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無限ガチャの転生者 ~毎日引いてスキルを集め、育てて最強になる~  作者: わわわ


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第46話 終わらせた者と、まだ下のある世界

 大穴の口を抜けた瞬間、朝の光が、容赦なく目を刺した。


 縦穴の中の暗さに、体が、すっかり慣れていたらしい。岩肌の縁を越えて、地上の空気を吸い込むと、それだけで、肺の中の湿った綿が、ごっそり抜けていく感じがした。最濃の魔素で重かった頭が、一段、軽くなる。喉の奥のひりつきも、外の乾いた空気で、ゆっくり、ほどけていった。

 まだ、手のひらの奥は空っぽだ。腕の付け根まで、撃ち切った重さが居座っている。指は半分しか言うことを聞かないし、こめかみの内側には、視る目の熱が薄く残っていた。それでも、底にいたときより、ずっとましだった。地上にいるだけで、何かが抜けていく。

 それが、生きて戻った、ということなんだろう。


「あー、明るい」リタが、目の上に手をかざして、間延びした声を出した。「目が、痛い」

「俺もだ」


 見張りの組が、縦穴の縁で、こっちを見て、固まっていた。

 松明を提げた若い官が、口を半分開けたまま、後ろの相棒の袖を、引っ張っている。底へ下りていった三人が、ふつうに、自分の足で、上がってきた。たぶん、それが、信じられない顔だ。底へ下りる、というのが、この街でどういう意味か、俺も、もう、知っている。下りていったやつのほうが少なく、その下の底の底から戻ってくるやつなんて、いない。


「……戻った、のか」見張りの官が、ようやく、それだけ言った。

「戻りました」俺は言った。「下も、見てきました」

 言いながら、自分でも、妙な言い方だと思った。けど、ほかに、言いようが、なかった。


 騒ぎになるまでは、早かった。

 見張りの一人が、口のほうへ、走っていった。それから、ほどなくして、痩せた官が、縄のあたりから、足早に上がってきた。氾濫の晩から、ずっと、この口に詰めているらしい。目の下の隈が、あのときより、さらに、濃くなっていた。


「あんたか」官は、俺の前で、足を止めた。確認するときの、あの顔だ。「縄の下に、潜っていった三人ってのは」

「俺たちです」

「下で、何があった」


 俺は、できるだけ、短く話した。

 底の底に、群れを生んで引き寄せていた、でかいやつがいたこと。それを、断ったこと。引き寄せが止まったから、群れは、奥へ寄らなくなって、いま、底で、散り続けていること。地図でずっと読んでいた数が、本当に、減り始めていること。

 官は、最後まで、口を挟まずに聞いていた。聞き終えると、しばらく、何も言わずに、縦穴の奥の暗がりを、見下ろしていた。


「……それが、本当なら」官が、低く言った。「堰き止めたんじゃ、ない。終わらせた、ってことになる」

「終わったと、思います」俺は言った。「断ったのは、確かです。あとは、勝手に、薄くなっていくはずで」

「勝手に、薄くなる」官は、その言葉を、口の中で、転がした。それから、後ろの見張りに、何か、短く指示を飛ばした。底の群れの数を、二日、三日と、見張りに数えさせるつもりらしい。俺の言葉を、そのまま信じたわけじゃない。事実を、自分の組で、突き合わせにいく顔だった。それでいい、と思った。


「礼は、ギルドから、きちんとする」官は、こっちに、向き直った。「氾濫の防衛で、要の取り分が付くと、前に言った。あれは、堰き止めた働きに対してだ。……今度のは、別だ」

「別、というと」

「堰き止めるのと、終わらせるのは、桁が違う」官は、はっきり言った。世辞の調子は、まるでない。あくまで、釣り合いの話をしている顔だ。「氾濫を一晩しのいだ冒険者は、あの晩、何十人もいた。だが、根を断って、二度と起きないようにした者は、あんたら三人だけだ。その働きに、堰き止めと同じ取り分しか付けないなら、こっちの算盤が、合わなくなる」


