第5話 はじめての大穴と、効く一発
目の前に、ぽっかりと黒い口が開いていた。
街道を北へ、半日も歩かないうちに着いてしまった。なだらかな丘の斜面が、ある一画だけ、地面ごとごっそり抜け落ちている。差し渡しは家が何軒も入りそうな広さで、縁から覗き込むと、底のほうは陽が届かず、ただ黒い。湿った土と、嗅いだことのない、つんとした匂いが下から立ち上ってきた。これがラドリスの大穴か、と俺は縁の手前で足を止めた。
昨日、酒場の髭面の男は「街道を北に半日」と言っていた。実際に歩いてみれば、ずっと近かった。あの言い分は、酒の入った大げさだったんだろう。
そのことは、今朝ギルドで受付の女に確かめてあった。
ことの起こりは、目が覚めて枠を見たところからだ。
窪地の藁の上で、固くなった体を起こして、視界の隅の枠に目をやる。引ける回数が、また1に戻っていた。四晩続けて確かめたから、もう数字を二度見することもない。寝れば戻る。それだけのことだ。
森に向かう前のいつもの一回。念じると、頭の奥でちりっと小さく爆ぜた。
『灯火 Lv1(N)』
灯火。ともしび、と読むやつだ。明かりを灯せる、ってところだろう。名前のとおりなら、火球みたいに飛ばして燃やすやつじゃなく、ただ手元を明るくする系だ。
試しに念じてみると、手のひらの少し上に、橙色の小さな光がぽっと点った。蝋燭をひと回り大きくしたくらいの、柔らかい光だ。熱くはない。手をどけても、光は俺のすぐ脇に浮いたまま、ふわりとついてくる。
これから潜ろうとしている穴の底は、覗いた限り陽の届かない暗がりだ。明かりがなけりゃ、足元も見えないまま手探りで降りることになる。ちょうどいいときに出てくれた、と素直に思った。これで七つになった。回数はまた0だ。続きは明日。
ギルドに寄って、受付の女に穴のことを尋ねると、女は手元の依頼書から顔も上げずに答えた。
「ああ、あの穴かい。北の街道沿いだよ。歩いて、まあ半刻もあれば縁には着く。日のあるうちに行って、帰ってこられる距離さ」
「半日かかるって聞いたんですけど」
「誰がそんなこと言ったんだか。半日もかかったら、新人が日帰りで稼げる狩り場になんかなりゃしないよ」女は呆れたように鼻を鳴らした。「酒場の与太を真に受けるんじゃないよ。半日ってのは、もっと奥の、本物の深いとこまで潜る連中の話さ。あんたが行くのは入り口あたりだろう」
「……はい。浅いとこだけ、のつもりです」
「ならいい。一人かい」
俺が頷くと、女は初めて顔を上げて、片眉を上げた。
「浅いとこから無理せずね。欲かいて奥まで行くんじゃないよ。新人が一番簡単に死ぬのは、そういうときだ」
言いながら、女は台の下から、簡素な短剣を一本取り出して寄越した。鞘も柄も飾り気のない、見るからに安物だ。
「文無しの新入りには、これを貸してる。穴に潜るなら、丸腰よりはマシだろ。返しに来な」
受け取って、腰に差した。ずしりと重い、というほどでもない。けど、何も持っていないより、ずっと心強かった。火球はある。だが、あれは何発も続けて撃てるものじゃない。手のひらが切れたとき、この一本があるのとないのとでは、肝の据わり方が違う。
腹は減ったままだ。手元には銅貨一枚もない。汁の一杯も買えないまま、俺は北の門をくぐった。空きっ腹を抱えて穴に賭ける、ろくでもない算段だ。でも、魔石が出れば、桁が違うらしい。それで全部ひっくり返せるなら、賭ける価値はある。
縁に取りつけられた粗末な木の梯子を伝って、穴の中へ降りていく。
降りるにつれて、陽の光が背中の上のほうへ遠ざかっていった。代わりに、脇に浮かべた灯火の橙色が、岩肌をぼんやり照らし出す。出たての明かりが、さっそく役に立っている。これがなかったら、今ごろ手すりを探って這うように降りていたはずだ。
梯子を降りきると、横へ伸びる通路に出た。岩を削って作ったような、人ひとり半が通れるくらいの幅だ。壁も床も、しっとりと湿っている。例のつんとした匂いが、ここではもっと濃い。これが魔素ってやつなのか、と何となく思う。詳しいことは分からない。ただ、空気がどこか、ぴりぴりと張りつめている感じがあった。
そして、人の気配がぽつぽつあった。
