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#3 不死身の騎士、今日を終わらせる

「四十回目だ」


老薬売りに化けたガルヴァンは、卓上の塩壺を見ながら言った。


「何が」


向かいのリナが粥をすくう。


「お前がその壺を倒すのが」


「倒してないけど」


宿の扉が開き、山羊が一頭入ってきた。宿の女将が箒を振り上げ、山羊が卓へ飛び乗り、リナの肘へぶつかった。


塩壺が倒れた。


「……今までの三十九回は、先に言わなかったの?」


「言うと、胡椒壺を倒した」


隣で薬草を刻んでいたネラが手を止めた。赤い三つ編みの先が、疑うように揺れる。


「お爺ちゃん、熱ある?」


「ない」


「頭を打った?」


「二十一回ほど」


「どこから数えてるのよ」


ガルヴァンは窓の外を指した。


正午の鐘が鳴っていた。


谷の斜面には、赤い屋根の家々が段々に並んでいる。どの家にも時計があり、どの時計も十二を指していた。石畳をパン屋の少年が駆け、噴水の縁で転び、籠から丸パンを三つ飛ばす。一つは犬がさらい、一つは水へ落ち、最後の一つを黄色い帽子の老婆が受け止める。


それを見届けてから、ガルヴァンは言った。


「夕方になると、この町は今日の正午へ戻る」


リナは匙を置いた。


「証拠は」


「あと七息で二階から椅子が落ちる」


六息目に椅子が落ちた。七息目に、男が窓から顔を出した。


「俺の椅子を見なかったか!」


「落とした人が先に見つけてるじゃない」とネラが言った。


リナは窓、ガルヴァン、塩まみれの粥の順に見た。


「最初から話して」


「長い」


「夕方まで同じ日なら、時間はあるでしょ」


「毎回、お前はそう言う」


四十回前、三人は海へ抜ける近道を選び、ロクトの谷へ入った。


谷は時計で栄えた町だった。小さな置き時計から、牛舎の扉ほどある振り子時計まで、店先という店先で針が動いていた。坂の頂には鐘楼があり、六本の針を持つ大時計が町を見下ろしていた。


その日は朝から、灰針山の頂に黒い雲がかかっていた。


薬売りとして初めての町へ入ったネラは、張り切って関節軟膏を売った。三壺売れた。二壺は、匂いを嗅いだ客が返しに来た。


海の町へ着いたら、自分の名で薬を売る。それがネラの次の目標だった。荷車の横木には、まだ何も書いていない白木の札が括りつけてある。


「効くのに」


「効く前に隣人が逃げたの」


リナは香草油を足し、返された一壺を宿の女将へ半額で売った。


夕方、鐘楼が六度鳴った。


六つ目の音が消える前に、空が白く裏返った。


次の瞬間、三人は町の入口に立っていた。荷車の右輪は、朝に踏んだ泥へ戻っている。売ったはずの軟膏も三壺とも荷台にあった。坂の下では、パン屋の少年がまだ転ぶ前の籠を抱えて走っていた。


リナとネラは何も覚えていなかった。


ガルヴァンだけが覚えていた。


二度目の夕方も、三度目の夕方も同じだった。


四度目、ガルヴァンは鐘が鳴る前に二人を谷の外へ連れ出そうとした。西の道は崖崩れで塞がり、東の道は廃鉱の鉄門で閉じていた。山を越えようとすれば、五つ目の鐘までに同じ白樺へ戻ってきた。道が曲がっているのではない。谷そのものが、外へ出る者を中へ返していた。


町の鉱夫は、廃鉱の奥にある安全境を《帰り石》と呼んでいた。そこを越えれば、堰が割れても水も岩も届かないらしい。


それを知っている女を、ガルヴァンは七度目の今日に見つけた。


鐘守のオルダは、坂の頂で大時計の裏蓋を開けていた。煤けた作業着に、真鍮の鍵を二十本ぶら下げている。三十ほどに見えたが、目だけがずっと老いていた。


「何度目だ」


ガルヴァンが尋ねると、オルダの手から油差しが落ちた。


「あなたも覚えてるの」


「七度目だ」


「私は九百十二度目」


オルダは笑った。笑い方を長く使っていなかった顔だった。


灰針山の上には、雪解け水をためた古い堰がある。正午前の小さな地震で、岩の堤に亀裂が入った。夜八時には堰が割れ、谷は屋根の高さまで水と岩に埋まる。


最初の今日、オルダは鐘楼に残された《返り車》を動かした。


夕方六時まで進んだ町を、正午へ巻き戻す仕掛けだった。


「それで九百回以上、町を救った?」


「九百回以上、見捨てるのを先に延ばした」


オルダは、返り車の中央に刺さった銀色の留め針を示した。


「これを抜けば今日が先へ進む。抜かなければ、六時に戻る。東の廃鉱を抜ければ助かる。でも六時間で九十六人を信じさせて、鉄門を開けて、病人と家畜を運んで、帰り石の向こうまで出すなんて無理だった」


