第37話 報せと、噴き出した深層
「迷宮氾濫の、前触れだと思います」
ギルドの受付台の前で、俺はそう切り出した。
受付の中年女は、依頼書の束を仕分けする手を、止めなかった。茶色の髪を引っ詰めにして、麻のシャツの上に革のエプロン。この街に来た日から、ずっとこの台にいる人だ。Fの新人だった俺の登録を捌いたのも、この人だった。
「氾濫ねえ」女は、手元から目を上げた。「言葉だけは、立派だね」
冷たいわけじゃない。慣れた口調だ。十年に一度の大事を、新人が二人で持ち込んでくる。それを、最初から本気で受け取れと言うほうが、無理なんだろう。俺だって、自分が逆の立場なら、まず眉に唾をつける。
「下の話だろ」女は続けた。「中層から先のことは、こっちでも、いくつか聞いてる。蜘蛛が湧きすぎてるとか、狩り場が荒れてるとか。けど、それと氾濫は、別の話さ」
「別じゃないんです」横から、リタが身を乗り出した。「私たち、今日、見たんです。深層の群れが、E帯の枝まで抜けてて。新人が三人、呑まれかけて――」
「リタ」俺は、軽く制した。
いきなり全部ぶつけても、流される。順番がある。仕事と同じだ。相手が呑み込める単位に、切って出す。
「数の話を、させてください」俺は言った。「俺、広く読めるスキルを持ってます。深層の、底のほうまで。今、底に、群れが、異常に固まってます。狩っても狩っても、減らない数が」
「読める、ね」女は、俺の腰の冒険者証に、ちらと目をやった。Dの色だ。「あんた、つい先月、Dに上がったとこだろう」
「上がったとこです」
「で、その目で、底が見えると」
「見えます」
女は、ふっと息を抜いた。信じた息じゃない。新人が何か変なことを言い出したときの、あの息だ。
そのとき、後ろから、低い声が割り込んだ。
「あたしの鼻も、同じこと言ってる」
キサだった。
縦穴をいっしょに上ってきて、ずっと一歩引いた所に立っていた。荷を肩から下ろして、受付台の縁に、片手を置く。深層を稼ぎ場にする探索者の顔は、女も知っていたらしい。手元を仕分ける指が、ほんの一瞬、止まった。
「キサさんかい」
「先月から、数が合わない」キサは、前置きなしで言った。「狩っても減らない。湧くのが、早すぎる。いちばん下にいる甲羅持ちが、上に出てきてる。あんなとこにいるはずのないやつが、何度も、臭った」
女が、キサの顔を見た。
「鼻と、目だ」キサは、顎で、軽く俺を示した。「この新入りの目が『減らない』って言って、あたしの鼻が『増えてる』って言ってる。別々の二人が、別々のやり方で、同じこと言ってんだよ。気のせいだ、で片づくと思うかい」
女の手が、止まった。
今度は、本当に、止まった。
キサの言うとおりだ。俺一人なら、新人の見間違いで終わる。キサ一人なら、獣人の勘で終わる。けど、まったく違う器官で読んだ二人が、同じ一つを指している。それは、無視しづらい。仕事で、別々の部署から同じ報告が上がってきたとき、上はようやく腰を上げる。あれと、同じだ。
「……ちょっと、待ってな」
女は、台を離れて、奥へ向かった。右奥の、書類の積まれた机のほうだ。そこに、ギルドの官らしい男が、帳面を広げていた。痩せた、神経質そうな顔の男だ。女が、何か短く伝える。男が、こっちを見た。
男が、受付台まで出てきた。
「氾濫の前触れ、と言ったそうだが」男は、帳面を小脇に抱えたまま、抑えた声で言った。「この街で、迷宮氾濫の記録が残ってるのは、私が知る限り、ずっと昔の一度きりだ。それも、記録が薄い。誰も、現物を見た者はいない」
「だと思います」俺は言った。
「つまり、誰も見たことのないものを、新人二人が、見たと言ってる」
「見たのは、底の数です」俺は、できるだけ平らに言った。煽っても、損だ。「氾濫そのものは、まだ見てません。見えてるのは、底に、間引きで減らない数が、押し合ってること。それが、上の口へ、にじり出してること。それだけです」
男は、すぐには答えなかった。帳面を抱える腕に、力が入ったのが分かった。
「動員には、人と、金がいる」男は言った。「氾濫でもないものに上位を回して、空振りなら、その費えは、誰が持つ」