少し先の広間らしき空間で、灯りがいくつか揺れている。革鎧の男が二人、棍棒を構えた小さな影に向かって剣を振っているのが見えた。別の通路の奥からは、誰かの掛け声と、武器のぶつかる音が、こもって響いてくる。ここは新人の狩り場だと、女は言っていた。なるほど、俺と同じような連中が、あちこちで小遣いを稼いでいるらしい。
少しだけ、気が楽になった。一人きりで未知の穴に潜るのかと身構えていたが、近くに人がいるというだけで、肩の力が抜ける。
俺は灯火を先に浮かべたまま、慎重に通路を進んだ。鋭敏感覚で背中と前を探りつつ、開けた方向は遠見で先を見通す。索敵の手が二つあると、片方で背後を見ながら、もう片方で前を確かめられる。森でやったのと同じだ。
鋭敏感覚は、昨日Lv2に上がったやつだ。気のせいか、拾える範囲がいくらか広くなった。湿った床を伝ってくる足音の細かさや、奥のほうで何かが立ち止まる気配まで、輪郭がはっきり届く。
その鋭敏感覚が、ふいに前方を強く引っかけた。
角を曲がった先の、少し開けた窪み。
そこに、いた。
小さい人型が、三体。緑がかった灰色の肌。腰のあたりまでの背丈で、瞳が黄色く濁っている。一体は木の棍棒、一体は錆びた短剣、もう一体は石の先をつけた槍を握っていた。
ゴブリンだ。これも頭の中に像がある。森や浅い穴に湧く、低位の魔物。
向こうは、まだこっちに気づいていない。三体で固まって、何かを引きずるみたいに、窪みの奥をうろついている。鋭敏感覚で先に拾えたぶん、こっちが一手早い。
念のため、鑑定を向けた。
『ゴブリン。弱い個体。数で押すが、一体ずつなら脅威は低い。』
だろうな、と思う。森のスライムよりは手強そうだが、群れで来るのが厄介ってだけだ。一体ずつなら、どうとでもなる。問題は、三体まとめてかかってこられること。狭いところで囲まれたら、新人は簡単に死ぬ、と女が言っていたのは、たぶんこういう場面だ。
なら、囲まれる前に、固まっているうちに片をつける。
今、三体は窪みの奥で、ちょうど身を寄せ合っている。横幅の狭い、岩に挟まれた一角だ。散らばられたら厄介だが、固まっているなら――一発でいい。
俺は灯火をすっと自分の後ろへ下げて、手のひらに熱を集めた。火球。
ぼっ、と火の塊が生まれる。森のスライムに撃ったときより、意識して大きく、強く練った。手のひらが炙られて、熱が腕まで来る。それを、固まった三体のど真ん中めがけて、低く放った。
火球が、岩壁に挟まれた窪みに飛び込んで――弾けた。
ど、と腹に響く音がした。
炎が、狭い一角でいっぺんに膨れ上がる。逃げ場のない空間で、火が壁に当たって広がり、三体をまとめて呑んだ。先頭の二体が、悲鳴を上げる間もなく炎に巻かれて、肌が焦げ、毛のような体毛が一瞬で縮れる。槍を持った一体が、ぎゃっ、と短く叫んで、火の中からよろけ出てきた。
効いた。
はっきり、効いた。狼のときは、一発撃っても倒れずに怯んだだけだった。あれが噓みたいに、今は二体が崩れ落ちて、焦げた匂いを上げて動かなくなっている。狭い場所に固まっていたのが、まるごと裏目に出たんだ。森でスライム相手に「使い分けだ」なんて澄ましていたのとは、手応えがまるで違った。うまくいった、という高揚が、遅れて突き上げてくる。
ただ、撃った直後、手のひらの奥がじんと痺れて、息が一気に上がった。あの大きさの一発は、やっぱりただじゃ済まない。腕がだるくて、次の火球を生むには一拍どころじゃ足りない。
そして、一体、生き残っている。
炎を逃れた槍持ちが、体を焦がしながらも、こっちへ向かって駆けてきた。怒りで目をぎらつかせている。火球は、もう間に合わない。
なら、こっちだ。
手のひらを向けて、礫、と念じる。ぽっ、ぽっ、と石が立て続けに飛んだ。これは息が上がっていても撃てる。一発の重さはないが、手数は出る。額に、肩に、石が当たって、ゴブリンの足が乱れる。よろけたところへ、俺は腰の貸し剣を抜いて、踏み込んだ。
会社員に剣の心得なんかない。けど、相手は石で足を止められて、半ば前のめりに倒れかけている。その首の付け根あたりへ、力任せに刃を叩き込んだ。手に、ごり、と硬い手応えが伝わって、ゴブリンが横ざまに崩れた。
それきり、動かなくなった。
通路に、焦げた匂いと、自分の荒い息だけが残った。