「九百回もあれば、方法を探せる」


「百回目までは探した」


「それからは」


「助け方じゃなく、町を残す方法ばかり探した」


ガルヴァンは答えなかった。


一人ではなくなったのは、まだ七度前だった。


だが、その二人は鐘が鳴るたび彼を忘れた。


「二人に頼む」


「忘れるのよ」


「また頼む」


「信じてもらえなかったら」


「信じてもらえる言い方を習う」


八度目の正午、リナは話を信じなかった。


九度目は、ガルヴァンの予言を偶然だと言った。


十度目、彼が宿の女将、山羊、椅子、パン、午後の雹まで順に言い当てると、ようやく荷物をまとめた。


ただし、鉄門の鍵を開けたところで坑主デルクの見張りに捕まった。ガルヴァンが見張りを三人とも壁へ座らせると、騒ぎを聞いた鉱夫が出口を塞いだ。六つ目の鐘が鳴った。


十一度目、リナはデルクの印章を偽造した。鉄門は開いたが、長く使われていない鉱車の車軸が折れた。


十二度目、車軸を先に替えた。坑道の奥で毒気が溜まり、避難させた六人が倒れた。


十三度目、ネラが薬草の煙で風の流れを読み、毒気を逃がした。鉱車は動いたが、町の時計職人たちが道具を取りに戻った。


十四度目、道具を積んだ。山羊が十二頭増えた。


「人間だけで九十六人じゃなかったの?」


「山羊にも予定があるらしい」


十五度目、山羊を置いていけとリナが言った。飼い主が残った。


十六度目、山羊も数えた。豚が二頭増えた。


十七度目、ネラが家畜の一覧を作った。リナは一覧を見て、ガルヴァンへ言った。


「次の私には、最初からこれを言って。人、九十六。山羊十二。豚二。犬五。猫は数えなくていい。あいつらは勝手に助かる」


「紙は戻る」


「覚えて」


「もう覚えた」


十八度目のリナは、一覧を聞いて顔をしかめた。


「前の私、猫を甘く見すぎ」


猫は七匹いた。


今日の夕方を何度も使い、三人は失敗を集めた。


ガルヴァンは鉄門を開ける順番を覚えた。ネラは寝たきりの老人が四人、乳飲み子が二人、薬なしでは歩けない鉱夫が一人いると調べた。リナは町の者が誰の話なら聞くか、誰と誰を同じ鉱車へ乗せてはいけないか、デルクが金庫を捨てるまで何分かかるかを測った。


デルクは毎回、十八分かかった。


「金庫より先に運ぶ?」


ネラが尋ねた。


「本人を?」


「金庫を。先に外へ出せば、追ってくる」


リナは少し考えた。


「採用」


三十一度目、九十三人と家畜が帰り石を越えた。


三人足りなかった。


黄色い帽子の老婆は、死んだ夫が作った大時計を外そうとしていた。パン屋の少年は、水へ落ちた丸パンを犬から取り返そうとしていた。鐘守のオルダは、留め針から手を放せなかった。


