偽物だ》


リナは偽印の角を小刀で削った。干し杏を一つ包み、返した。


《採用。報酬》


最後には、同じ一文を書いた。


《兜を脱ぐかは自分で決めて。脱がなくても逃がす》


「全員が脱がなければ、一人の不死身という嘘は壊れない」


ガルヴァンが言った。


「分かってる」


「説得しないのか」


「私の憎しみを、あんたが勝手に刃へしようとしたの覚えてる?」


「忘れない」


「この子たちの名前も、私の武器じゃない。怖ければ隠していい。作戦が弱くなる分は、私が別で埋める」


ガルヴァンはしばらく七つの名を見た。


「私は、よい師匠ではなかった」


「今ごろ?」


「三百年のうちでは早いほうだ」


「長生きで得する言い方しないで」


戴冠式の前夜、王宮では最後の予行が行われた。


本番と違って見物人はいない。いるのは兵、儀典官、鐘撞き、それから失敗すれば明日死ぬ七人だけだった。


王宮の地下では、下働きの老人が七つの扉へ鍵を差していた。


ガルヴァンは一つ目を開けた。トマがいた。二つ目にはイーサ。三つ目を開けたところで、廊下の向こうから衛兵が来た。


「おい、そこで何をしている」


ガルヴァンは、習ったとおり背中を丸めた。


「衣装方の命令でございます」


「命令書は」


差し出した紙には、衣装方、儀典官、療養院長、近衛隊副長の印が並んでいた。全部、昨夜リナが押したものだった。


衛兵は一番偉そうな印だけ見て、道を空けた。


「急げ。予行が始まるぞ」


「年寄りに急げとは、近頃の王宮は酷い」


ガルヴァンは咳までしてみせた。衛兵は謝った。


四つ目を開けたとき、ベスが笑いをこらえていた。


「上手」


「師匠がよい」


五つ目の部屋は空だった。ネラはすでに本物の黒鎧を着せられ、予行の舞台へ上げられている。


六つ目のユールを出し、最後の扉へ向かう。だが鍵が回らなかった。夕方、錠が替えられていた。


扉の向こうで、ミロが浅く息をしている。


「下がれ」


ガルヴァンは扉へ肩を当てた。


蝶番を壁ごと外すことはできる。代わりに王宮中へ音が響き、兵が来る。昔の彼なら、すでに壊していた。


彼は肩を離した。


「ミロ、聞こえるか」


「はい」


「私はバルという、ただの薬売りだ」


背後で五人が顔を見合わせた。


「かなり強そうな薬売り」とカイが言った。


「扉は壊さない。ほかの者に頼る」


ガルヴァンは廊下を走った。逃げる方向は、敵ではなく出口だった。


洗濯室では、三人の女が明日の敷布を畳んでいた。ガルヴァンは錠前を示し、頭を下げた。


「助けてほしい」


洗濯頭は彼の髭を引っぱった。貼り髭が半分剥がれた。


「その扉、冬から具合が悪いって言ってたのに、今日替えたのさ。新しい鍵なら儀典官の腰だよ」


女は敷布の下から鍵を出した。


「だから、予備を盗んどいた」


「なぜ」


「王宮で普通に働くってのはね、偉い奴を信用しないことだよ」


ガルヴァンは深く頭を下げた。


「勉強になる」


予行の舞台では、王の代役をする書記官が演説を読んでいた。


「初代ガルヴァンの魂は、その忠誠とともに新たな肉体へ――」


書記官はあくびをした。


「ここで槍。倒れる。幕。鐘七つ。終わったら夜食」


黒騎士が王の代役の前に膝をつく。


兜の中で、ネラは咳をこらえた。胸元には刃を外した予行用の槍が向けられている。


槍が鎧を叩いた。


ネラは倒れた。幕が下りる。


衣装係が床下へ降りてきた。


「五号、立て。東塔へ――」


その口を、後ろからリナが塞いだ。


「今夜は休んで」


