第7話 E昇格と、踏み込む速さ
「あんた、Eに上がるよ」
その日、受付の台に布を広げて耳と魔石を並べると、女は数えるより先にそう言った。台帳のほうへ顎をしゃくる。
「言ったろ。札の記録が溜まってるって。上が見て、まあ、文句のつけようがなかったんだろうね。Fのまんま大穴に住みつく変わり者になられても、こっちが困る」
言いながら、女はカウンターの下から薄い銅の札を一枚取り出した。俺が登録のときに受け取った冒険者証と、よく似た形の札だ。ただ、縁のあたりに刻まれた印が、一つ多い。
「身分証、出しな」
言われるまま、腰の袋から自分の札を出して渡す。女は二枚の札を並べて、刻印の照合みたいなことをしばらく確かめてから、新しいほうを俺の手に押し返してきた。
「これでEだ。古いほうは、こっちで処分しとく」
それだけだった。
正直、もっと何か、儀式めいたものを想像していた。換金のときみたいに硬貨が滑ってくるわけでもなければ、誰かが祝ってくれるわけでもない。札が一枚、刻みの多いやつに替わる。ただそれだけ。金が増えたわけじゃない。それでも、手の中の札がさっきより少し重く感じるのは、たぶん気のせいじゃない。Fの新人から、Eの冒険者になった。世間の段が一つ、上がった。
「で、何が変わるんですか」
俺が訊くと、女は数え始めた硬貨から目も上げずに答えた。
「受けられる依頼が増える。報酬も、ちょっとは色がつく。あと、大穴」女は耳を一つ、布の脇に弾いて寄せた。「Eなら、浅層の下――一段深い区画に入っていい。今まで縄を張られてた先だよ」
「縄の先」
「そう。Fは浅層止まり。それより下は、ランクで切ってる。事故が多いからね」
女は数え終えた硬貨を、台の上で滑らせて押しやってきた。今日の取り分に、ほんの少しだけ、いつもより色がついている気がした。
「言っとくけど、深いとこの分だけ、出るもんも面倒になる。耳の数を稼ぎたいだけなら、浅層にいたほうが楽だよ。よく考えな」
考えな、と言いながら、女はもう次の客の依頼書に手を伸ばしている。皮肉なのか親切なのか、いつも半々で分からない。
でも、答えはもう決まっていた。一段深い区画。今まで縄の向こうにあって、覗くことも許されなかった場所。そこで何が出て、自分の手札がどこまで通用するのか。確かめないで浅層に居座る理由が、俺にはない。
――そういえば、ゆうべの引きも、見るからに地味だった。
『俊足 Lv1(R)』
寝る前、いつものように念じたら、頭の奥でかちりと硬い音が鳴って、視界の隅にその名前が増えた。
俊足。読んで字のごとくなら、足が速くなるんだろう。Rがついているから、火球や鑑定と同じ格ではある。ただ、引いた瞬間は、これといってピンとこなかった。立ち上がって部屋の中を二、三歩歩いてみても、別に風を切って走れるわけでもない。床を蹴る感触は、昨日までと同じだ。
脚力がついた実感が、まるでない。
まあ、火球だって最初は手のひらに熱が灯っただけだった。鋭敏感覚も、最初は耳がよくなった気がする程度だった。使ってみないと分からないやつなんだろう、と、そのときはそれで放っておいた。当たりかハズレかの判定は、後回しでいい。
そんなことを、Eの札を握りながら、ぼんやり思い出していた。
梯子を降りて、見慣れた浅層を抜ける。
ゴブリンの二、三体は、もう道具を片付けるみたいに礫と貸し剣で処理して、奥へ進む。見覚えのある分かれ道の先、これまで縄が張られていた区画の入り口で、その縄が外されているのを確かめた。Eの札を持つ者だけが通れる、その先へ足を踏み入れる。
空気が、変わった。
通路が一段、広く、高くなる。壁を伝う苔の色が濃い。気配を四方へ伸ばすと、浅層よりも、一つ一つの輪郭が大きい。数は少ない。けど、一匹が、重い。
最初に出てきたのは、ゴブリンだった。ただし、浅層のやつより、ふた回りは大きい。背丈が俺と変わらないくらいあって、手にした棍棒も、丸太に近い。肌の色も濃くて、表面が、なめした革みたいに硬そうだ。鑑定をかけるまでもなく、見ただけで分かる。これは浅層の雑魚とは、格が違う。
通路の幅が狭くて、火球を撃つには近すぎる。撃てば自分まで巻き込む。礫を一発、額めがけて投げると、当たりはしたが、ごつ、と鈍い音がして弾かれた。皮が、思ったより硬い。怯みもしない。
まずい。間合いが、悪い。
大きいやつが棍棒を振りかぶって、踏み込んでくる。下がって火球の距離を作るか、横へ逃げるか。一瞬、迷った。
迷ったその足が、思っていたより、ずっと前に出た。
下がるつもりだったのに、気づけば俺は、相手の棍棒が振り下ろされる、その内側へ滑り込んでいた。半歩、二歩。地面の蹴り出しが、いつもより軽い。床がぐっと近くなって、相手の懐に、自分でも信じられない速さで入っている。