しばらく、肩で息をしていた。
三体。狼一頭にあれだけ怯えて、撃つ手が震えていたあの夜から、まだ数日だ。それが今、群れを一人で片付けて、立っている。手は、震えていない。代わりに、心臓が早鐘を打って、口の端が勝手に持ち上がっていた。やれた。やれたぞ、これは。
倒れたゴブリンに屈んで、貸し剣の刃で、討伐の証だという右の耳を一体ずつ切り取っていく。あまり気持ちのいい作業じゃないが、これが銅貨に変わると思えば、手は動いた。三枚分の耳を布に包む。
それから、体を探る。火球が直撃した二体の、焦げた胸のあたりから、親指の先ほどの、暗く濁った石が転がり出た。スライムの核より、ひと回りも、ふた回りも大きい。槍持ちの一体からも、同じものが出てきた。鑑定を向けると、買い取ってもらえる代物だと返ってくる。
魔石。これか。
手のひらに三つ並べて転がすと、ずしりと重さがあった。森で拾ったスライムの核とは、見るからに格が違う。あの男が「桁が違う」と言った意味が、握った重みで分かった気がした。
まだ、何も換金していない。それでも、この手の中のものが、空きっ腹も野宿も、まとめてひっくり返してくれる予感があった。
布を結び直していると、別の通路の奥から、さっきより切迫した声が聞こえてきた。
誰かの掛け声。武器のぶつかる、硬い音。そこに、押されている、という焦りが混じっている。さっきまでの稼ぎ仕事の物音とは、明らかに様子が違った。
鋭敏感覚と遠見を、声のほうへ向ける。
短い通路の先の、別の窪みだった。新人らしい三人組が、ゴブリンの群れと向き合っている。数は、向こうのほうが多い。四体か、五体。三人のうち二人が後ろへ下がりかけていて、一人だけが前に出て、必死に剣を振っていた。
その一人が――栗色の髪を、後ろで一つに束ねていた。
リタだ。
簡素な革の胸当て、使い込んだ短剣。間違いない。ギルドで紙を譲ってくれた、あの同期の子だ。
リタは前衛で踏ん張っていたが、後ろの二人が崩れたぶん、群れを一人で受け止める格好になっていた。剣の腕は悪くない。一体、二体と捌いてはいる。けど、横から回り込んできた一体に、側面ががら空きになっていた。本人は正面の相手で手一杯で、そっちに気づいていない。
まずい、と思った。
体が、先に動きかけた。あの側面の一体なら、火球を――いや、待て。
手のひらに集めかけた熱を、俺は一度、止めた。
ここで派手に火球をぶち込めば、群れは片付くかもしれない。でも、それは目立つ。一人で潜ってきた新入りが、群れをまとめて焼いて、しかも他人のパーティの戦いに横から割り込む。穴の中の連中が、いっせいにこっちを見るだろう。能力を、初対面の相手に全部見せて回るほど、俺はこの世界に慣れていない。慎重にいきたい。出しゃばりたくない。
頭では、そう思った。
けど、リタの側面に回り込んだゴブリンが、錆びた短剣を振り上げるのが見えて――結局、体のほうが先だった。
火球じゃない。礫だ。
手のひらを、その一体に向ける。礫、と念じて、立て続けに撃つ。ぽっ、ぽっ、ぽっ。三発、四発と、回り込んだ一体の横っ面と肩に石が集中して当たった。ゴブリンの体勢が大きく崩れて、振り上げた短剣が空を切る。
その隙に、正面を片付けたリタが、ようやく側面の異変に気づいた。崩れたゴブリンへ身を翻して、横ざまに短剣を払う。一体、沈む。流れが、そこで切り替わった。後ろの二人も、息を吹き返したように前へ出てくる。
数発の礫だ。派手なことは、何もしていない。横から、たまたま転びかけたところを、もうひと押ししただけ。これくらいなら、誰がやったかも、たぶん曖昧なままで済む。
そう思っていた。
けど、リタの目が、まっすぐこっちを向いた。
「……悠さん!?」
最後の一体を二人がかりで仕留めたあと、肩で息をしながら、リタは俺のいる通路の口を、まじまじと見ていた。
「なんで、悠さんがここに。一人で? 採取は」
「ああ、まあ……稼ぎを変えてみようと思って」
俺は腰の貸し剣を鞘に納めながら、できるだけ何でもないふうに言った。
リタは、俺の足元のほうへ目をやった。少し離れた窪みに、焦げて崩れた三体のゴブリンと、まだ立ち上る焦げ臭い煙。それから、ついさっき礫で崩れた一体へと、視線が動く。
