第42話 凪の窓と、引き寄せる底
地図の底が、静かすぎる。
大穴の口で、補強された岩棚に腰を下ろして、俺は半分閉じた目の裏で、足元の下を、まるごと読んでいた。氾濫の本番を堰き止めて、もう何日か経つ。あれから毎朝、こうやって底をなぞるのが、癖になっていた。群れの密度は、いまも薄い。押し上げる力が、抜けたままだ。せり上がろうとする勢いが、底の縁で、ぱたりと止まっている。
堰き止めたあの晩から、群れは、上がってこない。
それは、いいことのはずだった。
なのに、嫌な感じがした。
もう一度、底をなぞる。
群れが、奥の一点へ寄っていく流れは、変わっていない。読めない何かのほうへ、ゆっくり、向きを揃えて、下りていく。ただ、押し上げる圧が抜けたぶん、その奥へ続く縦穴が、いまは、群れでふさがっていない。底へ下りる道が、すっと、空いて見える。
ふつうなら、こうはならない。
群れが満ちていれば、縦穴は、上がってくるやつらで埋まる。下りようとしたって、向かってくる群れにぶつかって、進めない。それが、いまは、空いている。本番を堰き止めて、押し上げる力が抜けた、この、わずかなあいだだけ。
凪だ。
会社で、繁忙期の山を越えた直後の、あの、妙にがらんとした数日に似ていた。波が引いて、次の波が、まだ来ていない。
「あんたも、気づいたね」
声に、目を開けた。キサが、いつのまにか、近くの岩に腰を下ろしている。鼻先を、下の暗がりへ向けたまま、こっちを見もしない。
「上がってくる勢いが、抜けてます」俺は言った。「底まで、道が空いてる」
「臭いも、薄い」キサは、短く言った。「群れの臭いが、痩せてる。いまなら、奥まで、辿れる」
「いまなら」
「長くは、もたないよ」キサは、鼻から、ふっと息を抜いた。「奥のあれが、また、群れを満たす。そしたら、縦穴は、上がってくるやつらで、また詰まる。あんたの目でも、あたしの鼻でも、奥まで、辿れなくなる」
ダグが、口のほうから上がってきた。脇腹の布は、もう、巻き直してある。俺の前で足を止めて、岩に片足を乗せた。
「この凪は、長くねえぞ」ダグが言った。「本番のあとは、しばらく、底が大人しい。だが、それも、いっときだ。十年やってりゃ、肌で分かる。次の波が、いつ来るかは、誰にも読めねえ。けど、来たら、もう、下りられねえ」
「ダグさんでも、来るのは、読めないんですか」
「読めるかよ」ダグは、こともなげに言った。「俺は、中層止まりだ。底のことなんざ、知らねえ。ただ、凪は、永くは続かねえ。それだけは、知ってる」
空いている道が、いつまで空いているか、分からない。
その一言が、頭の中で、形になった瞬間、足元の地図が、急に、別の意味を持った。
いつか、底まで届く力を手にしたら下りる――そう思っていた。集めて、育てて、それからだ、と。リタにも、そう言った。今すぐじゃない、と。
でも、いまなら、道が空いている。
次の波が来たら、また閉じる。閉じたら、もう一度堰き止めて、また本番を一晩しのいで、その直後の凪を待つしかない。次の本番で、誰かが、呑まれるかもしれない。駆け出しの誰かが、間に合わないかもしれない。
待っている時間の代金が、見えた気がした。
会社員のころから、嫌というほど見た計算だった。先延ばしにすれば、利息がつく。底のあれを放っておくたびに、誰かの命が、利息になる。
「悠さん」
リタが、口のほうから、駆け上がってきた。腫れていた手の甲は、もう、だいぶ引いている。指が、ちゃんと開いていた。
「キサさんが、変なこと言ってたよ。いまなら、下りられるって」リタは、俺の隣に、どさっと座った。「下りられるって、底まで?」
「最初の段だけ、な」俺は言った。「底の底までは、無理だ。けど、いまは、道が空いてる。次に底が満ちたら、二度と、空かないかもしれない」
リタの顔が、引き締まった。
「行くんだね」
「迷ってる」正直に言った。「装備も、これだ。お前の手も、まだ、本調子じゃない。でも、待ってたら、道が閉じる」
「私の手は、もう、開く」リタは、指を、ぐっと握ってみせた。今度は、しかめなかった。「胸当ても、買い替えた。これ」