衣装係は一息で眠った。毒は使っていない。首の横を押したあと、追手よけに死んだ沼の匂いがする軟膏を一壺、襟へ流し込んだだけだった。


倒れた男を嗅ぎ、ネラが顔をしかめた。


「死んだ?」


「気持ちはね」


リナは黒鎧の留め金を外した。


「兜、脱ぐ?」


ネラは両手で兜を押さえた。


「今は、まだ」


「分かった」


リナは聞き直さなかった。黒い外套を兜の上からかぶせ、薬売りの荷車へネラを乗せた。荷の下には、ミロ一人ぶんの隙間も空けてある。


「ミロは?」


「お爺ちゃんが人に頼ってる。たぶん時間がかかる」


「助けに――」


「行かない。あんたが戻ったら、あの人はまた一人で全部やる」


ネラは荷車の中で拳を握った。しばらくして、それを開いた。


「信じるのも、仕事?」


「いちばん割に合わない仕事」


荷車の底を、三度叩く音がした。


ガルヴァンがミロを連れて戻った。貼り髭は半分になり、その後ろには五人と洗濯女が一人ついている。


「頼りすぎじゃない?」


「人数の上限は教わっていない」


リナは五人へ町着の包みを渡した。


イーサは動かない右手を胸へ寄せ、町着の包みから深い頭巾を左手で取った。


「顔、見せなくていいんだよね」


「その頭巾、追加料金かかってるから。使わないと困る」


ほかにも顔を見せたくない者には、蓋のある荷車を用意してある。リナは理由を聞かなかった。


ネラの兜だけが、黒い外套の下に残った。


一つ目の鐘が鳴った。


東塔へ、黒騎士が現れた。


中身は鎧掛けだった。印刷工が下から縄を引き、手だけを振らせている。


二つ目の鐘で、西門を黒騎士が馬に乗って通った。中身は酒樽で、馬を引いているのは船大工だった。


三つ目の鐘。王宮の屋根を黒騎士が走った。


これはリナだった。


古鎧の長すぎる脚へ木片を詰め、短すぎる腕で剣を振り、黒い兜の中で息を切らしていた。


「歩幅が小さいぞ!」


下の兵が叫んだ。


リナは低い声を作った。


「二代目は小柄なのだ」


「昨日より一尺縮んでる!」


「成長には個人差がある!」


兵たちは一瞬納得しかけた。王宮では、偉そうに言われたことはだいたい通る。


その間にトマはパン焼き職人の白い帽子をかぶり、イーサは洗濯物の山へ潜った。カイは刷りたての紙束を抱え、ベスは焼き栗の袋を担ぎ、ユールは旅芸人の死人役になった。ミロはネラの隣で、荷車の底へ身を縮めた。


「一個食べてもいい?」


焼き栗の袋からベスが聞いた。


「門を出てから」とリナの指示書にはあった。


「けち」


四つ目の鐘で、南廊下を別の黒騎士が曲がりきれず壁へ刺さった。


五つ目は厨房の竈へ落ちた。六つ目は井戸へ落ち、兜だけ浮いた。


儀典官がようやく叫んだ。


「全部偽物だ! 地下を調べろ! 門を閉めろ!」


兵が七つの方向へ走り出した。


王宮の南端で、印刷所の屋根灯が消えた。


巡邏が入った。職人たちが印刷を止めた合図だった。


七人は逃がせる。


印刷所には、まだ白紙の束が積まれている。


予定では、兜をかぶったまま西の雨樋から降りるはずだった。


リナは暗くなった屋根灯を見た。


「追加料金ね」


それから、笑った。


「全部じゃないわよ」


兜を脱ぎ、投げ捨てる。


英雄殺しの顔を知る兵が二人、同時に指を差した。


「リナだ!」


「正解」


今度は兵のほとんどが屋根へ向かった。


印刷所の屋根に、青い灯が戻った。


七つ目の鐘が鳴るころ、七人は王宮の外へ出た。


トマはパン窯の灰出し口から。イーサは洗濯屋の車で。カイは印刷所の裏戸から。ベスは栗の袋を一つ軽くしてから。ユールは葬列の棺に入り、ミロとネラは薬売りの荷車で北の水門へ向かった。