俺は、答えなかった。それは、こいつの仕事の理屈だ。盗賊団のときも、ギルドは、こうやって渋った。証拠を固めて、損得を並べて、ようやく動いた。慎重なのは、悪いことじゃない。ただ、今は、その慎重さが、間に合うかどうかの話だった。
「念のため、軽く、当たりをつけときます」
俺は、目を半分、閉じた。
立ち上がった目を、街の下――大穴の口のほうへ、伸ばす。
ギルドの建物からでも、届く。広く読めるようになってから、距離が、伸びた。中層の縄を越えて、その下。底の固まりが、頭の中の地図に、まるごと、置かれる。
「今の押し具合だと」俺は、目を閉じたまま言った。「次に漏れるのは、たぶん、中層の縄の、東寄りの枝。今日塞いだのとは、別の口です。早ければ、二、三日。規模は――今日の、二倍か、三倍」
言ってから、目を開けた。
軽く言ったつもりだった。当ててやる、という気は、なかった。読めるものを、そのまま並べただけだ。けど、官の顔が、わずかに、こわばったのが分かった。新人が、数字を、すらすらと並べたからだろう。
「二、三日」官は、繰り返した。
「外れたら、それでいい」俺は言った。「外れてくれたほうが、ありがたいです。費えも、無駄にならずに済む」
官が、何か言いかけた。
その口が、開ききる前に。
俺の目の端で、地図が、ぐにゃりと、歪んだ。
底の固まりが――動いた。
「っ」
声が、漏れた。
二、三日、と言ったばかりだ。それが、今、目の前で、崩れていく。底で押し合っていた数が、いっせいに、上へ向かって、せり上がる。一つの口からじゃない。複数。東の枝。北の裂け目。今日塞いだ、あの口の、すぐ隣。いくつもの逃げ道を、同時に、こじ開けながら。
「来てる」俺は言った。声が、自分でも、上ずったのが分かった。「今だ。今、噴き出してる」
「今?」官が、眉をひそめた。「二、三日と――」
「変わった!」俺は遮った。「さっきと、違う。底ぜんぶが、押し上がってる。一つの口じゃない。いくつも、いっぺんに!」
キサの鼻の頭に、皺が寄った。
理屈じゃない。俺が地図で見るより、わずかに先に、キサの鼻が、下から立ち上がる何かを、嗅ぎ当てていた。
「臭う」キサが、短く言った。「さっきまでと、濃さが違う。下から、ぶわっと、上がってきてる」
ギルドの扉が、勢いよく、開いた。
外の光が、差し込む。逆光の中に、息を切らした冒険者が一人、転がり込んできた。中層で稼ぐ顔だ。何度か、縄のあたりで見た。革鎧が、土埃で、白っぽくなっている。
「大穴!」男が、叫んだ。「大穴の、中層だ! 下から、わっと! 数が、おかしい! 蜘蛛が、甲羅のでかいのが、いっぺんに――縄を越えて、上がってきてる!」
受付台の前が、しん、となった。
女が、男のほうへ、半歩、踏み出した。官は、帳面を抱えたまま、固まっている。
二、三日、と言った。それが、当たらなかった。早いほうへ、外れた。今日の二倍か三倍、と言った。それも、たぶん、足りなかった。
俺の読みが、当たったから、空気が変わったんじゃない。
目の前に、本物が、来たからだ。
飛び込んできた急報が、底で見た数と、寸分、重なっていた。地図で見た歪みが、生身の冒険者の口から、同じ形で、転がり出てきた。それで、ようやく――誰も、疑えなくなった。
「縄を、越えたって、本当か」官が、ようやく、声を出した。
「本当だ! 俺の後ろにも、何人か、逃げてきてる! あんな数、見たことねえ!」
官の顔から、さっきまでの渋りが、抜けた。代わりに、別のものが、貼りついた。後手に回った、という顔だ。
俺は、地図を、追った。
中層の縄。さっきまで、群れが上から落ちてくる心配はない、と言える境目だった。そこが、今、押し破られている。底から押し上がった群れが、縄の枝という枝から、こぼれ出して、中層を、塗り潰すように、上がってくる。一本や、二本の流れじゃない。広域感知の地図が、いっぱいに、ざわめいている。
「官さん」俺は、地図から目を上げた。「中層、もう、抜けかけてます。このままだと、浅層――それから、大穴の口です。口を抜けたら、外は、街道です」
官の喉が、上下した。
「動員する」官が、押し出すように言った。「上位を、回す。今、いる連中、全員だ」
「間に合いますか」リタが、思わず、という顔で言った。