六つ目の鐘が鳴った。


三十二度目の正午、ガルヴァンはオルダを鐘楼の壁へ押しつけた。


「針を抜け」


「全員を出してから」


「全員を出した日にも抜かなかった」


「三人残ってた!」


「お前を数えた」


「私は鐘守よ」


「町民ではないのか」


オルダは顔を背けた。


「これがなければ、町はなくなる」


「町はもう九百日以上前からなくなりかけている」


「だから終わらせろって?」


留め針へ伸びたガルヴァンの手を、オルダが叩いた。


「三百年終われなかった人に、今日を終える怖さが分かる?」


「分かる」


短い返事だった。


オルダは、初めて彼の目を見た。


そのとき、返り車の歯が一枚、かすかに動いた。


「手を出して」


「なぜ」


「いいから」


オルダは細い時計針で、ガルヴァンの親指を刺した。血が一滴、真鍮の輪へ落ちる。傷が閉じるのと同時に、六本の歯車が逆へ半目盛り回った。


鐘楼の奥で、まだ鳴っていない鐘が低く唸った。


「同じだ」


オルダは油で汚れた帳面を開いた。返り車の図の隅に、三つの鉤を組み合わせた古い印がある。指でなぞると、その下から細い文字が現れた。


「祖父は、返す術には必ず終わりを結ぶと言ってた。終わりのない輪は、どちらへ戻ればいいか決められない。だから術として閉じない」


「この鐘の終わりは、その針か」


「そう。町を返す術も、あなたの傷を返す術も、組み方が同じ。あなたの終わりが何かは分からない。でも、ないとは思えない」


「それで、私だけが覚えているのか」


「たぶん。あなたの術が、この町の返り方まで拒んだのかもしれない。確かなことは言えないけど」


ガルヴァンは、自分の親指を見た。


血は消え、傷もなかった。


いつもどおりだった。


いつもどおりであることが、初めて少し違って見えた。


「帳面を貸せ」


「返りの術は、終わりを返される者から隠す。写しても、あなたには肝心な行が読めないはず」


「なら、リナに読ませる」


オルダが帳面を渡しかけたところで、六つ目の鐘が鳴った。


三十三度目の正午、帳面は鐘楼へ戻り、リナは何も知らなかった。


ガルヴァンはすべて話した。


「もう一度、手短に」


「私の呪いには終わりがあるかもしれない」


「そこじゃない。町を出す段取り」


「気にならないのか」


「気になるから後回しにしてるの。今すぐ読みに行ったら、私は帳面を盗む。町が沈む」


リナは地図へ鉱車の順番を書き始めた。


「三十回以上、私と旅して、まだ優先順位が分からない?」


「三十二人のお前としか旅していない」


「全員、同じこと言ったでしょ」


「言い方は少しずつ違った」


リナの筆が止まった。


「覚えてるの」


「全部」


「忘れなさいよ、半分くらい」


「選び方が分からん」


「役に立たないところから消して。十四回目の山羊とか」


「あの山羊は鉄門の閂を開けた」


「役に立ってるじゃない」


リナはまた書き始めた。今度は少しだけ顔を伏せていた。


「次の私を信じさせる言葉が要る?」


「予言が六つあれば足りる」


「じゃあ七つ目。私が忘れても、私はあんたに任せた。そう言って」


「それで信じるか」


「信じなかったら、八つ目を考えて」


三十四度目から四十度目まで、作戦はよくなり、必ずどこかが壊れた。


鉱車の綱が切れた。鉄門の蝶番が外れた。デルクの金庫が重すぎた。黄色い帽子の老婆は時計ではなく夫の遺灰を取りに戻った。パン屋の少年は丸パンではなく犬を追った。


ネラは毎回、初対面の町医者へ頭を下げ、避難する病人の名を聞いた。


