第45話 止まった湧きと、閉じる窓
最初の段を、二歩、上ったところで、足が、止まった。
背中で、底の底が、しんとしている。さっきまで、あれだけ壁を埋めていた群れが、引き戻す力をなくして、岩の隙間へ、てんでに散っていく。その散り方が、地図の上で、いつもと、まるで違って見えた。
いつもの群れは、奥の一点へ、寄っていく。何百匹が、てんでに動いているようでいて、向きだけは、ぜんぶ、底の奥へ揃っている。漏れたやつも、結局は、また奥へ引き戻される。下りてくる道々、ずっと、その流れを読んできた。寄る。寄る。とにかく、奥へ寄る。
いまは、逆だ。
奥の一点から、群れが、ほどけて、離れていく。引っ張る芯が、なくなったから。寄るべき先が、消えたから。岩の割れ目へ、横穴のほうへ、上の暗がりへ、てんでばらばらに、薄く広がっていく。
地図の底の数が、減っていく。
「悠さん?」上から、リタが、振り向いた。「どうしたの、止まって」
「減ってる」俺は、地図から、目を離さずに言った。声が、自分でも、少し、掠れた。「底の、群れの数が。さっきから、ずっと、減ってってる」
「減ってる?」
「散ってってるんだ。奥に、寄らないで」
ずっと、減らなかった。
堰き止めた晩も。底まで読めるようになってからも。何度、底をなぞっても、削いだそばから、また満ちた。あれが奥にいて、引き寄せ続けている限り、終わらない。間引いても、間引いても、減らない。賽の河原だ、と、リタに言った日のことを、まだ、覚えている。積んでも、崩される。崩しているのは、湧く速さじゃなくて、底の、あれだ、と。
その、崩していたやつが、止まった。
止まったら、群れは、寄る理由をなくす。寄る理由をなくしたら、散る。散ったら、数が、減る。それだけのことが、地図の上で、いま、本当に、起きていた。
倉庫で帳尻を合わせていたころの、あの目で、勘定が合った。
ずっと、合わなかった数が。
「臭いも」キサが、後ろから、鼻先を、底の暗がりへ向けた。「痩せてってる。さっきより、もう、薄い。群れの臭いが、寄り集まらないで、ばらけてる。……あんたの目と、おなじだ」
わざわざ、同じところを指してる、とは、言わなかった。鼻が、底のほうへ向いたきり、しばらく、動かなかった。それで、十分、伝わった。
「あんた、勝手に減る、って言ってましたよね」俺は言った。
「言ったよ」キサは、鼻を、こっちへ戻した。淡々としていた。「あたしの稼ぎ場が、戻る、って」
「戻ってますよ。もう」
キサは、ふん、と、鼻を鳴らしただけだった。
でも、その鼻の鳴らし方が、まんざらでも、なさそうだった。
手のひらの奥が、まだ、空っぽだ。
芯まで運ばせた爆炎の、その重さが、腕の付け根まで、居座っている。撃ち切ったぶん、しばらく、火は、出ない。指は、半分しか、言うことを聞かない。最濃の魔素で、頭は、まだ、ぼうっとしている。こめかみの内側には、視る目の熱が、引かずに残っている。
それでも、その全部の、ずっと底のほうに、手応えが、座っていた。
減ってる。地図の上で、本当に、減ってる。氾濫の、その根を、断ったんだ。堰き止めたんじゃない。元を、断った。だから、減る。湧きが、止まったから。
「終わったんだね」リタが、息を、吐いた。底の暗がりを、見下ろして。「ほんとに。氾濫」
「終わった」俺は言った。「あとは、勝手に、薄くなってく」
手放しで、喜べるかというと――そう、簡単には、いかなかった。
群れが、おかしくなり始めた。
散る、というのは、整然と、引いていくことじゃ、なかった。
ずっと、芯のほうへ引かれて、それを当たり前にしてきた群れが、いきなり、引く力を、なくした。向かう先が、消えた。寄り集まる理由が、なくなった。そうしたら、こいつらは、どこへ向かえばいいのか、分からなくなったみたいだった。
壁を、めちゃくちゃに、駆け回り始めた。
「うわっ」リタが、横へ、身を引いた。