 会社員のころに、嫌というほど聞いた理屈だった。

 手柄が、立場に追いつかなくなる。そうなると、上は、帳尻を合わせにくる。情でも、おだてでもない。釣り合いが崩れたから、桁を繰り上げる。それだけのことだ。


「ありがたいです」俺は言った。「正直、底まで下りるのに、いろいろ、使いました。装備も、また、いるので」

「それと」官は、俺の腰の革袋に、ちらりと、目をやった。「その袋。底から、何か、持って上がったな」


 見抜かれていた。

 俺は、革袋の口を、ゆるめて、中身を、官に見せた。底のほうから、鈍く光を溜め込んだ、あれの、芯のかけら。拾い上げたときと同じ、ずしりとした重みが、手の中で、ことりと、動いた。


 官の表情が、変わった。

 隈の浮いた目が、それを見た瞬間、すっと、細くなる。何か、言いかけて、口をつぐんだ。それから、慎重に、俺の手の中のものへ、顔を近づけた。


「……鑑定持ちを、呼ぶ」官は、低く言った。「いまここで、俺が値を口にする話じゃない。だが」

「だが?」

「俺は、二十年、この口に詰めてる」官は、目を、かけらから、離さなかった。「浅層の魔石も、中層の素材も、底から運び上げられた、いろんなもんを、見てきた。その上で言う。こんな手触りのものを、見たことが、ない」


 ギルドの鑑定持ちが呼ばれて、口まで上がってくるのに、しばらく、かかった。

 その間、俺たちは、岩に腰を下ろして、待っていた。リタは、隣で、足を投げ出して、肩を回している。下りるあいだ、後ろを振り向かずに前を抜けてきた疲れが、いまになって、出てきたらしい。キサは、少し離れた岩で、鼻先を、下の暗がりへ向けたきり、何も言わずに座っていた。


 鑑定持ちは、商人くずれみたいな、丸眼鏡の男だった。

 革袋から出したかけらを、布の上に置いて、しばらく、掌をかざしたり、目を凝らしたりしていた。やがて、額に、じっとり、汗を浮かべた。


「これは」男は、声を、抑えていた。抑えきれていなかった。「来歴が、読めない。素材としての系統が、どこにも、当てはまらない。深層の核は、何度か見たが……これは、もっと、奥のものだ。希少という言葉が、追いつかない」

「値は」官が、訊いた。

「付けられません」男は、首を振った。「いや、付くには付く。ですが、私の一存で、桁を口にできる代物じゃない。これは、ギルドの本部に、上げる級です。買い手も、この街には……たぶん、いない」


 俺は、横で、それを聞いていた。

 値が付けられない、というのは、安い、という意味じゃない。高すぎて、この場の誰も、その数字を、責任もって口にできない、という意味だ。倉庫で帳尻を合わせていたころに、たまに、そういう品に当たったことが、ある。桁が、現場の権限を、超えている。


「……すごいのが、出ちゃったね」リタが、ぼそっと言った。

「出ちゃったな」


「持って上がったのは、賢明だった」官が、丸眼鏡の男から、布ごと、かけらを引き取って、慎重に、袋へ戻した。「だが、勘違いするなよ。これが出たのは、あんたらが、底まで下りて、断ったからだ。下りなきゃ、誰の手にも、入らなかった。これは、あんたらの、取り分だ。……当たり前に、桁が大きいもんが手に入る、と思うな。こんな口は、十年に、一度、開くか開かないかだ」

「分かってます」

 分かっていた。氾濫だって、十年に一度だ。その十年に一度の根が、たまたま、底まで読める目と、嗅ぎ分ける鼻と、芯を抜く剣が、同じ場所に揃ったから、断てた。次もある、なんて、思っちゃいない。


「それと、あんたのことだ」官は、声を、少し、落とした。

「俺の?」

「前に、上に、あんたのことを上げておいた、と言った」官は、隈の浮いた目で、俺を見た。「あのときは、推す材料が揃った、上が動き始めてる、までだった。次が、それを証してから――そういう順番だ、と」

