第38話 噴き出した濁流
大穴の口は、もう、ただの穴じゃなかった。
地上から大穴をのぞき込む縁のところに、ギルドの連中が、いくつも松明を立てている。その明かりの先、縦穴の底のほうから、地鳴りみたいな低い音が、ずっと、立ちのぼってきていた。岩を踏む脚の音と、何かが押し合う、鈍い軋み。それが、何百も重なって、一つの唸りになっている。
俺は、縁に立って、目を半分閉じた。
立ち上がった地図が、足元の下を、まるごと見せてくる。中層の縄。その下の、深層へ落ちる縦穴。どこも、群れで、埋まっている。底から上へ、圧が、ぐっと押し上げてくるみたいに、群れの密度が、せり上がっていく。
濁流だ。
水が、というより、群れそのものが、嵩を増して、縦穴を、下からのぼってきている。
「どこだ」
横で、官が言った。受付台で帳面を抱えていた、あの痩せた男だ。ここまで走ってきたらしく、まだ息が乱れている。手には、大穴の簡素な見取り図。
「中層の縄から、上です」俺は目を閉じたまま、地図の縁を指でなぞった。といっても、誰にも見えやしない。「縄のあたりが、縦穴と横穴の枝に分かれてる。そこが、首根っこです。ここを抜かれたら、上は、止める場所がない」
「首根っこ、ね」
「縄の幅が、いちばん狭い。深層から上へ抜けるには、必ずここを通る」俺は目を開けた。「ここで、堰き止めるしかない」
官の喉が、上下した。理屈は、分かったらしい。分かったうえで、人を、どう置けばいいか――それが、こいつにも、まだ見えていない。
縄まで、駆け下りた。
俊足を足に乗せて、岩棚を下りていく。リタが後ろをついてくる。キサは、もう、俺たちの前を行っていた。荷を放してきたぶん、身軽だ。
縄の区画は、踊り場みたいに横へ広がって、そこから先が、いくつもの横穴に枝分かれしている。下から押し上がってくる群れが、まず、ここへ噴き出してくる。
着いたときには、もう、戦いが始まっていた。
先に下りていた冒険者が、十人かそこら。縄の枝の口で、武器を構えている。けど、口は、一つじゃない。横穴が、五つも、六つもある。その、ぜんぶから、犬くらいの蜘蛛と、岩みたいな甲羅を背負った大きいのが、押し合いながら、せり出してきていた。
「数が、合ってない」
キサが、低く言った。
いつもの、軽く流す調子じゃない。鼻の頭に、皺が寄っている。
「上に来る臭いの、濃さじゃない。これ、底ぜんぶが、上がってきてる」
俺は、地図を、枝の口、一つずつに、当てていった。
左から二つ目の口。そこが、いちばん、圧が立っている。先頭の群れが、もう、口の縁を越えかけていた。
「左から二つ目!」俺は怒鳴った。「そこが、先に抜ける! 誰か、塞いでくれ!」
冒険者の何人かが、こっちを見た。新人じゃない、中層で稼ぐ顔だ。けど、俺の言葉に、すぐ動いたのは、半分だった。残りは、自分の目の前の口で、もう手一杯になっている。
「左の二つ目だ! 早く!」
三人が、左へ走った。間に合うか。地図の上で、群れの先頭が、口を越える。三人の剣が、ぎりぎり、そこへ届いた。一匹、二匹と、突き落とす。口の縁で、つかえる。
止まった。
ほっとした、その、横で。
右の端の口が、開いた。
「右! 端のほう!」
俺は、地図の上で、それを見ていた。左を塞いだ拍子に、押されていた圧が、行き場をなくして、右の口へ、ぐっと回った。塞いだ場所のぶん、別の場所が、ふくれる。水を、手で押さえたら、指の隙間から、別のところが噴き出すみたいに。
けど、右の口には、人が、いなかった。
左へ三人をやったぶん、右が、薄くなっていた。
「誰か、右へ! 早く!」
声は、届いた。でも、動ける人間が、いなかった。みんな、自分の正面で、もう、押し負けかけている。一人が振り向いて、右へ走り出した、その背中の先で、甲羅持ちが、もう、縄の上へ、のし上がってきていた。