「あれ……今の、悠さんがやったの。さっきの、火も」
声が、少し上ずっていた。後ろの二人も、いつの間にか俺のほうを見ている。穴の中の、ほかの灯りも、こっちへちらほら向きかけていた。
しまった、見られたか、と内心で思う。が、もう撃ってしまったものは仕方がない。
「いや、運がよかっただけだよ」俺は肩をすくめた。「狭いとこに固まっててくれたから、まとめて当たっただけで。あんたらのは、横の一匹に石を当てただけだ。大したことはしてない」
「大したことって……」
リタは何か言いかけて、それから、ぎゅっと口を結んだ。負けず嫌いの、あの顔だ。礼を言いたいような、悔しいような、複雑な色が、ぜんぶ顔に出ている。
「……助かった。ありがと」
絞り出すみたいに、それだけ言った。
「べつに。貸しを作ったつもりはないよ」
いつかリタが俺に言ったのを、そっくり返してやると、リタは一瞬きょとんとして、それから、ふん、と鼻を鳴らした。けど、目元は少しだけ、ゆるんでいた。
穴を出て、地上へ戻る頃には、日はだいぶ傾いていた。
梯子を登り切って、外の光と、草と土の匂いの中に出たとき、思わず大きく息を吸った。穴の中のあの張りつめた空気から抜けると、肩がふっと軽くなる。
街へ戻って、ギルドの受付台に、布の中身を並べた。ゴブリンの右耳が三枚と、魔石が三つ。それと、借りた短剣を返す。
女は、耳と魔石を一つずつ手に取って確かめ、それから硬貨を引き出しから出して、台の上で数えながら並べていった。今朝までと、置かれる枚数がまるで違う。耳と魔石ぶんを締めて、銅貨で、数十枚。控え料はもう昨日のうちに済んでいるから、引かれるものもない。
昨日、薬草とスライムの核で、手元に残ったのは四枚だった。それが、今日は、これだ。
「初日で浅いとこにしちゃ、上出来だよ」女は淡々と言いながら、硬貨をこっちへ滑らせた。「ゴブリン三体に、魔石まで揃えてくるとはね。一人でかい?」
「ええ、まあ。運がよかったんで」
「ふうん」
女はそれ以上詮索しなかった。次の客を処理する、いつもの顔に戻っている。それが、なんだか、いつもよりありがたかった。
その銅貨を握って、俺はまず、汁を二杯と、堅パンを一切れ頼んだ。
昨日は一杯で手元が空になったのに、今日は二杯頼んでも、まだ余る。湯気の立つ椀を両手で持って、すすった瞬間、知らず、長い息が漏れた。温かい。塩気が沁みる。昨日の一杯が「人間に戻った」一杯だったとすれば、今日の二杯目は、ただ純粋にうまかった。
それから、大通りを少し外れた一本筋の安宿で、一泊ぶんの銅貨を払った。前金で、十二枚。鍵はないと言われたが、構わない。
二階の、藁を敷いた小部屋に通されて、俺はその藁の上に、どさりと腰を下ろした。屋根が、ある。
窪地の藁の上で、四晩、外の冷えに身を縮めて寝た。それが今夜は、壁と屋根のある場所で眠れる。なんだか、可笑しかった。たった一日穴に潜っただけで、こうも変わるのか。空きっ腹も、野宿も、まとめて終わった。
ただ、そのことに浸って眠るには、まだ頭が冴えていた。
藁の上に座ったまま、俺は今日のことを勘定し直していた。
穴に潜れば、稼げる。それは、はっきりした。草を抜いて九枚の日々とは、桁が違う。
それだけじゃない。昨日、鋭敏感覚が、使い込んだぶんLv2に上がっていた。今日、群れを片付けるのに使ったやつらも、撃って、見て、探って、これからまた育っていくはずだ。引けば増えて、使えば伸びる。今日の火球の一発が、もっと大きく、もっと安く撃てるようになる日が、たぶん来る。
今日のは、入り口あたりの、一番弱いゴブリンが相手だった。それでも、こんなに効いた。受付の女も、酒場の男たちも、口を揃えて言っていた。深く潜れば潜るほど、出るやつは強くなる、と。新人が欲をかいて死ぬのも、そこだと。
奥が危ないのは、分かっている。今日いきなり奥へ行くつもりも、ない。
でも、と思う。
強い相手と戦えるってことは、そのぶん、こいつらが育つってことだ。浅いとこでこれなら、もっと深く行けば――もっと、強くなれる。
穴の底の、見たこともない暗がりを思い浮かべながら、俺は手のひらを開いたり閉じたりした。明日も引ける。明日も、潜れる。その先がどこまで続いているのか、知りたくてたまらなかった。




