第8話 化けたスキルと、何でも屋の戦い方
左の通路から、二匹。
苔の濃い壁の向こう、まだ姿は見えないのに、何かが小走りに近づいてくる気配があった。背丈のある大きめのゴブリンだ。一段深い区画に入ってから何度も相手にしているから、足音の重さで、もう種類の見当がつく。
俺は走り出さなかった。逆だ。三歩下がって、通路がいったん広くなる場所まで、自分から間合いを開ける。狭いところで二匹に挟まれると、火球が撃てない。撃てば自分まで巻き込む。だから、火球の届く距離を、先に作っておく。
角から、二匹が飛び出してきた。
手のひらに熱を集める時間は、ちゃんとある。さっき気配で位置を取ったぶん、こっちが一拍早い。二匹が固まって突っ込んでくるその真ん中へ、火球を放り込んだ。
Lv2の一発が、通路の中で膨れて、二匹をまとめて炎で包む。一匹は前のめりに焦げて崩れ、もう一匹が炎の中からよろけ出てくる。皮の硬いやつだ。火だけじゃ仕留めきれない。
でも、もう熱は集め直せない。撃った直後の手のひらは、奥がじんと痺れて、しばらく次が出ない。火球はそういうスキルだ。
だから、ここからは別の手を使う。
よろけ出てきた一匹へ、礫を一発、額に叩き込む。倒すためじゃない。足を止めるためだ。ごつ、と当たって、相手の頭が一瞬のけぞる。その隙に、地面を蹴った。
床の蹴り出しが、軽い。俊足だ。歩く速さじゃなく、踏み込む速さ。よろけた相手の懐へ、一気に滑り込む。棍棒を振り上げる、その腕より先に、こっちが内側に入っている。借りものの剣を、首の付け根――硬い皮の継ぎ目みたいな柔らかいところへ、下から突き上げた。
二匹目も、声を上げずに横へ崩れた。
肩で息をしながら、剣を引き抜く。手のひらの痺れは、まだ残っている。
火球で固まりを焼く。礫で足を止める。俊足で間合いを盗む。剣でとどめを刺す。一発で全部片付く魔法なんて、俺は持っていない。火球は連発できないし、礫は硬いやつには効きが甘い。一つ一つは穴だらけだ。
だけど、相手と状況で手を選べば、穴は埋まる。近すぎたら下がって火球の距離を作る。遠かったら礫で止めて俊足で詰める。どの一手をどこで出すか――それを、相手の出方を見て決める。
何でも屋、とでも言えばいいんだろうか。一つの強い手で押し切るんじゃなくて、手の数で帳尻を合わせる戦い方。一段深い区画に入ってからの数日で、それがようやく形になってきた。被弾は、ほとんどない。危なげなく捌けている。我ながら、悪くない。
耳を切って、転がった魔石を布に包む。さて、奥へ――と、足を踏み出しかけた、そのときだった。
ふと、頭の奥で、何かが切り替わる感覚があった。夜の引きでもないのに、と思う間もなく、視界の隅にいつものスキルの並びが浮かんで、その一行が、ひとりでに動いた。
『鋭敏感覚 Lv5(N)』
Lv5。気づけば、ずっと使い込んできた鋭敏感覚が、いつのまにか天井まで上がっていた。Nの上限は、たしかLv5だ。これ以上は伸びない――そう思った、次の瞬間。
その一行が、ぐにゃりと書き換わった。
『気配感知(R)』
名前が、変わった。
Lvの数字が、いったん消えて、別物の表示になっている。Nの隣にあった印が、Rに上がっている。火球や鑑定と同じ、あの格だ。
は、と声が漏れた。なんだこれ。
スキルが、増えたんじゃない。今あるスキルが、別のスキルに化けた。集めたわけでも、引いたわけでもない。ただ、ずっと使い込んできたやつが、上限まで育ったら、勝手に一つ上に乗り換わった。
そういうことが、起きるのか。
頭で理解が追いつくより先に、世界のほうが先に変わっていた。区画全体の気配が、急に、はっきりした。
さっきまでは、近くで何かが動けば「あっちで動いた」となんとなく分かる、その程度だった。それが今は、違う。目をつぶっていても、通路の奥のほうに二つ、止まっているのが分かる。じっとして動かない、小さめの気配。さらにその向こう、分かれ道の右の先に、もう一つ。こっちはゆっくり動いている。