すぐ脇の岩肌を、蜘蛛が、二匹、三匹、向きもかまわず、駆け抜けていく。底へ落ちるやつもいれば、上の暗がりへ噴き上がるやつもいて、互いにぶつかって、岩から剝がれて、また這い上がる。狂ったみたいに、てんでに、暴れていた。
「散るって、こんな、暴れるもんなの?」リタが、短剣を、構え直した。
「引かれてたのが、急に、引かれなくなったから」俺は言った。地図の上で、群れの動きが、ばらばらに、跳ねている。「行き先が、なくなったんだ。寄る先が。それで、わけが分からなくなって、暴れてる」
縦穴のあちこちで、群れが、噴いた。
寄り集まる流れが、なくなったぶん、こいつらは、押さえが、なくなっていた。岩を、めくり上げるみたいに、群れごと、噴き上がる。噴いた拍子に、もろくなっていた縦穴の岩が、ぼろっと、剝がれる。剝がれた岩が、また、別の群れを、巻き込んで落ちる。
まずい。
来たときより、楽に上がれる――底で、そう、読んだ。引き寄せが止まれば、群れは奥へ寄らない、寄らないなら詰まりもほどける、と。
半分は、当たっていた。
道は、群れで、詰まっていない。奥へ寄る流れが、消えたから。けど、もう半分が、外れていた。寄らなくなった群れが、こんなに、暴れるとは、思っていなかった。引き寄せという、たった一つの秩序が、消えた。その反動で、底じゅうの群れが、行き場をなくして、いっせいに、狂い始めていた。
整然と引いてくれたら、すいすい上がれた。
暴れられると、そうは、いかない。
「凪は」俺は、地図を、縦穴の上のほうへ、伸ばした。
堰き止めの、その直後だけ来る、押し上げの抜けた、わずかな隙。下りるときに、空いていた、あの道。
まだ、空いている。けど――縁のほうから、じわじわ、狭まっていた。下りてきたぶんの時間が、確実に、窓を、閉じにかかっている。あれを倒したからって、窓が、開き直すわけじゃ、なかった。凪は、本番の後の、いっときのもの。倒した、いまも、容赦なく、閉じ続けている。
「閉じかけてます」俺は言った。「源は、断ちました。でも、凪は、別です。あれを倒したから、開いてるわけじゃない。閉じる前に、上がりきらないと」
「下りたときの道、また、詰まる?」
「詰まりはしない。寄る流れがないから」俺は、首を振った。「けど、暴れる群れと、崩れる岩で、塞がる。間に合わなかったら、最濃のとこに、足止め食う。あそこで止まったら、息が、もたない」
急ぐしか、なかった。
全部、倒して上がる、なんて手は、最初から、ない。爆炎は、空っぽだ。火球を出すにも、しばらく、間がいる。それに、たとえ撃てても、こんな数、片っ端から潰してたら、底まで来たときみたいに、こっちの息が、先に切れる。
倒すんじゃ、ない。
縫って、上がる。下りてきたときと、おなじだ。暴れる群れの、その隙間。崩れていない、岩の足場。それを、つないで、上りきる。違うのは、向きが、逆ってことと、群れが、整然と寄らずに、めちゃくちゃに散ってる、ってことだ。
「リタ、先に行け」俺は、岩壁から、身を起こした。「足場は、俺が読む。崩れる前に、言う。キサさんは、後ろから、群れの薄いほうを、嗅いでください」
「あんたの腕、まだ、上がらないだろ」キサが、低く言った。「火も、出ないんだろ」
「出ません」俺は、正直に言った。「でも、読むのと、避けるのは、できます。崩れも、暴れも、ごく先なら、視られる。一発ずつなら」
「無理は、しなよ。あんたが倒れたら、誰も、上に上げらんないからね」
あんたらのため、とは、やっぱり、言わなかった。
稼ぎ場が荒れるのが嫌なだけ、と、底でも言っていた。けど、その理屈で、後ろを、ちゃんと、見ていてくれていた。それで、よかった。
上り始める。
リタが先、俺が真ん中、キサが後ろ。下りてきた、おなじ道だ。けど、底へ引かれる流れは、もう、ない。引かれずに、自分の足で、岩を踏んでいける。それは、確かに、楽だった。
楽だけど――暴れる群れが、その楽を帳消しにしにかかってくる。