間に合わない。
見えていた。さっきから、見えていた。右が開くことも、人が足りないことも、ぜんぶ、頭の地図に、出ていた。出ていたのに、回せなかった。左に三人やれば、右が空く。それが、分かっていて、ほかに、やりようがなかった。
舌打ちが、出た。
見えるだけ、なのか。
仕事で、人手が足りないとき。やることは山ほど見えていて、けど、手は二本しかなくて、結局、いちばん燃えてる火だけ消して、横でくすぶってるのを見送るしかない――あの感じに、よく似ていた。あれの、もっと、命のかかったやつだ。
「リタ! 右だ!」
俺は、考えるより先に、そう言っていた。リタは、もう、走り出していた。返事を待つやつじゃない。
「乗せるぞ!」
リタの短剣に、強化付与を投げ込む。使い込んだぶん、刃に厚く乗る。リタが、右の口へ滑り込んで、のし上がりかけた甲羅持ちの、脚の付け根を、横から薙いだ。岩みたいに硬い胴は、刃を弾く。けど、脚の付け根は、柔らかい。一本、断った。甲羅持ちが、体勢を崩して、口の縁で、つんのめる。
「ここ、私が持つ!」リタが、叫んだ。「悠さんは、ほかを見て!」
助かる。
でも、リタを右に置いたら、こんどは、リタがいた真ん中が、空く。
地図が、ざわめいていた。
六つの口。塞いだそばから、圧が、別の口へ回る。一つ押さえれば、二つ開く。俺の目には、それが、ぜんぶ、先に見えている。次は、左の三つ目。その次は、真ん中。読める。読めるのに、置く手が、足りない。
俺一人が、駆け回って塞ぐ数じゃない。
なのに、ほかに、塞ぐやつを、回せていない。みんな、俺の声が聞こえても、自分の正面から、目を離せない。指図する立場の人間が、いない。官は、まだ、見取り図を抱えて、縄の後ろのほうで、立ち尽くしていた。
「官さん!」俺は、振り向いて、怒鳴った。「後ろの連中、半分、こっちへ回してください! 正面じゃない! 端の口です!」
「半分、だと――」官の声が、上ずった。「だが、正面が、抜かれたら」
「正面は、まだもちます! 抜けるのは、端からだ!」
言いながら、自分でも、もどかしかった。見えているものを、こいつに渡す言葉が、追いつかない。地図の歪みを、そのまま、誰かの腕に変えられたら、いいのに。
その混戦の、真ん中で。
左の三つ目が、読みどおり、ふくれ上がった。
甲羅持ちが二匹、犬蜘蛛を従えて、口から、いっぺんに、せり出してくる。そこには、人が、一人しかいない。中層の冒険者が、剣を構えて、後ずさっていた。
間に合わない。俺は、もう、左の二つ目の脇にいて、リタは右、キサは真ん中寄りで甲羅持ちを引きつけている。誰も、左の三つ目には、届かない。
手のひらに、火球を集めた。
でも、距離が、ある。固まりに撃っても、当たるのは、先頭の一、二匹だ。それじゃ、流れは止まらない。あの口に、火球を一発くれてやったところで、後ろから、いくらでも押してくる。
止められない。
いや、止めるんじゃない。
頭の隅で、何かが、引っかかった。
ゆうべ――いや、ここ何日かの夜に。
使い道の分からないやつを、一つ、引いていた。撃つでもない、強くするでもない、守るでもない。名前を見て、これ何に使うんだ、と思って、それっきり、頭の隅に置いていた手札。
とっさに、それを、左の三つ目の群れへ、向けた。
手のひらから、火でも礫でもない、何かが、ぬるりと、押し出されていく感触。撃ち出す勢いはない。ただ、群れのほうへ、それが、かぶさった。
せり出してきた甲羅持ちの脚が、急に、重そうになった。
犬蜘蛛の動きが、まるで、水の中を進むみたいに、もたついた。さっきまで、岩を蹴って一息に上がってきていたやつが、一歩を、踏み出すのに、やけに、手間取っている。