「間に合わせるしかない」官は、もう、こっちを見ていなかった。奥の机へ、駆け戻りながら、酒場のほうへ、声を張る。「手の空いてる者! ギルドの依頼だ! 大穴の口へ向かえ! 中層から、群れが上がってきてる!」
右奥の酒場兼食堂のほうで、椅子の倒れる音がした。何人かが、立ち上がる。事情を呑み込めない顔のまま、それでも、武器に手を伸ばす者がいる。
女は、もう、台の引き出しから、依頼の控えの束を引っ張り出していた。動員の報酬を、その場で組むつもりだ。空振りなら誰が費えを持つ、と渋っていた、その同じ人が、今は、銅貨の勘定を、紙の上で、走らせている。
人が、動く。金が、動く。
ついさっきまで、新人の言葉を眉に唾して聞いていた連中が、その新人の読んだ数を軸に、いっせいに、動き出している。俺一人の力で動いたんじゃない。キサの鼻と、二つ揃えて、ギルドという仕組みが、ようやく腰を上げた。
仕事で、何度か、こういう場面を見た。一人の声は届かない。けど、別々の証言が噛み合ったとき、組織は、急に、まとまって動く。それと、同じだった。違うのは、空振りの費えで済む話じゃない、ってことだ。
「あんたの読み、当たったね」キサが、横で、ぼそりと言った。
「当たってほしくなかったですけどね」
「だろうね」
キサは、もう、荷を、隅に放っていた。両手が、空いている。腰の山刀に、片手をかけていた。
「あたしの稼ぎ場が、丸ごと、潰れる」キサは、扉の外、大穴のある方角を見て言った。「氾濫が口を抜けたら、深いとこは、しばらく入れない。下手すりゃ、街まで巻き込まれる。あたしは、それが、嫌なだけだ」
「分かってます」
「あんたらのためじゃない」
「俺たちも、同じです」
半分は、本当だった。ここが潰れたら、稼ぎ場が、なくなる。
もう半分は、口にしなかった。今日逃がした、あの三人の顔だ。動く理由が違っても、向かう先は、同じだった。
官が、机から戻ってきた。手に、ラドリスの大穴の、簡素な見取り図を握っている。
「あんた」官は、俺を、まっすぐ見た。さっきまでの、新人を値踏みする目じゃなかった。「底まで、読めるんだな」
「読めます」
「どの口から、どれだけ来るか、分かるか」
「全部は、無理です」俺は正直に言った。「けど、いちばん先に決壊しそうな点と、流れが、どっちへ向かうかは、読めます」
「なら、要る」官は、見取り図を、台に広げた。「動員を、闇雲に散らしても、数で押し負ける。要るのは、どこを塞げば、流れが止まるか、だ。あんたの目が、それを言えるなら――前に、立ってもらう」
逃げる側じゃなく、向き合う側に。
縦穴を上りながら、リタが言ったことを、思い出した。私たち、要るんじゃない、これが来たとき。あのときは、まだ、来るかもしれない、その手前だった。今は、来ている。
扉の外から、ざわめきが、流れ込んできた。
大通りのほうだ。大穴から逃げてきた冒険者か、それとも、もう、噂を聞きつけた街の連中か。声が、いくつも、重なって、増えていく。落ち着いた橙の街灯の下で、ふだんの夕暮れが、ざらつき始めている。
俺は、もう一度、目を半分、閉じた。
地図の上で、中層の縄が、群れに、塗り潰されていく。先頭の流れが、浅層の枝へ、押し上がる。そのまた先に、大穴の口がある。口の向こうは、街道だ。街道の先に、この街がある。
濁流は、止まる気配が、ない。一つ塞いでも、圧が、別の口へ回る。底の数は、削っても削っても、減らないと、もう知っている。これは、漏れた一波じゃない。
本番だ。
昨日まで、底の数を見て、不穏だと言っていた。今日は、その数が、目の前で、噴き出した。読んで、備えて、迎え撃つ。そう決めたばかりだった。決めた支度の、その途中で。
来てしまった。
受付台の見取り図に、官が、何か書き込もうとしている。リタが、短剣の柄を握り直す。キサが、扉のほうへ、一歩、踏み出す。
俺は、空いたばかりの手のひらを、握って、開いた。爆炎の手の奥は、まだ、半分、だるい。それでも、握る。
後手だ。読みが当たって、なお、後手に回った。それでも、退く気は、もう、なかった。
「行きます」
俺は言って、扉のほうへ、足を向けた。
大穴の口で、本番の濁流が、いま、せり上がってきている。




