第7話 百十年という月日
十六夜古書店は午前十時に開店する。
シャッターを開け、店の前を軽くほうきで掃いてから、樹一郎はワゴンを外へ運び出した。
中には格安の文庫本がならべてあり、客が店に入るきっかけを作る大事なものだ。
いつもの場所に設置し終え、文庫本を綺麗にならべ直した。
すぐに店へ戻って今度は店内の掃除をするべく戻ると、裏から桃介がやってきた。
「おはようございます。樹一郎と話がしたいんですが、よろしいですか?」
と、カウンターで仕事をしていた蘇芳にたずねる。
「ああ、まだ客が入ってないから、かまわないぞ」
「ありがとうございます」
桃介は樹一郎の元へまっすぐに寄ってきた。
「樹一郎が貸してくれた本、読み終わった」
「どうだった?」
「まだ、受け入れられたわけぢゃないが、理解はできたと思う」
「そっか」
桃介が何気なく棚を見て言う。
「ここにならんでいるのは、歴史書かい?」
「うん。先代が、集めた」
「先代? 蘇芳さんは二代目なのか?」
「元々は、分家のおじさんが、始めた」
桃介は感嘆の息をもらし、樹一郎は隣の棚をハタキがけする。
すると蘇芳が桃介を呼んだ。
「桃介、読むものがなくて暇なのか?」
「いえ、そういうわけぢゃ……」
「ここの二階に、売り物にならない本を置いてるから、勝手に持ってっていいぞ」
「えっ、いいんですか?」
と、桃介はカウンターへ向かっていく。
「谷崎潤一郎もあったはずだ」
「そ、それは別に……ともかく、見てきます」
「おう」
桃介がそそくさと裏へ向かっていき、樹一郎はくすっと笑った。
古書店の裏には、駄菓子屋と同じような住居スペースがあった。昔は人が住んでいたらしいが、今はほとんど倉庫になっている。
桃介は二階の部屋へ入ると、大量に積まれている本やダンボールを見つけた。
おそるおそる手近な山に手を伸ばして見ていく。
先ほど店内で見た歴史書の棚もだが、今ここにある本の山を見ても、桃介は百十年という月日を考えずにはいられなかった。
「おっ」
知っている名前を見つけ、桃介はそっと抜き取った。
光の当たる場所を探して階段そばに座りこみ、窓ガラス越しに入る陽光の下でページをめくる。
店の方からは時々、声が聞こえてきた。隣の駄菓子屋と違い、よく客が入っているようだ。
聞いた話では、古書店の売上が蘇芳たちの暮らしを支えているとのことだった。
シェアハウスの賃料は実質的に学実と藤悟の二人からしか得ておらず、樹一郎の家賃は給料から天引きされているという。
駄菓子よいやの売上は微々たるもので、一ヶ月分の給料にすらならない。それでも柚妃を住みこませているのは、情報の入りやすさに重点を置いているからだ。
桃介が半分辺りまで読み終えると、袋を手にした蘇芳がやってきた。
「そんなところで読んでたのか」
「あっ、すみません!」
あわてて立ちあがろうとする桃介を、蘇芳は制止した。
「いや、かまわない。昼飯を持ってきたから、一緒に食べよう」
「あ、はい」
桃介は本を脇へ置いて正座をする。
あがってきた蘇芳が廊下に腰をおろし、手にした袋からおにぎりを取り出した。
「藤悟の作ってくれたおにぎりだ。食べていいぞ」
「ありがとうございます」
いつもシェアハウスへ戻り、昼食をとっていたが、今日はすっかり読書に夢中になってしまっていた。
桃介はラップにつつまれたおにぎりへ手を伸ばす。最初は慣れなかったが、扱い方は分かってきていた。
蘇芳は袋からお茶のペットボトルを出し、桃介の前へ置く。
「水分補給も忘れずにな」
「あ、はい」
ペットボトルも桃介からすれば、びっくりする代物だ。中に飲み物が入っていて、ふたもできるすぐれものである。
遅れて蘇芳もおにぎりを手にし、たずねた。
「この世界にはもう慣れたか?」
「ええ、まあ」
「困っていることはないか?」
「今のところは、特にないです」
黙々と食事を進め、桃介はペットボトルを手に取った。力をこめてふたを外し、冷たい緑茶をごくごくと飲む。
蘇芳が気さくな人だと分かっていても、桃介はなんとなく緊張してしまう。
三つ目のおにぎりを手にしたところで蘇芳が言った。
「怪幽会から連絡があった。特異災害対策局はお前を認めてくれたそうだ」
「それぢゃあ、報酬金は出るんですね」