見ると、革の胸当てが、新しいのに替わっていた。紐で縛り直していた、あの、片側の裂けたやつじゃない。要の取り分とやらが、ちゃんと、入ったらしい。俺も、自前の短剣を、研ぎに出していた。刃こぼれを直して、ついでに、安い替えの一本も、買い足してある。水と、松明と、火種の油。底へ持っていくものは、もう、革袋に詰めてあった。
支度は、できている。
あとは、踏み出すかどうかだ。
「ダグさんは」俺は、ダグを見上げた。
「俺は、行かねえ」ダグは、先回りした。「言ったろ。中層止まりだ。底の底なんざ、行ったところで、足手まといだ」
「分かってます」
「お前らが、下りてるあいだ」ダグは、剣の柄を、軽く叩いた。「上が、空くわけじゃねえ。凪っつったって、また、ちょろちょろ漏れてくるやつは、いる。それを、中層から上で、抑えるやつが要る。俺の、領分だ」
「助かります」俺は言った。「上が、空っぽだと、安心して下りられない」
「持ちつ持たれつだ」ダグは、肩をすくめた。「……欲かいて、底で死ぬんじゃねえぞ」
いつもの、それだった。一緒には来ない。けど、背中は、ちゃんと、見ていてくれる。
俺は、立ち上がった。
決めた、というには、まだ、心臓が、速かった。それでも、向かう先は、もう、はっきりしていた。
「行きましょう」俺は言った。「道が、空いてるうちに」
縄を越えて、深層へ下りる。
そこから先は、いつもの稼ぎ場じゃなかった。立体的に開けた深層の、そのまた底へ向かう、未踏の縦穴だ。灯火を前に押し出しても、底は見えない。下りるほど、空気が、重くなる。喉の奥が、ひりつく。魔素が、濃い。
地図を、底へ落とす。
群れの戻り道が、見えた。せり上がりそこねた連中が、奥の一点へ寄っていく、その流れ。あれを、逆に辿る。群れが源へ向かう道は、そのまま、源への道だ。
「キサさん、臭いは」
「こっちだ」キサが、岩棚の縁から、一本の縦穴を、顎で示した。「群れの臭いが、いちばん、流れ込んでる。奥へ続く、いちばん太い管だ。下りるなら、ここが、近い」
俺の地図と、キサの鼻が、おなじ縦穴を指していた。いちいち言い合わなくても、もう、それで通じた。リタが先、俺が真ん中、キサが後ろ。岩の出っ張りを選んで、慎重に、下りていく。
最初の難所は、すぐに来た。
縦穴の途中で、岩棚が、すとんと崩れていた。下りる足場が、半分、崩落しかけている。残った縁も、踏めば、ぼろぼろと、欠けて落ちる。底のほうから、ぬるい風が、立ち上ってくる。
「悠さん、これ、下りられる?」リタが、崩れた縁を覗き込んだ。
地図を、足元へ、落とした。
広域感知が、岩の中の空洞を、薄く読んでくる。どこが詰まっていて、どこが空いているか。崩れた縁のうち、岩がまだ束で噛み合っているところと、もう、宙に浮いて、いつ落ちてもおかしくないところ。
「左の縁は、駄目だ」俺は言った。「中が、もう、空いてる。乗ったら、落ちる。右の、出っ張った岩。あれは、奥まで詰まってる。あそこを、伝え」
「右」
「リタ、先に行け。お前の足のほうが、確かだ。俺が、崩れる前に、言う」
リタが、右の出っ張りへ、足をかけた。強化付与を、全身へ投げ込む。リタの足が、岩を噛んで、低く沈む。一歩。二歩。崩れない。地図の上で、その岩が、保っているのが、見えていた。
三歩目で、リタの足元が、わずかに、ぐらついた。
「リタ、止まれ!」俺は、即座に言った。「その下、いま、ひびが、走った! 半歩、前!」
リタが、踏み出しかけた足を、引いて、半歩、前へ跳んだ。さっきまで足のあった岩が、ぼろっと、崩れて、暗がりの底へ、落ちていった。音が、戻ってこない。底が、どれだけ深いか、それで分かった。
「……ありがと」リタの声が、半分、上ずっていた。
「読めてるうちは、落とさない」俺は言った。「気配じゃ無理だった。広く読めるから、岩の中まで、見える」
頭の上を取られて、ひやりとした、あの初めての日が、よみがえる。あのときは、上か下かが、ぼやけて、読めなかった。いまは、岩の内側の空洞まで、見える。集めて、育てて、ここまで来た。
崩れた段を越えると、その先は、もっと、息が苦しくなった。