その途中、ガルヴァンが足を止めた。


王宮の屋根では、近衛兵がリナを挟んでいた。逃げ道は一本。兵は十二人。


ガルヴァンなら十秒で戻れる。


「お爺ちゃん」


荷車の中から、ネラが言った。


「師匠は、何て?」


ガルヴァンは屋根を見た。


それから荷車を押した。


「逃げろ、と」


北の水門は閉じていた。


ガルヴァンは壊さなかった。洗濯頭に頼み、汚水樽の通用口を開けてもらった。樽のふたを取ると、ネラが絶句した。


「入るの?」


「洗ってあるよ」と洗濯頭が言った。


「何を?」


「聞かないほうが速い」


三人は聞かなかった。


屋根では、リナが十二人目の剣を避けた。


反撃すれば三人は倒せる。毒針ならあと二人。屋根瓦を落とせば、たぶん全員。


リナはどれもしなかった。


鎧の胸留めを外し、後ろ向きに抜けた。空になった黒鎧を蹴ると、十二人が重なって転んだ。


身軽になったリナは屋根の端から飛んだ。


下には、印刷所の職人が紙屑を運ぶ大籠を置いていた。


落ちた。


籠が潰れた。


「もう少し紙を入れといてよ!」


「印刷で使ったんだよ!」


職人が荷車を走らせる。リナは紙屑から顔だけ出した。


「何枚刷ったの」


「千枚」


「前金が消えるわけね」


その千枚には、王立療養院が黒騎士候補を集めた保護院の名、使われた偽造命令の見分け方、次に子供を渡せと命じられたときの連絡先が印刷されていた。


子供たちの名も、顔も、書かなかった。


夜が明ける前に、紙はパン焼き組合、船大工、修道院、旅芸人、十二の保護院へ運ばれた。


翌朝、戴冠式の舞台には誰も上がらなかった。


王は二代目黒騎士が急病だと発表した。


昼には、鎧が急病なのかと町じゅうで訊かれた。


三日後、王は二代目など最初から存在しなかったと発表した。


七日後、新しい候補を集めに出た役人は、どの保護院でも同じ紙を突きつけられた。最後の一軒では、院母が鍋を持って待っていた。


誰も三代目にならなかった。


契約の差出人からは、短い手紙が来た。


《万人の前で死んでいない。報酬返還を求む》


リナは返事を書いた。


《万人に見せれば倍額、という条件だったので倍額は請求しない。王自身が、二代目は最初から存在しなかったと発表済み。死亡証明より確実。生きている七人は標的ではない。前金は経費で消えた》


返事は来なかった。


ひと月後、老薬売りの荷車は海へ向かう街道を進んでいた。


七人は別々の土地へ散った。トマからは、パンを焦がしたという手紙が来た。イーサは船の結び目を三つ覚えた。カイは自分の死亡証明を印刷所の壁へ額装した。ベスの便箋には焼き栗の染みがあった。ユールは旅芸人の台詞を全部覚え、ミロは修道院で毎朝二杯食べている。


ネラは荷車の御者台で、軟膏の匂いに顔をしかめていた。


「これ、本当に売るの」


「効く」


ガルヴァンが言った。


「臭い」


「効能に匂いは関係ない」


「お爺ちゃんと同じこと言わないで」


リナは新しい壺へ、香草の油を一滴入れた。沼の死体が、雨に濡れた靴くらいの匂いになった。


「進歩ね」


街道の先で、荷を積みすぎた農夫の車が泥にはまっていた。


ガルヴァンは反射的に降りようとした。それからリナを見た。


「助けてもよいか」


「私に聞かない。農夫に聞いて」


ガルヴァンは農夫へ声をかけた。一人で持ち上げず、四人で車を押した。泥だらけになり、礼に卵を六つもらった。


戻ってきた彼を、リナは見た。


「一つ割れてる」


「荷車は助かった」


「まあ、及第点」


「次の授業は」


「卵を割らずに運ぶ」


「その次は」


「朝食を作る」


「その次は」


「知らない。明日決める」


ガルヴァンは、薬箱の内側に挟んだ小さな白い花へ触れた。杭打ち村の焼け跡に咲き、彼の葬式の日にリナがくれた花は、乾いてもまだ形を残していた。


「生き方というのは、ずいぶん予定が曖昧だな」


「死ぬ日から逆算しないからね」


リナは割れた卵を鍋へ落とした。


「あんたを許したわけじゃない」


「分かっている」


「七人を助けたって、昔の七人が帰るわけでもない」


「分かっている」


「でも、明日の朝食くらいは作って」


「承知した、師匠」


リナは木匙を投げた。


ガルヴァンは受けずに避け、出口へ走った。


「合格」


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