横の岩肌から、不意に、群れが、噴いた。
寄り集まる先をなくした蜘蛛が、固まりのまま、岩を剝がして、こっちへ、なだれてくる。狙って、来たんじゃない。ただ、暴れた先が、たまたま、こっちだっただけだ。狙いがないぶん、来る向きが、読みにくい。
「リタ、右! ばらけて来る!」
リタが、上りかけた足を、半身で、ひねった。強化を、投げ込む。先頭の一匹を、横ざまに、薙ぐ。倒すというより、流れを、断ち切るみたいに。割れた群れの、薄くなった一画へ、リタが、半歩、踏み込んで、足場を、稼ぐ。
「全部、相手にすんな!」俺は、声を投げた。「薙いで、抜けろ! 詰めるな!」
「分かってる!」
リタは、もう、群れに、張りつかなかった。
一匹、片づけたら、すぐ、次の足場へ、足を伸ばす。倒し切ろうとして、立ち止まらない。下りてくる途中で、何度も、おなじことを、やってきた。守られて待つ剣じゃ、なくなった。自分で、流れの薄いほうを、選んで、抜けていく。
その、薄いほうを、後ろで、キサが、嗅いでいた。
「上、左寄り」キサが、短く言った。「そっちの臭いが、薄い。群れが、まだ、寄ってない」
俺の地図でも、左寄りの足場が、まだ、崩れずに、噛み合っているのが、見えていた。鼻と、目で、おなじところに、行き着く。言い合わなくても、リタの足が、もう、そっちへ向いていた。
半分ほど、上ったところで、岩が、来た。
ごく先が、滲んで、見えた。
頭の奥が、ぐっと、熱を持つ。視た先が、いまに、薄く、重なってくる、その瞬間、こめかみの内側が、焼けた針を当てられたみたいに、ちりっと、痛んだ。
滲んできたのは、すぐ上の、岩棚だった。群れに、めちゃくちゃに駆け回られて、もう、根が、浮いている。リタが、あと、二歩。二歩目で、踏んだら――剝がれて、落ちる。リタも、巻き込んで。
「リタ、その先! 二歩目、踏むな!」
先に、視たとおりに、言った。
リタが、踏み出しかけた足を、止める。一拍、置いて、その岩棚が、ばらっと、剝がれて、底のほうへ、落ちていった。落ちた岩に、群れが巻かれて、底で、暴れる音が、こだまする。
「……いまの、視えてたの」リタが、止まった足のまま、振り向いた。
「ごく、先だけな」俺は、こめかみを、押さえた。視た熱が、引かずに、また、灼ける。「連発は、できない。崩れるとこ、暴れる向き、ここぞってとこだけ、視る。あとは、来る、で動いてくれ」
「視るたんびに、顔色、変わってるよ」
「変わってますか」
「変わってる」リタは、止めた足を、左へ、寄せた。視えた岩棚を、避けて。「無理しないでよ。あんた、もう、半分しか、動いてないんだから」
無理は、している。
空っぽの腕と、灼ける目で、暴れる群れの中を、読みながら上る。楽な仕事じゃ、ない。けど、ここで止まったら、最濃のとこで、息が、もたなくなる。視られるうちは、視る。間を置いて、また、ここぞで、視る。そうやって、一段ずつ、上っていくしか、なかった。
崩れた岩棚を、左へ、回り込んだ、その途中だった。
足元の岩に、何かが、引っかかっていた。
暴れた群れに剝がされたのか、岩のあいだに、半分、埋まるみたいにして、それは、転がっていた。
芯の、抉れた跡から、弾き飛ばされてきたものだろう。爆炎が、内側から、あれを、ひしゃげさせたとき。底じゅうに、剝がれた群れの死骸と一緒に、こいつも、飛んだ。岩のあいだまで、転がってきて、ここで、止まっていた。
拾い上げると、見た目より、ずっと重かった。
手のひらに、ずしりと来る。鈍く、底のほうから、光を、溜め込んでいるみたいだった。芯の、いちばん奥に、在ったものだ。何百匹もの群れに、幾重にも、覆われて、護られていた、その、中心。読めもしなかった、あれの、核。
値打ちは、見当も、つかなかった。
深層の素材が、浅層の何倍も値が張るのは、知っている。底の底の、こいつなら――桁が、いくつ違うのか、見当もつかない。会社員のころに、扱ったどんな数字とも、たぶん、けたが合わない。