「言われました」

「証した」官は、短く言った。「氾濫を、根から断った。これ以上の、証はない。Dの新人の棚に、置いておく理屈が、もう、どこにも、ない」


 胸の奥が、ぐっと、せり上がってくる感じがした。

 Dに上がったのが、つい、この前だ。それが、もう。


「上がるん、ですか」俺は、訊いた。

「動いてる」官は言った。慎重な言い方だった。「今日、この場で、札を渡す、という話じゃない。飛び級の格上げってのは、本部の承認が要る。だが、今度のは、誰も、止めようがない。あんたの推しは、もう、動き始めたんじゃない。動いてる。……近い、ってことだ」

 近い。それだけ、言って、官は、また、見張りの差配のほうへ、目を戻した。

 すぐに、Cの札が手に入る、という話じゃなかった。それでも、推す、から、動いてる、まで、進んだ。あの晩、まだ半分、他人事みたいだった「上が動き始めてる」が、いまは、確かに、俺のほうへ、向かって動いている。それくらいの手応えは、空っぽの腕の奥にも、ちゃんと、座っていた。


「リタも、だ」官が、付け足した。

 リタが、ぱっと、顔を上げた。

「私、も?」

「右の口を、一晩、抜かせなかった。今度は、底まで下りて、芯に、剣を入れた。本隊と、こっちの連れの証言が、付いてる」官は、キサのほうへ、ちらりと、目をやった。キサは、何も言わず、ただ、鼻先を、こっちへ、ほんの少し、向けただけだった。「前衛として、勘定されてる。連れの付き添いじゃ、ない。あんたの推しも、動いてる」

「……私の、剣で」

「あんたの剣でだ」官は、それきり、背を向けた。「二人とも、追って、受付から知らせがいく。今日のところは、体を、休めろ。底から上がってきたなりの顔を、してる」


 官が、見張りのほうへ、歩いていったあと。

 リタは、しばらく、自分の手のひらを、じっと、見ていた。

 芯に剣を沈めた、その手だ。煤は、もう、だいぶ落ちている。けど、その手を、ゆっくり、握って、開いて、また握って、何かを、確かめるみたいにしていた。


「悠さん」

「ん」

「私さ」リタは、手のひらを見たまま、言った。「底で、あんたが、爆炎を乗せて、それでも芯が、最後にあがいたとき。右が、空くって、言ったでしょ」

「言った」

「あのとき、私、考えなかったんだよね」リタは、握った手を、ゆっくり、開いた。「行けるかな、とか、間に合うかな、とか。考える前に、もう、走ってた。覆いの、薄くなったとこへ。剣を、芯まで、突き立てに」

「覚えてる」


 覚えていた。爆風で吹き飛ばされた体勢から、立ち上がりざま、リタが走った。あれは、迷いの、ない走りだった。


「前はさ」リタは、開いた手を、目の高さまで、上げた。光に、透かすみたいに。「悠さんが、右、抜くな、助けが行くって怒鳴って。私、信じて、前だけ見て、踏ん張ってた。守られて、待ってた、わけじゃないけど。でも、決めるのは、いつも、悠さんの一発で。私は、その隙を、こじ開けるとこまで、だった」

「立派に、こじ開けてたぞ、それ」

「うん」リタは、うなずいた。それから、握った拳を、軽く、自分の胸の、ちょうど真ん中に、当てた。とん、と、心臓の上を、確かめるみたいに。「でも、今日は、最後に剣を入れたの、私なんだよね。あんたの火が、芯を抉って、ぐらつかせて。それでも止まらなかった、最後の一手。あれ、私の剣だった」

「お前の剣だった」

「私、剣で、終わらせたんだ」リタは、胸に当てた拳を、ゆっくり、離した。声に、力みは、なかった。「守られて待つ剣じゃ、なくて。決める剣に、なれたのかな。って」


 俺は、それに、何も足さなかった。

 あの最後の一手が、どれだけの距離の先にあったかは、横で、ずっと見ていた。けど、それを、リタが、いま、自分の言葉で、確かめている。剣で、終わらせた、と。その手応えは、リタのものだ。お前は強くなったな、なんて、横から、まとめてやる話じゃ、なかった。