えっ、と思った。
効いてる。
流れが、鈍った。
止めたんじゃない。塞いだんでもない。ただ、群れの、せり上がる速さを、ぐっと、落としただけだ。けど、それで、充分だった。間に合わなかったはずの、口の前の一人が、もたついた先頭の甲羅持ちに、剣を、突き入れる時間ができた。後ろの群れも、鈍ったまま、口の縁で、もたもたと、つかえている。
堰き止めるんじゃなく、遅くする。
この前みたいに、岩で穴を塞ぐんでもない。物理で詰めるんでもない。流れる速さそのものを、落として、一点を、保たせる。
これだ。
ゆうべ、何に使うんだと思った、あの手札。撃って減らすでも、押さえつけるでもない。ただ、敵の動きを、鈍らせる。地味だと思った。地味で、けど、いま、いちばん要るやつだった。
「左の三つ目、鈍らせた!」俺は怒鳴った。「今のうちに、誰か、口を詰めろ! そんなに、速くは来ない!」
後ろから、ようやく、二人が走り込んできた。鈍った群れなら、二人でも、押し返せる。
ダグの声がしたのは、そのときだった。
「新入り。中層側は、抑えてる」
縄の、中層へ抜ける枝のほうから、ダグが上がってきていた。皮鎧が、土と、緑がかった返り血で、汚れている。脇腹に巻いた布が、まだ、ほどけずに残っていた。中層を稼ぎ場にする男が、ここまで来ている。脅威が、もう、こいつの領分まで、上がってきているってことだ。
「ダグさん」俺は、地図から目を上げずに言った。「下から、まだ、来ます。中層の枝、何本ありますか」
「三本だ。今、二本は、俺と、何人かで塞いでる」ダグは、剣を握り直した。短く言って、それから、付け加えた。「三本目が、薄い。お前の言う、首根っこってのは、そこか」
「そこです」
「なら、回す」ダグは、もう、走り出していた。「無理すんなよ。お前らも、俺も」
欲かくな、とは、言わなかった。今は、欲をかくも、何も、ない。みんな、自分の口を、塞ぐので、精一杯だった。
それでも、地図は、押されていた。
鈍化で、左の三つ目は、保たせた。リタが、右を持っている。キサが、真ん中の甲羅持ちを、鼻で先回りして引きつけている。ダグが、中層側の三本目へ回った。一つずつ、点が、埋まっていく。
けど、埋めた点の、その隣で、また、別の圧が、立ち上がってくる。
底から押し上げる力が、止まらない。一つの口を鈍らせれば、鈍らされなかった隣の口へ、群れが、なだれる。六つの口を、ぜんぶ、同時に鈍らせる手は、俺には、ない。鈍化を、一つの口に向ければ、ほかの五つは、素のままだ。
「悠さん!」リタが、右の口から、叫んだ。声に、いつもの威勢が、もう、薄い。「右、もう一回、来てる! さっきより、多い!」
「分かってる!」
分かっている。ぜんぶ、見えている。
見えているのに、俺は、リタのところへも、左へも、中層へも、いっぺんには、行けない。
キサが、真ん中から、後ずさってきた。
甲羅持ちを一匹、岩棚から突き落として、それから、鼻先を、下の暗がりへ、向けた。
「だめだ」キサが、短く言った。「下の濃さが、また、上がった。今、塞いでる口、ぜんぶ、もう一段、押される」
「もう一段?」
「あんたの目で、見えてんだろ」キサは、こっちを見もせずに言った。「あたしの鼻が、先に言ってるだけだ。次の波が、来る」
地図の底で、群れの密度が、また、せり上がるのが、見えた。
キサの鼻のとおりだ。さっきまでの押し上がりが、底だと思っていた。違った。底は、まだ、下にあった。その底が、いま、もう一段、嵩を増して、縦穴を、噴き上げてくる。