数が分かる。どっちにいるか分かる。大きいか小さいかまで、なんとなく伝わってくる。
遠くなった。細かくなった。さっきまで手探りで壁を撫でていたのが、急に部屋の地図を渡されたみたいだ。
歩く速さじゃなく踏み込む速さ、と俊足のときに思ったのと、似ている。でもこれは、もっと根っこから別物になった感じだ。鋭敏感覚が「近くの異変に気づく」だったなら、気配感知は「どこに何匹いるかを読む」だ。
集めて、育てて――それだけじゃないのか。化けるのか。
今ある火球も、いつか上の何かになるのかもしれない。俊足も、礫も。そう考えると、ぞくっとした。手の数が増えるだけだと思っていた。一つ一つが、まだ天井のずっと下にいる、ってことだ。伸びしろが、思っていたより、ずっと深い。
とりあえず、試してみたくなった。
奥へ進む。分かれ道の手前で立ち止まって、目を半分閉じる。気配を探る、なんて気負わなくても、向こうから勝手に伝わってくる。右の先、ゆっくり動いている一つ。左の奥、止まっている二つ。
左から行くことにした。動かないやつのほうが、不意打ちしやすい。
通路を進むと、案の定、小部屋に大きめのゴブリンが二匹、固まっていた。気配で読んだ通りだ。間合いは空いている。先に位置が分かっていれば、火球の距離を取るのも、熱を集める時間を作るのも、こっちの都合でできる。
二匹の真ん中へ、火球。膨れた炎が固まりを包んで、一匹を焦がす。炎を抜けてきたもう一匹に、礫で足を止めて、俊足で詰めて、剣でとどめ。
危なげなく、終わった。
気配で先に読めると、こんなに楽になるのか。相手がどこにいて、何匹で、どっちを向いているか。それが分かっているだけで、間合いも、手の順番も、全部こっちが先に決められる。
何でも屋の戦い方の、肝になる目だ。これは。
耳を切って、魔石を拾う。今日はもう、布が重い。十分稼いだ。そろそろ引き上げるか――そう思って、来た道を戻ろうとした。
戻りかけた足が、止まった。
気配感知の端っこに、何かが引っかかった。
ずっと奥のほう。今いる区画の、さらに先。これまで触れたことのない深さに、一つ、気配があった。
他のとは、違う。
今日相手にしてきた大きめのゴブリンの気配は、一つ一つそれなりに重かった。でもそれより、もう一回り大きい。濃い、と言えばいいのか。距離があるのに、はっきり伝わってくる。それくらい、向こうの存在感が太い。
じっとして、動かない。けど、消えない。
なんだ、あれは。
背筋が、ひやりとした。鋭敏感覚のときには、こんなに遠くのものは拾えなかった。気配感知に化けて、感じ取れる範囲が伸びたから、初めて引っかかった気配だ。つまり、ずっと前からあそこにいたのかもしれない。俺が、気づいていなかっただけで。
来た道を戻ると、通路の脇で、別の冒険者が二人、魔石を分けているところに行き合った。革鎧のほうが、地図みたいなものを布に描き写している。俺が会釈すると、若いほうが顔を上げた。
「あんた、奥まで行ったのか」
「いえ、左の小部屋までです」
「やめときな」革鎧のほうが、布から目も上げずに言った。「最近、奥に厄介なのが居ついてるって話だ。うちらも今日は手前で切り上げる。あんたみたいな新入りが一人でうろつく先じゃない」
「厄介なの、ですか」
「さあな。出くわした奴に聞いただけだ。図体がでかいとか、群れを連れてるとか――どこまで本当かは知らん」
若いほうが、肩をすくめた。
「噂って、尾ひれがつくからな。でも、火のないところに煙は立たねえって言うだろ。奥は、当分よしといたほうがいい」
二人は、それだけ言うと、分けた魔石を袋に押し込んで、先に通路を戻っていった。
俺は、その場に少し立っていた。
奥の、一回り大きい気配。冒険者の言う、厄介なの。あれが同じものを指しているのかは、分からない。気配感知が拾ったのは、ただ「大きくて、濃くて、動かない何か」というだけだ。
ただ、はっきりしていることが一つある。
あれは、今日相手にしてきた大きめのゴブリンとは、格が違う。