「なれてたよ」俺は、それだけ言った。「ちゃんと、間に合ってた」

「うん」

 リタは、もう一度、自分の手のひらを、見た。今度は、握らなかった。開いたまま、しばらく、眺めてから、ぱたん、と、膝の上に、落とした。

「なんか、こういうの、初めて」リタは、ちょっと、照れたみたいに、笑った。「自分で、終わらせた、って、思えるの」

「腫れた手でも、煤だらけの手でも、よく言うよ」

「いまは、腫れてないし。煤も、落ちたし」

「言ってみただけだ」


 少し離れた岩のほうから、キサが、立ち上がる気配がした。

 山刀を、肩に担ぎ直して、こっちへ、二、三歩、寄ってくる。鼻先は、まだ、ときどき、下の暗がりへ、向いていた。


「あんた」キサは、俺のほうを見ずに言った。「底の臭いが、もう、薄い。さっき下から上がってくるあいだも、ずっと薄くなり続けてた。寄り集まる、あの重い臭いが、消えてる」

「俺の地図でも、減ってます」

「だろうね」キサは、鼻を、ふん、と鳴らした。「あたしの稼ぎ場が、戻る。深いとこの、いい素材を、単独で採る。それが、あたしの食い扶持だ。その狩り場が、丸ごと、あれに、食い荒らされてた。……それが、戻る」

「よかったですね」

「べつに」キサは、こともなげに言った。「あんたらのためじゃない。あたしは、あたしの稼ぎ場を、取り戻したかった。それが、戻った。それだけだ」


 言葉は、底で言ったのと、変わらなかった。

 馴れ合う気は、ないらしい。一緒に底まで下りて、おなじものを断っても、キサは、キサのままだった。けど、その鼻が、下りるあいだ、ずっと、薄いほうを、薄いほうを、嗅いで、後ろを、見ていてくれた。それで、十分だった。


「ま、あんたの読みは、悪くなかった」キサは、踵を返しながら、付け足した。「あれの引き寄せに、火を乗せるなんて、あたしは、思いつきもしなかったよ。……死んでも、助けないけどね。次があれば」

「次は、ないといいですけど」

「だね」

 キサは、それきり、縦穴の縁を離れて、大穴の口の、坂のほうへ、歩いていった。振り返りもしなかった。荒れた狩り場が戻ったら、また、一人で、深いところへ潜るんだろう。それが、あいつの食い扶持だ。


 入れ替わるように、ダグが、中層のほうから、上がってきたわけじゃ、なかった。

 ダグは、もう、口の近くにいた。負傷者の列が、街へ運ばれていったあとの、片づけのあたりで、見張りの連中と、何か、短く話していたらしい。俺たちのほうへ気づくと、そっちを、切り上げて、歩いてきた。脇腹の布は、もう、巻いていなかった。傷は、塞がったらしい。


「下、終わったか」ダグは、俺の前で、足を止めた。

「終わりました」俺は言った。「断ちました。底の、大本を」

「ふん」ダグは、短く、息を抜いた。それから、縦穴の奥を、顎で、しゃくった。「お前らが、下りてるあいだ、上は、二度、漏れた」

「漏れた?」

「凪っつったって、ちょろちょろは、来る」ダグは、こともなげに言った。「中層の枝から、上がってこようとするやつを、二度、押し戻した。一度は、結構な数だった。あれが、上まで抜けてたら、また、街道のほうが、騒ぎになってた。……まあ、抜けさせなかったがな」

「ダグさんが」

「俺の、領分だ」ダグは、当たり前みたいに言った。「お前らが、底で、大本を断ちにいってるあいだ。上を、空っぽにするわけにゃ、いかねえ。中層から上は、俺が、抑えてた。それくらいは、できる」