縦穴が、すぼまって、最濃の魔素が、底のほうから、噴き上がってくる。喉の奥が、ぴりつくどころじゃない。息を吸うたびに、肺の中が、重くなる。胸の真ん中に、湿った布を、押し当てられているみたいだった。長くは、いられない。体が、そう、教えてくる。
「ここ、関門だね」キサが、鼻のあたりを、手の甲で押さえた。獣人の鼻には、もっと、こたえているらしい。「これ以上、下は、息が、もたない。長居したら、動けなくなる。下りるなら、一息で、抜けるとこまで、抜けな」
「抜けるとこ、読めますか」俺は、地図を、その先へ伸ばした。
最濃の魔素の向こう。読めるのは、ぼんやりとだ。けど、群れの戻り道が、その先で、一度、広い区画に出ているのが、分かった。息のつける踊り場が、ある。そこまで、一気に下りれば、いい。
「先の、広いとこまで。たぶん、十数歩だ」俺は言った。「途中で、止まるな。一息で、抜ける」
息を、一つ、吸い込んだ。重い空気が、肺に、ずしりと入ってくる。
下り始めた途端、横穴から、群れが、噴き出してきた。
深層の蜘蛛だ。岩肌に脚を引っかけて、壁を、床みたいに駆けてくる。最濃の魔素の中でも、こいつらは、平気で動いた。むしろ、ここが、こいつらの巣に近い。
「来た!」リタが、短剣を構えた。
爆炎は、出さない。こんな雑魚に、底まで絞り出す一発を、使う場面じゃない。
「リタ、前! キサさん、後ろ頼みます!」俺は、手のひらに、火球を集めた。「鈍化、撒くぞ! 足、止めてから、片づける!」
手のひらから、火でも礫でもないやつを、群れの上へ、かぶせるように落とす。鈍化だ。せり上がってきた蜘蛛の足どりが、水の中みたいに、重くなる。壁を駆ける速さが、ぐっと、落ちた。
鈍った先頭へ、リタが、踏み込んだ。強化の乗った短剣が、一匹の脚を、根元から薙ぐ。よろけたところへ、肩から体を入れて、岩壁に、押しつける。後ろから、キサの山刀が、もう一匹の胴を、突き落とした。
俺は、壁を這う数匹へ、火球を、一発。
直撃じゃない。壁の出っ張りで、爆ぜさせる。熱と光に、脚の引っかけ場所を焼かれて、二匹が、宙に投げ出された。落ちたところを、リタが、踏み潰す。
火球と、礫と、鈍化。リタの剣。キサの鼻と山刀。
爆炎を、一度も、使わなかった。
育てた手札が、噛み合って、群れを、捌けていた。威力で押し潰すんじゃない。読んで、鈍らせて、置いて、削る。あの一晩、岩棚の上で組んだやり方が、そのまま、降下の中で、回っている。
最後の一匹を、リタが、突き落とす。
「抜けた!」
息を、吐いた。重い空気が、肺から、出ていく。読んでいた踊り場に、足が、ついていた。広い区画だ。ここなら、少しは、息がつける。
降りられた。
崩れた段を越えて、最濃の関門を抜けて、群れを捌いて、ここまで、下りた。底の底じゃない。けど、いつもの稼ぎ場より、ずっと、深い。誰も、来たことのない高さだ。
「下りたね」リタが、肩で息をしながら、笑った。汗が、こめかみを伝っている。「私たち、ここまで、下りたんだね」
「下りた」俺も、言った。手応えが、だるい腕の奥に、ちゃんとあった。
踊り場で、息を整えていたときだった。
地図を、底へ、もう一段、落とした。
奥の一点へ寄っていく群れの流れの中に、群れとは違う、一つの動きが、混じっていた。
人だ。
群れの渦の、ずっと奥。読めない一点に近い、最濃の魔素の、その向こう。群れと違う、一つの手応えが、奥へ、奥へと、引きずられていく。脚が八本の、壁を駆けるやつらじゃない。二本足で、立とうとして、立てずに、底のほうへ、引かれていく。
別の探索者だ。
どこかから、底へ降りてきた、別の誰か。
「……人が、いる」俺は、声が、かすれた。「奥に。群れと、別の。底のほうへ、引きずられてる」
「誰か、いるの?」リタが、暗がりの奥を、見上げた。見えてもいないのに、目を、凝らした。
「臭うね」キサが、鼻先を、奥へ向けた。低い声だった。「血の臭いと、汗の臭い。人だ。……奥の、あれに、近い」
地図の上で、その手応えが、奥の一点のほうへ、ずるずると、寄っていく。自分の足で、向かっているんじゃない。引かれている。底のあれが、群れを引き寄せるみたいに、その人を、引き寄せている。
行こう、と、足が、動きかけた。
助けに。
でも、地図が、それを、止めた。