三十六度目、毒気を抜いたあとの鉱夫を診たネラが言った。


「この咳、坑道の毒だけじゃない」


六つ目の鐘が鳴り、そのネラは忘れた。


三十八度目、別のネラが、診療所の床板は正午より午後のほうが濡れていると気づいた。


「下から来てる」


六つ目の鐘が鳴り、そのネラも忘れた。


四十度目、ガルヴァンはネラを診療所の床下へ連れていった。


「前の二人のお前が、咳と水を調べろと言った」


「二人とも?」


「別々に」


「一人にまとめてから話して」


ネラは床下から湧く水を薬瓶へ取り、匂いを嗅いだ。薬箱の青石を砕いて落とすと、濁りが鮮やかな紫になった。


「山の堰に混ぜる目印と同じ鉱粉。もう地下まで漏れてる。これなら町医者が信じる」


それでもネラは指についた水を舐め、すぐに吐いた。


「舐めなくても分かったんじゃない?」とリナが言った。


「薬売りは味も見る」


「今、初めて聞いた」


「私も初めて言った」


町医者は、紫の水と、ネラが書いた病人の一覧を見比べた。


「町が残ったら、うちで働かないか」


「海へ行くから」


「そうか」


六つ目の鐘が鳴った。


四十一回目の正午。


塩壺が倒れ、椅子が落ち、ガルヴァンは話を終えた。


リナはしばらく黙っていた。


「本当に四十一回?」


「塩壺が四十回。胡椒壺が一回ある」


「今日を何回も使うときは帳簿をつけて」


「紙が戻る」


「体に書けば」


「傷も戻る」


ネラがガルヴァンの額を見た。


「便利なのか不便なのか分からないね」


「三百年考えている」


リナは立ち上がり、塩まみれの粥をガルヴァンの前へ押した。


「食べて。これを最後の今日にする」


町医者は、紫に変わった床下の水を見て鐘楼へ走った。


オルダが警鐘を鳴らす。火事でも戦でも使わない、山崩れの打ち方だった。九百四十六度目の今日で、彼女が一度も鳴らせなかった鐘だった。


町の者が広場へ集まる間に、リナはデルクの金庫を廃鉱へ運ばせた。


「待て! それは俺のだ!」


寝間着の坑主が坂を駆け上がってくる。


「所有権の確認は帰り石の外で受けつけます」


「誰の権限だ!」


「金庫を持ってる人の」


デルクは鉱夫を怒鳴りつけた。だが鉱夫たちは、紫の水を見ていた。毎朝濡れる坑道の壁も、近頃増えた咳も知っている。


「鉄門を開けるぞ」


一人が言った。


「坑道が水に埋まれば、金庫も鉱山も同じだ」


デルクは金庫を見た。


十八分かからず、鍵束を投げた。


ガルヴァンは鉄門へ肩を入れかけた。


それから、鉱夫たちへ向き直った。


「蝶番を支えてくれ。私一人で上げると、枠が割れる」


「爺さんに上がる重さか?」


「薬が効いている」


「何の薬だ」


「腰だ」


八人で鉄門を持ち上げた。ガルヴァン一人なら三呼吸で壊せた。八人なら二十呼吸かかったが、門は壊れず、最後の鉱車まで通った。


鉄門をくぐる列の脇で、鉱夫たちは坑道の滑車へ長い綱を通した。綱のもう一端は、鐘楼のオルダが返り車の留め針へ結んでいた。


ネラは診療所の薬瓶へ赤、青、黄色の紐を結び、病人ごと鉱車を分けた。


「赤い人は寝かせる。青い人は座れる。黄色は歩けるけど、歩かせると文句が多い」


「病状じゃなくて性格だろ」と町医者が言った。


「運ぶときは大事」


黄色い帽子の老婆には、時計を外す代わりに鐘楼の短針を一本持たせた。パン屋の少年には、水へ落ちる前の丸パンを籠ごと持たせ、犬を鉱車の先頭へつないだ。山羊十二、豚二、犬五、猫七。猫は数えられることを拒んだので、最後は八匹になっていた。