 いつもの、それだった。

 一緒には、下りない。底の底なんざ、行ったところで足手まといだ、と、はっきり、線を引く。けど、そのぶん、俺たちが下りているあいだ、上の領分を、誰にも漏らさず、抑えきってくれていた。中層止まりの男に、できることと、できないこと。それを、こいつは、ずっと前から、はっきり、分かっていて、できるほうを、きっちり、やった。


「助かりました」俺は言った。「上が、空っぽだったら、安心して、下りられなかった」

「だろうな」ダグは、肩をすくめた。「お前らが、下を断ちゃ、俺の稼ぎ場も、平和になる。中層に、変なもんが、降りてこなくなる。持ちつ持たれつだ」

「持ちつ持たれつ、ですか」

「そういうこった」ダグは、剣の柄を、軽く叩いた。「お前は、下を読んで、断つ。俺は、上を、抑える。それぞれの、領分だ。……まあ、お前ら、底から、よく、生きて上がってきたもんだ。それだけでも、たいしたもんだぞ」


 持ち上げる言い方じゃなかった。

 たいしたもんだ、を、ぼそりと、付け足しみたいに、落としただけだ。けど、ダグの口から、それが出るのは、珍しかった。


「ダグさん」リタが、横から、言った。「上、二度も漏れたなら、ダグさんも、けっこう、無茶したんじゃないの。脇腹、塞がったばっかりでしょ」

「塞がってりゃ、動ける」ダグは、こともなげに言った。「お前らの底に比べりゃ、中層の漏れなんざ、いつもの仕事だ。……それより、お前ら、報酬の口、上がりそうなんだろ。受付の女が、台帳に、何か書き込んでたぞ。あの女が、新人の名前を、二度も三度も書き直すのは、珍しい」

 ダグは、それだけ言って、口の坂のほうへ、歩いていった。

 また、知った顔の負傷者を、見舞いに行くんだろう。屈み込んで、何か、短く、声をかけている背中が、見えた。


 口の近くの岩に、もう一度、腰を下ろした。

 日が、だいぶ、高くなっていた。底にいたあいだの夜も、上がってきてからの後始末も、ぜんぶ、通しでやって、いまは、もう、昼に近い。腕の付け根の重さは、まだ、抜けない。けど、最濃の魔素で、ぼうっとしていた頭は、ずいぶん、澄んできた。地上の空気を、吸っているだけで、火が、また、遠くの底のほうで、ゆっくり、眠りに戻っていくのが、分かる。次に撃てるまでには、まだ、時間がいる。それでも、空っぽが、少しずつ、埋まりにかかっている。


 ふと、地図を、下へ、伸ばしてみた。

 縄。縦穴。その下の、深層。底の底。群れの密度は、上がってきたときより、さらに、薄くなっていた。散って、ばらけて、てんでに、岩の隙間へ、消えていく。引き戻す芯は、もう、ない。数が、減っている。本当に、減っている。

 その、さらに、下。

 あれが、いた場所の、もっと奥へ、感知を、落としてみた。やっぱり、届かなかった。芯を、抜いても。引き寄せが、止まっても。あの、ぬめった何かは、相変わらず、表面で、感知を、すべらせる。あれが、どこから来たのか。なぜ、そこに在ったのか。底の、そのまた下に、何が続いているのか。そこは、断った、いまも、まるで、読めなかった。

 まあ、それは、いい。

 頭の隅に、置いておく。生きて戻ったんだから、それで、十分だ。


「悠さん、地図、まだ見てるの?」リタが、横から、覗き込んできた。

「下、見てた」

「まだ、群れ、いる?」

「減ってる。ちゃんと」俺は、地図を、しまった。「あとは、勝手に、薄くなってく」

「ねえ」リタが、足を、ぶらぶらさせながら、言った。「キサさん、これから、また、一人で、深いとこ、潜るのかな」

「潜るだろうな。あいつの、稼ぎ場だ」

「私たちは?」

「俺たちは、まず、その手と、この腕を、ちゃんと、休める」俺は、半分しか動かない手のひらを、握って、開いた。「それから、装備を、また、見繕う。報酬、跳ねるらしいから、いいやつを、揃えられるかもな」