縄の区画ぜんぶが、地鳴りで、震えていた。足の裏から、岩を伝って、低い唸りが、のぼってくる。耳の奥が、その唸りで、詰まったみたいになる。立てた松明の火が、下から噴き上げてくる風で、ぐらりと、傾いだ。
「官さん!」俺は、もう、振り向く余裕もなかった。「もたない! このままじゃ、首根っこ、抜かれます!」
「人は、回した!」官が、後ろで叫び返した。声が、裏返っていた。「半分、こっちへ向けた! だが――」
「だが、足りない!」
言ってしまった。
足りない。後手で集めた人手は、いま、ようやく、半分が、端の口へ回ったところだ。それでも、底から押し上げる数には、追いついていない。一つ塞ぐたびに、隣が開く。鈍化で一点を保たせても、保たせている間に、二つ、押される。
俺の目が、それを、ぜんぶ、見せてくる。
見えているのに、回せない。読めているのに、手が、足りない。
左の二つ目で、誰かの剣が、弾かれた。
甲羅持ちが、縄の縁へ、のし上がる。突き落とそうとした冒険者が、逆に、岩棚の縁へ、押し戻される。その後ろが、薄い。抜かれたら、その先は、もう、上層への、ただの通り道だ。
俺は、火球を、その甲羅持ちの目へ、撃ち込んだ。脚を一本、焦がす。よろけた隙に、押し戻されかけた冒険者が、踏みとどまった。
でも、火球の、手のひらの痺れが、一発で、もう、じんと残る。爆炎の手の奥は、まだ、半分、重い。あの一発を、ここで切るわけには、いかない。切ったら、空っぽになった俺が、この混戦の真ん中で、ただの的になる。
火球と、礫と、鈍化。今、撃てるのは、それだけだ。
その手札を、六つの口に、振り分ける。足りるわけが、ない。
「リタ、キサさん、ダグさん!」俺は、声を、張り上げた。地鳴りに、負けないように。「いったん、口を、絞る! ぜんぶは無理だ! 左の二つ目と、右と、中層の三本目! その四つだけ、死守! 残りは、捨てる!」
「捨てるって!」リタが、叫んだ。
「捨てた口から抜けたのは、上で、ギルドの本隊が、受ける! ここで、ぜんぶ、止めようとしたら、ぜんぶ、抜かれる!」
言いながら、これが、正しいのかどうか、自分でも、分からなかった。捨てた口から、何匹、抜けるのか。上の本隊で、受け切れるのか。読めはする。けど、読んだとおりに、人が動くかは、別の話だ。
四つに、絞る。そのために、二つの口を、開けたまま、明け渡す。
地図の上で、明け渡した口から、群れが、上へ、抜けていくのが、見えた。
それでも、底は、減らない。
四つの口を死守して、二つを捨てて。鈍化で、いちばん圧の立つ口を、順に、鈍らせて回って。リタが右を、ダグが中層を、キサが真ん中を、削り続けて。それで、ようやく、首根っこは、まだ、抜かれていない。
まだ、だ。
地図の底で、群れの密度は、さっきと、変わらない。削っても、捨てても、鈍らせても。底から押し上げる力は、一つも、衰えていない。
俺は、息を、吸った。喉の奥が、地鳴りと、濁流の臭いで、ひりついていた。
保たせている。けど、保たせているだけだ。一人で全部を回そうとして、四つに絞って、それでも、手が、回りきっていない。
誰かが、ぜんぶを、見て、ぜんぶに、人を回せたら。
俺じゃない。俺は、見えるだけで、回せていない。
「悠さん!」
リタの、悲鳴に近い声が、右から飛んだ。
地図を、見た。
右の口で、リタの足が、後ろへ滑っていた。押し返していた甲羅持ちが、二匹、三匹と、重なって、いっぺんに、のし上がってくる。鈍化は、いま、左へ向けている。右には、回せない。リタ一人で、その重さを、受け止めきれない。
駆け出した。俊足を、振り絞る。
でも、地図の端で、左の二つ目も、同時に、ふくれ上がっていた。俺が右へ行けば、左が、抜ける。左を見れば、右が、潰される。
どっちも、見えている。
どっちにも、間に合わない。