頭より先に、体が間合いを詰めていた。
棍棒は、俺がさっきまでいた場所の床を叩いて、空を切った。
懐に入ってしまえば、もう棍棒は怖くない。借りものの剣を、相手の喉の脇――首の付け根に、下から突き上げる。硬い革みたいな皮の、その継ぎ目みたいな柔らかいところに、刃が吸い込まれていった。大きいやつは、声も上げずに、横向きに崩れ落ちた。
肩で息をしながら、自分の足元を見下ろす。
いま、何をした。
下がろうとして、なぜか前に出た。あの一歩。あれは、自分の意思で踏み込んだというより、踏み込もうとした以上に、足のほうが先に間合いを食い潰した。そういう感覚だった。
俊足、か。
昨日、部屋でただ歩いた時には、何も感じなかった。当たり前だ。ただ歩くだけなら、速くなる必要がない。けど、いざ間合いを詰めようと地面を蹴った瞬間、こいつは効いた。歩く速さじゃなくて、踏み込む速さ。攻めの一歩を、ひとつ前倒しにしてくれる。
火球は、固まった相手をまとめて焼く一発だ。礫は、足を止める牽制だ。じゃあこの俊足は――間合いを、こっちから作る脚だ。
近すぎて火球が撃てない。なら、もっと踏み込んで、剣の届く距離まで一気に詰めればいい。遠ければ、礫で足を止めて、その隙に距離を盗む。間合いが悪いと思っていた状況が、足の速さ一つで、丸ごとひっくり返る。
スキルが一つ増えた、で済む話じゃない。今ある力の使い方そのものが、まるごと広がった。
その後の区画は、嘘みたいに楽だった。
通路の先の小部屋で、さっきと同じ大きめのゴブリンが二体、固まっているのを、気配で先に捉えた。今度は間合いが空いている。
走り出す。床の蹴り出しが、やっぱり軽い。距離が、見ている間にぐんぐん縮む。二体がこちらに気づいて棍棒を構えるより、俺が間合いに入るほうが、一拍早い。手のひらに熱を集める時間も、ちゃんとある。
二体の真ん中へ、火球を放り込んだ。
Lv2の一発は、狭い小部屋の中で大きく膨れて、固まった二体をまとめて炎で包んだ。一体はその場で焦げて崩れ、もう一体が炎の中からよろけ出てきたところへ、俊足でもう一歩踏み込んで、貸し剣でとどめを刺す。
今度も、傷一つ負わずに終わった。
撃った直後は、相変わらず手のひらの奥がじんと痺れて、しばらく次は撃てない。燃費の悪さも、連発できないのも、何も変わっちゃいない。硬いやつには礫も効きが甘い。万能になったわけじゃ、全然ない。
ただ――間合いを、自分の脚で選べるようになった。それだけで、戦い方の幅が、まるで違う。
遠ければ詰める。近ければ抜ける。火球が撃てる距離まで、自分から運ぶ。今まで「相手の出方に合わせて、こっちの手を選ぶ」だったのが、「自分の都合のいい間合いを作って、そこで手を出す」に変わった。
攻めの一歩。なるほど、当たりだ。地味どころか、これはかなり使える。
大きめのゴブリンの耳を切り、転がった魔石を拾い集めていると、通路の奥から、足音が一つ近づいてきた。
革鎧に、薄い金属の板。あの常連の男だった。一段深い区画にいるということは、この男もEより上なんだろう。手には、自分の獲物から取ったらしい魔石を、無造作に布で包んでいる。
男は、床に転がった大きめのゴブリン二体と、首の付け根を突かれて崩れたもう一体を、ちらりと見回した。それから、俺の腰の貸し剣に目をやる。
「お前、ここ、今日からか」
「ええ。今日、Eに上がったので」
「ふうん」
男はもう一度、転がった三体を見た。焦げた二体は火だ。だが残る一体は、明らかに剣でやられている。しかも、首の付け根。あの大きさのゴブリンの懐に入るには、棍棒の間合いを越えなきゃならない。火しか撃たないと言っていた新入りが、どうやってそこに入ったのか。男の目が、ほんの少しだけ、その一体に留まった。
「火しか撃たんと思ってたが」男は、感心するでもなく、ただ事実を確かめる調子で言った。「懐にも入るのか」
「足が、ちょっと速くなったんで」
我ながら、間の抜けた答えだと思う。けど、実際そうとしか言いようがない。
男は、それ以上は訊かなかった。布を腰に下げ直して、通り過ぎざまに、ぼそりと一言だけ落としていった。
「新入りにしちゃ、手堅いな」
立ち止まりもしない。褒めるというより、品定めの結果を口の中で転がして、半分だけ外に漏らした。そういう一言だった。
それきり男は奥へ向かって、通路の角を曲がって消えた。世辞でも、説教でもない。ただ、横で一度見た新入りの動きに、わざわざ一言、評をくれた。あの無愛想な男が。
俺は、拾いかけの魔石を布に包む手を、しばらく止めていた。