 そういえば、と、リタが、何か、思い出したみたいに、口を、開いた。

「さっき、見張りの人たちが、話してたんだけど」リタが、声を、少し、ひそめた。「氾濫の根を断ったって話、街のほうに、もう、広まり始めてるって。底から戻ってきた三人が、いるって。それで、なんか、北のほうから流れてきた行商人が、変なこと、言ってたって」

「変なこと?」

「西の関所が、また、渋ってるとか。帝国のほうが、なんか、ぴりぴりしてるとか」リタは、肩をすくめた。「氾濫が片づいたと思ったら、今度は、そっちか、って、見張りの人が、ぼやいてた」

 帝国。

 その響きは、いまも、俺の中で、はっきりした形を、結ばなかった。底の底と、深層と、大穴の口の、その向こう。街道の先の、地図の、端のほう。そういう、ぼんやりした遠さとして、頭の隅に、また、転がり込んできた。氾濫を、終わらせた、その手応えの、ずっと外側の話だ。いまの俺たちには、関わりのない、遠い噂だった。


「遠いね」リタが、言った。

「遠いな」俺も、言った。


 昼の光が、大穴の口の、岩肌を、白く照らしている。

 縦穴の奥の暗がりは、もう、不穏な気配を、上げてこなかった。底で、群れが、散り続けている。引き寄せの芯を、断ったから。氾濫の、根を、断ったから。堰き止めたんじゃない。終わらせた。それは、もう、動かない事実だった。

 俺は、岩から、立ち上がった。だるい腕を、ゆっくり、回す。手のひらの奥の空っぽは、まだ、埋まりきっていない。それでも、その遠さの底に、火が、また、眠っている。集めて、育てて、避けて、運んで、ここまで来た火だ。


 Dの新人が、十年に一度の氾濫を、根から、断った。

 札は、まだ、手の中で、Dの刻みのままだ。けど、それが、もう、動き始めている。推す、から、動いてる、へ。近い、と、官は言った。氾濫を終わらせた、というのが、どういうことか、ギルドの算盤は、ちゃんと、勘定し直している。

 その、ずっと外側に、まだ、世界がある。

 底の、そのまた下。読めない、深部。地図の端の、国と国の、きな臭い話。その、もっと向こうの、おとぎ話みたいな、果ての噂。世界の底は、源を断っても、まだ、その先に、続いていた。上も、まだまだ、果てしなく、高い。


 不思議と、それが、怖くなかった。

 前に、Dに上がったとき。世界は、まだ広い、と思った。あのときの広さは、まだ、何にも届いていない、手前の広さだった。いまの広さは、少し、違う。十年に一度の根を、自分の手で、断った。その足場の上から、見上げる広さだ。

 届かなかった火を、芯まで、届かせた。届かないと思っていたものに、届いた。

 なら、その先の遠さも、いつか、集めて、育てて、二人で行けば、一つくらいは、近くなるのかもしれない。


「帰るか」俺は、リタに、言った。「装備、見繕って、その腕、休めて。それから、また、潜る」

「Cの、札、来るかな」

「来るかもな。動いてる、って言ってたし」

「来たら」リタが、立ち上がりながら、言った。「私のほう、また、すっ飛ばしてたら、笑うんだけど」

「お前は、すっ飛ばすのが、得意だからな」

「でしょ」

 リタが、得意げに、笑った。

 二人で、大穴の口を、背にして、街への坂を、下り始める。昼の光の中、片づけの槌の音と、運ばれていく負傷者の列の、低い呻きが、まだ、続いていた。後始末は、当分、終わらない。けど、終わらせたのは、確かだ。背中の縦穴の奥で、減り続けている群れの数を、地図の隅に、薄く感じながら、俺は、空っぽの手のひらを、もう一度、握って、開いた。半分しか、動かない。

 次に、火が満ちるころには、たぶん、新しい札が、来ている。

 そうしたら、また、その下を、覗きにいく。世界は、まだ、ずいぶん、下があるらしいから。


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