その人がいるのは、最濃の魔素の、もっと奥だ。さっき抜けてきた関門の、さらに下。あそこへ降りたら、息が、もたない。それだけじゃない。すでに、奥の一点へ、引き込まれかけている。あの引き寄せの中へ、割って入ったら――地図の上で、群れが、奥へ寄っていく、あの流れ。あれに、足を踏み入れたら、俺たちも、同じように、引かれる。
間に合わない。
近づくだけで、呑まれる。
頭では分かっていた。分かったのに、足が、まだ、行きたがっていた。
「悠さん」キサが、低く言った。「行く気か。やめときな。あんたの目でも、見えてるだろ。あの流れに、足を突っ込んだら、あんたらも、おしまいだ」
俺は、答えられなかった。
地図の上で、その人の手応えが、奥の一点へ、また一段、引き込まれた。声が、聞こえた気がした。気のせいじゃ、なかった。遠い、くぐもった、何かを叫ぶ声。それが、最濃の魔素に、押し潰されるみたいに、細くなって、消えた。
手応えが、奥へ、奥へ。
俺の地図の、いちばん奥。読めない一点の、すぐそばまで、引き込まれて――それきり、群れの密度に、紛れて、見えなくなった。
届かなかった。
手のひらが、じっとりと、汗ばんでいた。
肺の奥が、最濃の魔素のせいだけじゃなく、すぼまった。
あれが、引き寄せだ。群れだけじゃない。人すら、底のほうへ、引きずり込む。地図の上で、ずっと見ていた、あの流れ。読めない一点へ群れが寄る、あの動き。あれは、人間が踏み込めば、人間も、おなじように、呑む。
「……間に合わなかった」俺は、ようやく、それだけ言った。「気づいたときには、もう、奥に、引き込まれてた。あそこへ降りたら、俺たちも、引かれる。行けなかった」
言葉にすると、もっと、嫌な味がした。
会社で、間に合わなかった案件は、いくつもあった。けど、あれは、書類の話だ。これは、人だった。手が届かなかった。届く力が、まだ、俺たちには、なかった。それを、地図が、はっきり、突きつけてきた。
「あんたが、行ってたら」キサは、淡々と言った。「いま、三人、引かれてた。あんたの判断は、間違ってない」
「分かってます」俺は言った。「分かってますけど」
歯がゆさが、腹の底で、燻った。届かない悔しさは、分かってます、で、消えるものじゃなかった。
リタが、暗がりの奥を、じっと見ていた。
「あれが、あの人を、引いたんだね」リタの声は、低かった。「私たちが、これから、降りていく、あれが」
「ああ」
「……怖いね」リタは、暗がりの奥から、ゆっくり目を引き剝がした。一度だけ、唾を飲み込む。それから、こっちを向いた。目は、逸らさなかった。「でも、降りるんでしょ。あれを、断ちに」
「降りる」俺は言った。
手応えは、まだ、腕の奥にあった。崩れた段を越えた。最濃の関門を、抜けた。群れを、捌いた。誰も来たことのない深さに、足を、つけた。それは、本物だ。今日、俺たちは、底へ向かう道の、最初の段を、踏み下りた。
地図を、もう一度、底へ、落とす。
奥の一点へ、群れが、寄っていく。その流れの、すぐそばに、もう、引き込まれた人の手応えは、ない。読めない輪郭だけが、おなじ場所に、ずっと、居座っている。動かずに、群れを、人を、引き寄せながら。
あそこへ、行く。
まだ、底の底までは、ずいぶん、ある。この先、何段、こんな難所があるのかも、分からない。けど、道は、いまだけ、空いている。
「キサさん」俺は、訊いた。「凪、あと、どれくらい、もちますか」
「知らないよ」キサは、鼻先を、奥へ向けたまま言った。「けど、群れの臭いが、また、濃くなり始めてる。底のあれが、また、満たしにかかってる。長くは、ない」
また、満ちる。
道が、閉じ始めている。
俺は、灯火を、握り直した。光の玉が、最濃の魔素の暗がりを、わずかに、押し返す。その先の、まだ読めない奥へ、三人で、目を凝らした。
「下りられるうちに、もう一段」俺は言った。「行けるとこまで、降りる」
リタが、短剣を、握り直した。キサが、山刀を、肩に担ぎ直した。
奥のほうで、群れの密度が、ゆっくり、また、嵩を増し始めている。閉じかけた扉の、隙間を縫うみたいに、俺たちは、底のほうへ、また一歩、足をかけた。