「ああ。月末に前月分の報酬金がまとめて振りこまれる。来月からは桃介の分も入るから、その時になったら渡すよ」
「分かりました」
「ただし、お前の存在には謎も多い。何か心当たりとか、思い出せることがあれば、すぐに教えてくれ」
「はい、分かりました」
桃介がおにぎりを二つ食べたところで、蘇芳が本へ目を向けた。
「何を読んでいるのかと思ったら、谷崎潤一郎か」
「あっ、これは、その……」
「隠さなくていい。他人の趣味に口を出すような、野暮な真似はしない」
蘇芳は穏やかな顔をしており、桃介は表紙を見ながら言った。
「……おれの知っているものより、すさまぢくなっていて驚きました」
「初期の頃は、言われるほどではないもんな」
「ですが、言葉選びの素晴らしさは変わりません。おれはこの、魔法のような言葉ひとつひとつに、えらく惹かれちまうんです」
官能的や耽美などと称される谷崎作品だが、桃介は文章表現に魅了されていた。
「なるほどな。当時の学生がエリート層だというのは知っていたが、こうして話してみると、確かに知性を感じるよ」
と、蘇芳は軽く笑った。
桃介が反応に困ると、蘇芳は袋にゴミをまとめ入れて立ちあがる。
「そろそろ戻らなくちゃな。樹一郎のこと、支えてやってくれ」
「え?」
「気が合うんだろう?」
蘇芳のまなざしには父性が宿っていた。
桃介はとっさに居住まいを正した。
「はい。おれの方こそ、樹一郎には支えてもらっています」
「そうか。いいコンビだな」
蘇芳は満足げに階段をおりていった。きしむ音が少しずつ遠ざかる。
くすぐったい気持ちになりながら、桃介は正座をくずして読書の続きを始めた。
夕方になり、桃介は柚妃に呼ばれて駄菓子屋で店番をしていた。
平日にくらべれば客が増える日曜日だが、来るのはほとんどが常連だった。
「あら、はじめまして。新しいバイトの方ですか?」
と、三十代と思しき女性に声をかけられ、桃介は笑顔で返す。
「いえ、手伝いをしているだけです」
「手伝いってことは、もしかして裏のシェアハウスの?」
「まあ、はい」
「討異士の方だったんですね。いつもありがとうございます」
と、頭を下げられて桃介はとまどった。
するとダンボール箱を抱えた柚妃が戻り、彼女へ挨拶をした。
「高木さん、こんにちは」
「こんにちは、柚妃ちゃん。初めて会うお兄さんがいたから、びっくりしてたところです」
「すみません。ちょっと事情があって、最近、仲間入りしたんです」
答えながら柚妃は品出しを開始する。
「そうだったんですね。私は近所に住んでる高木です。ほぼ毎週、この時間に息子と来ているので、よろしくお願いしますね」
女性が桃介へ笑みを向け、桃介も返した。
「華歳桃介です。こちらこそ、よろしくお願いします」
高木の連れてきた男児は慣れた様子で店内を見ており、手にしたカゴにいくつかの駄菓子を選び入れていた。
「高木さんは、ここがよいやになる前からの常連なのよ」
「ずっと前からあるんぢゃないのかい?」
桃介が目を点にすると、高木が答えた。
「二年前だったかしら。ここは元々、曽根さんっていうおばあちゃんが長くやっていた駄菓子屋だったんです」
「曽根さんはもうお年だったから、年齢を理由に店を閉めることにしたんだけど、叔父さんが買い取って名前だけ変えたの。
それが今の『駄菓子よいや』なのよ」
「それは知らなかった」
てっきり古書店と同じように、ずっと昔からあるものだと思っていた。
建物は古書店同様、古びていたし、土地がシェアハウスと古書店と合わせて、ぴったり四角形におさまっていたからだ。
「私、駄菓子屋がなくなっちゃうのは嫌だったから、こうして残してくれた十六夜さんには感謝してるんです」
と、高木がしんみりと言い、駄菓子を選んでいる男児を見る。
「おかげで息子も、すっかり駄菓子が好きな子に育ちました」
「まま、これかってもいいー?」
子どもに呼ばれ、高木はそちらへ歩み寄った。
親子の仲むつまじい姿を見ながら、柚妃が空のダンボールをたたみつつ桃介のそばへ来る。
「これは叔父さんからの受け売りだけど、このお店は地域の人たちにとって、窓口みたいなものなの。
怪異の噂や目撃情報を集めるだけじゃなくて、あたしたち十六夜組のことを知って、理解してもらうためにあるのよ」