一つ目の鐘で、最初の鉱車が動いた。


二つ目で、病人が帰り石を越えた。


三つ目で、デルクの金庫が通った。本人はその上に座っていた。


四つ目で、町の半分が空になった。


五つ目の鐘が鳴る直前、病人と家畜を分けたぶん、前回より二台増えた鉱車の列が坂で跳ねた。


最後尾へ重さが偏り、制動具が折れた。


人と家畜を載せた六台が、先頭から押されて加速する。坂の先には急な曲がり角がある。速すぎれば、全員まとめて坑道の壁へぶつかる。


ガルヴァンが線路へ降りた。


「私が受ける」


「受けたら、あんただけ鐘の内側に残る」


リナは荷車の留め綱を切った。


三人が海まで押していくはずだった薬売りの荷車が、線路へ落ちる。車輪を横に噛ませると、木枠が悲鳴を上げた。鉱車の列が荷車を巻き込み、軟膏の壺を次々に砕いた。


死んだ沼の匂いが坑道いっぱいに広がった。


「私の薬!」


ネラが叫んだ。


「生きてたら作り直せる!」


「匂いは変える!」


「それは賛成!」


砕けた車輪と薬草が抵抗になり、鉱車は火花を散らしながら速度を落とした。曲がり角で黄色い紐の鉱夫が文句を言い、全台がどうにか帰り石の向こうへ滑り込んだ。


残ったのは、リナ、ガルヴァン、ネラ、オルダだけだった。


鐘楼から廃鉱までは、長い綱が引かれている。返り車の留め針へ結び、鉱山の滑車を六つ通した。帰り石の外から全員で引けば、針を抜ける仕掛けだった。


オルダは綱を握っていた。


「帳面は」とリナが尋ねた。


「鐘楼に置いた」


「持ってこなかったの」


「返り車と一緒でなければ読めない。それに、取りに戻ったら私はまた針を抜けなくなる」


リナは坂の頂を見た。


鐘楼の窓に、油染みの帳面が見えている。


呪いの終わりが書かれているかもしれない。


五つ目の鐘の余韻が消えた。


「行くぞ」とガルヴァンが言った。


リナは帳面から目を離した。


「分かってる」


四人は坑道を走った。


帰り石を越えたところで、町の者たちが綱を待っていた。九十六人。山羊十二。豚二。犬五。猫はもう数えなかった。


オルダが両手を綱へかける。


「私が合図したら引いて」


「鐘守の命令か」とデルクが言った。


「町民の頼み」


六つ目の鐘が鳴った。


一打目。


全員が綱を引いた。


二打目。


滑車の向こうで、何かが軋んだ。


三打目。


綱は動かない。返り車の針が、九百四十五回の力を受けて曲がっていた。


ガルヴァンは綱を腰へ巻いた。


リナがその隣へ立った。ネラが続き、オルダが続く。鉱夫、時計職人、パン屋、町医者、黄色い帽子の老婆、金庫を手放したデルクまで、一列に並んだ。


四打目。


「引け!」


ガルヴァン一人の力では、綱が切れた。


百人の力では、滑車台のほうが動いた。


五打目。


鐘楼の壁から返り車が引き剥がされ、真鍮の歯を谷へ撒いた。


最後の一打が来た。


世界は白くならなかった。


鐘の音は途中で割れ、初めて聞く静けさが谷へ落ちた。


誰も正午へ戻らなかった。


オルダが膝をついた。泣いているのか笑っているのか分からない息を吐き、帰り石の外から自分の町を見た。


「終わった」


「始まったんでしょ」


ネラが言った。


オルダは赤毛の少女を見て、今度ははっきり笑った。


夜八時、灰針山の堰が崩れた。


水と岩は鐘楼を倒し、宿をさらい、九百四十五回守られた屋根を谷の外へ押し流した。帰り石の向こうで、町の者たちは黙って見ていた。


誰も死ななかった。


家も時計も失った。


それでも翌朝は来た。


仮の天幕で、町医者はネラへ薬草を渡した。


「ここに残らないか。町を建て直すまで、薬を知る手が足りない」


ネラは流された谷と、白木の札ごと壊れた荷車と、海へ続く道を見比べた。


「春まで。海の町で合流する」


「一人で決めたの?」とリナが言った。


「農夫に聞いてから助けるんでしょ。薬売りにも聞いて」


リナは一度口を開き、閉じた。


「宿代は自分で稼いで」


「薬代も」


「軟膏の匂いは」


「変える」


「よし」


ネラは壊れた荷車から白木の札を外した。炭で自分の名を書き、仮の天幕へ掛けた。


オルダが、曲がった真鍮の歯を一枚持ってきた。返り車から谷の外まで飛んだものだった。


表には三つの鉤の印。裏には、途中で切れた細い文字が刻まれていた。


《返りは終わりへ結ばれる。結び目は、返る者には――》


その先は割れていた。


「帳面はなくなった」とオルダが言った。「でも、書いた者の工房印は残ってる。海沿いの古い時計院で見たことがある」


リナは歯を受け取り、乾いた布で包んだ。


「預かり料、一日一銅貨」


「高いな」とガルヴァンが言った。


「三百年分は請求しないであげる」


彼は包みを見たまま、しばらく黙っていた。


「怖いの?」


「少し」


その答えに、リナは目を上げた。


死ねると知って喜ぶとばかり思っていた。


「終わりを見つけても、勝手に触らないで」


「なぜだ」


「何十回も作戦を任せた私に、最後だけ相談しないつもり?」


「お前は覚えていない」


「あんたが覚えてる」


ガルヴァンは、布包みからリナへ視線を移した。


「分かった。先に話す」


「約束」


「約束する」


「私にも手紙」と、ネラが天幕の中から言った。


「聞いてたの?」


「薬売りは耳も使う」


「それも初めて聞いた」


三人は、壊れた荷車の代わりになる手押し車を組み立てた。


ガルヴァンが釘を一本打つと、板を貫いて地面まで刺さった。


「強すぎる」


リナが言った。


「昨日までは門を持ち上げていた」


「今日は手押し車」


「加減が難しい」


「明日覚えて」


ガルヴァンは朝の光を見た。


同じ正午へは戻らない光だった。


「承知した」


彼は二本目の釘を、今度は板の中ほどで止めた。


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