まあ、それは、上に戻ってから、考えればいい。
革袋に、収めた。重みが、腰に、ずしりと足された。
「拾い物?」リタが、上から、見下ろした。
「あれの、芯の、かけらだ」俺は、革袋を、軽く、叩いた。「たぶん、いい値がつく。上で、ちゃんと、調べてもらう」
「あんた、こんなときに、しっかり、拾うんだね」キサが、後ろで、ぼそっと言った。
「だって、落ちてたんで」俺は言った。
倒した現場に、落ちていた。拾わない手は、ない。これは、命がけで、底まで下りた、その、取り分だ。
上りながら、ふと、地図を、逆向きに、伸ばしてみた。
上、じゃない。下だ。あれが、いた、底の、そのまた、下。
芯の抉れた跡の、さらに奥へ、感知を、落としていく。
届かなかった。
あれを覆っていた群れは、もう、散った。芯も、止まった。引き寄せる力は、なくなった。なのに、その奥――あれが、いた場所の、もっと下は、相変わらず、表面で、すべる。岩でも、群れでもない、ぬめった何かで、塗り潰されている。あれを断ったら、その向こうが、読めるかと、少し、思っていた。
読めなかった。
あれが、どうやって、群れを引き寄せていたか。それは、断つまでに、読み解けた。引き寄せをやめられない、その生態を、逆手に取れたから、断てた。けど、あれが、なぜ、そこに在ったのか。どこから、来たのか。底の、そのまた下に、何が、続いているのか。そこは、断った、いまも、まるで、読めない。
分からないことのほうが、多い。
ずっと、そうだ。底へ下りて、源を断っても、世界の底は、まだ、その先に、続いている。
ただ、それは、いま、急いで、考えることじゃ、なかった。
頭の隅に、置いておけばいい。生きて戻ってからで、十分だ。
「悠さん、あれ」上から、リタの声が、弾んだ。
顔を上げると、縦穴の、ずっと上のほうに、明かりが、ちらついていた。
見張りの、松明だ。あれを、上りきれば、上だ。中層は、ダグが、抑えてくれている。下りるあいだ、上が空っぽにならないように、ずっと、自分の領分で、漏れてくるやつを、捌いてくれていた、その先。
最濃の関門が、近づいてくる。
いちばんすぼまった漏斗を、抜ける。重い空気が、肺に、ずしりと、入ってくる。息を吸っても、半分しか、入ってこない、あの、湿った綿の感触。ここで、足止めを食ったら、終わりだ。
「一息で、抜けるよ」キサが、後ろから、言った。鼻のあたりを、手の甲で押さえている。「ここから、上は、群れも、薄い。下りるときより、ずっと、まし。あんたの読みのとおりだ」
「行きます」
暴れる群れの、いちばん薄い筋を、視た。
ここぞ、の一視だ。こめかみが、また、ちりっと、灼ける。滲んできた、その筋を、リタが、先に、抜ける。俺が、続く。キサが、薄いほうから、薄いほうへ、嗅ぎながら、最後に、抜けてくる。
最濃の関門を、一息で、抜けた。
肺の中の、湿った綿が、一段、軽くなった。
もう一段、上ると、また、軽くなる。重い空気が、薄れて、ふつうの息が、少しずつ、戻ってくる。喉の奥の、ひりつきが、引いていく。息が、吸える。胸が、ちゃんと、せり上がってくる。
上がれる。
暴れる群れも、ここまで上がれば、もう、まばらだ。崩れる岩も、減ってくる。閉じかけた窓は、まだ、閉じきってはいなかった。間に合う。生きて、戻れる。
「上の、明かりが」リタが、息を、弾ませながら、言った。「だんだん、近くなってきた」
「ああ」俺は、空っぽの手のひらを、握って、開いた。半分しか、動かない。それでも、その遠さの底に、火が、また、眠っているのが、分かる。「もう、すぐだ」
松明の明かりが、一段ごとに、大きくなる。
あの明かりの先に、ダグの抑える中層があって、その先に、大穴の口がある。口を抜ければ、外だ。底の底で、減り続けている群れの数を、地図の隅に、薄く感じながら、俺たちは、その明かりへ向かって、もう一段、足を、かけた。