「言い換えれば、知らない人間も大勢いる、というわけだな」
「ええ。ただでさえ今の人は、他人に興味がないから」
柚妃は悲しそうに微笑し、再び奥へ入っていった。
桃介の生きていた時代と大きく違うのは、肌で感じていた。学実と行った池袋には大勢の人々が行きかっていたが、誰もがどこか冷たかった。
スーツを着た人々はせかせかと歩き、一方でスマートフォンをいじりながらのろのろと歩く若者もいた。
にぎやかな街に生きる人々はどこかちぐはぐで、桃介には大きな矛盾をはらんでいるように見えた。
それは、樹一郎や学実に対しても感じる。藤悟や柚妃、蘇芳に対してもだ。
桃介には現代人のはらむ矛盾が、いいことなのか悪いことなのか分からなかった。
風呂あがり、桃介は中庭に出て縁台に腰かけていた。
金平糖のカップを脇に置き、頭にかけたままのタオルでわしゃわしゃと髪を拭く。
タオルを肩へおろすと、後ろから声がした。
「こんなところにいたのか」
振り返れば蘇芳だ。
思わず背筋を伸ばす桃介だが、蘇芳はすぐに言った。
「緊張しなくていい。お前がどこにいるのか、把握したかっただけだ」
と、蘇芳は間をあけて桃介の横へ立つ。
「すみません、少し一人になりたくて」
「そうか。樹一郎が探してたが、邪魔なら俺もすぐに戻ろう」
桃介は金平糖を手に取った。
「いえ、いてください。一人で考えていたのですが、蘇芳さんになら、答えられるかもしれません」
「なんの話だ?」
「この世界は変だという話です」
「くわしく聞こう」
カップをもてあそぶと、小さな金平糖がころころとかすかな音を立てる。
「昨日、学実と話をしました。学実はたまたま力を手に入れただけだから、本来は戦わなくてもいいのに、戦うことを選んだ。
でも、普通の人がうらやましくなる時があって、彼は矛盾した思いを抱えて生きているんです」
「矛盾、か」
「樹一郎も同様です。本当は怖くて嫌なのに、戦うことを選んだ。
学実は藤悟を守るためで、樹一郎は十六夜家を背負っているから。なのに、普段がのんきすぎます」
困ったように蘇芳が息をつく。
「続けてくれ」
「おれは以前まで、命をかけて怪異退治をしていました。それだけぢゃなくて、勉学にも必死で取り組んで、遊ぶ時も必死でした」
「うーん」
「樹一郎から借りた本で、日本が戦争に負けたことを知りました。戦争を放棄してからずっと、平和であることもです。
しかし、無邪気に平和を享受するあまり、どこか必死さが薄れたような気がします」
手の中で金平糖が転がる。
「特に、怪異退治は命がけだというのに……おれは、それが気に入らないんです」
「なるほどな。言いたいことは分かったが、お前が見えていないだけじゃないか?」
「見えていない、ですか?」
「昔と今とじゃ時代が違いすぎる。昔の価値観で現代人を評しても的外れだ。
俺からすれば、樹一郎も学実も必死で毎日を生きて、必死で戦ってるように見えるぞ」
ショックを受けて桃介はうつむいた。確立したはずの自我がボロボロとくずれていく。
ふいに扉の開く音がした。
「桃介、いた」
樹一郎だ。
「ま、そういうことだ。じゃあな」
と、蘇芳は戻っていき、樹一郎が不思議そうに見送る。
「話してた、の?」
「たいした話ぢゃない」
そう答えながらも、桃介は樹一郎の方を見られなかった。この世界に対して、自分がいかに壁を築いていたか、自覚してしまったからだ。
すると樹一郎は何を思ったのか、スリッパをつっかけ、桃介の前に来てしゃがみこんだ。
「桃介、泣きそうな顔、してる」
「っ……違う」
「元の世界、恋しい? 僕、何もできない、けど……そばに、いるよ」
と、隣に腰をおろした。
視界がじわりとにじみ、桃介はあわてて袖でぬぐう。
「おれは日本男児だ。人前で涙なんざ見せられねえ」
「……見てない、から、いいよ」
わざとらしく空を見上げる樹一郎に気づき、頑なだった心がふっとほどける。
「そういう問題ぢゃねえ」
桃介は言いながら笑ってしまい、樹一郎が視線を戻してにこりと笑った。
蘇芳が言ったように、昔と今とでは時代が違う。生き方も、必死の意味も、命がけの意味するところも。
桃介はまず、その違いを受け入れることから始めようと思った。




