第35話 溢れた群れと、退かない理由
縦穴を、半分ほど上ったところで、足を止めた。
広域感知の端が、また、引っかかったからだ。下にいた、あの密な固まり。広間の底に押し込められて、ゆっくり上を目指していた、あの数。その先頭が、さっきまでより、ずっと、近い。
「リタ」俺は、上りかけた手を、岩棚の縁に止めた。「下のやつ、上がってくるの、速くなってる」
「下のって……あの、数だけ多いやつ?」
「そう。さっきは、底のほうにいた。今は」俺は、頭の中の地図を、確かめた。立ち上がった目が、縦穴の壁を伝って、すぐ下まで広がっている。「もう、この、横穴の枝のあたりまで、来てる」
リタの顔が、こわばった。
俺たちが今いる縦穴は、深層から中層へ抜ける、戻り道だ。この上に、横へ枝分かれする穴がいくつもある。その枝の一つが、たしか、もっと浅い区画――Eの札で潜れる、まだ駆け出しの連中が稼ぐ、あの狩り場へ、つながっていたはずだ。
頭の中で、地図と、勘定が、嫌な形でかみ合った。
あの密な固まりが、まっすぐ上を目指している。このまま行けば、行き先は、深層の奥じゃない。浅い、新人の狩り場のほうだ。
走った。
俊足を、足に乗せる。岩棚を、二段、三段と跳ねるように上がっていく。リタが、すぐ後ろをついてくる。
「悠さん、どこ行くの!」
「上だ。浅いほうの枝。あそこに、群れが、抜ける」
「抜けるって、新人の狩り場に!?」
「たぶん」
たぶん、で走るのは、性に合わない。けど、広域感知が見せているものが、それを、たぶん、で済ませてくれなかった。立ち上がった地図の上で、あの数が、枝の口へ、にじり寄っていく。底で押し合っていたぶんが、行き場をなくして、いちばん抜けやすい上の穴へ、ぞろぞろと、押し出されていく。狩った群れが散らばる動きじゃない。水が、堰の低いところから、こぼれていくみたいな動きだ。
枝の口に着く前から、もう、音が聞こえていた。
悲鳴だ。若い声。それと、岩を蹴る、いくつもの脚の、ざわめき。
枝の横穴を、飛び出した。
浅いぶん、天井が低い。灯火を点けるまでもなく、誰かの提げたランプの明かりが、ぼんやり届いていた。その明かりの中で、駆け出しらしい三人が、岩壁を背に、固まっていた。一人は、もう、尻もちをついている。短剣を構えた手が、見て分かるくらい、震えていた。
その三人を、犬くらいの蜘蛛が、囲んでいた。
数が、おかしい。
浅い狩り場に出るやつじゃない。これは、下で見た、あの群れだ。岩肌に脚を引っかけて、壁から、天井から、湧くみたいに溢れてくる。深層のやつが、本来いるはずのない、この浅い穴に。新人どもは、こんなのと、戦う段階じゃない。そもそも、こんな数を、想定していない。
「うわ、なんだこれ!」尻もちの一人が、叫んだ。「こんな、聞いてない! ここ、E帯のはず――」
迷わなかった、と言えば、嘘になる。
頭の冷えたほうが、一瞬、勘定した。こいつらは、知らない顔だ。俺たちが助けに入る義理は、ない。下で群れが膨れているのも、俺の仕事じゃない。退いて、ギルドに報せて、上位ランクを動員してもらうのが、筋だ。それが、正しい段取りだ。
でも、その正しい段取りの間に、目の前の三人は、呑まれる。
それに――。
ここを抜けた群れは、この穴で止まらない。新人の狩り場を抜けて、もっと上へ。間引かれないまま、上へ。放っておけば、いずれ、もっとでかい数になって、街道のほうまで、こぼれる。下で何が起きてるかは知らない。けど、これが上を目指してるってことだけは、さっきから、この目が、ずっと見せている。
逃げた先で、もっとでかいやつに、追いつかれるだけだ。
「リタ」俺は言った。「あの三人、逃がす」
「もちろん!」
返事を、待つまでもなかった。リタは、もう、短剣を抜いて、走り出していた。
「乗せるぞ!」
リタの刃に、強化を投げ込む。使い込んだぶん、厚く乗る。リタが、新人を囲む蜘蛛の一匹に、横から踏み込んで、脚を根元から薙いだ。一匹が、宙に投げ出される。
でも、薙いでも、薙いでも、追いつかない。数が、多すぎる。一匹倒す間に、二匹、三匹と、穴の奥から溢れてくる。リタ一人で、三人を囲む群れを、全部は止められない。
力で押し切る数じゃない。
なら、押し切らなくていい。
目を、半分、閉じた。広域感知に、全部、預ける。
立ち上がった地図が、この浅い穴の形を、まるごと見せている。天井の高さ。岩壁の出っ張り。床の、ごつごつした起伏。そして、溢れてくる群れの、流れ。蜘蛛どもが、どこから湧いて、どこを通って、新人へ向かっているか。一匹ずつじゃない。流れとして、頭の中に、川みたいに、置かれている。
群れは、てんでばらばらに来てるわけじゃなかった。
溢れる穴の口が、一つ。そこから出たやつが、岩壁の出っ張りを伝って、二手に分かれる。一手は、床を這って正面から。もう一手は、天井近くの岩棚を伝って、上から回り込む。新人どもは、その挟みの、ちょうど真ん中にいた。
挟みの、要は、二つ。
床の流れの、岩の柱が一本、狭まっているところ。そこを通らないと、正面組は、新人に届かない。
上の流れの、岩棚が一段、細く張り出しているところ。そこを通らないと、回り込み組は、上を取れない。
その二つの、狭まったところを塞げば、流れは、止まる。全部、倒さなくていい。要所で、二本の川を、堰き止めればいい。
「リタ! 床の柱! 狭いとこ!」俺は怒鳴った。「そこ、塞げ! 通すな!」
「分かった!」
リタが、走った。狭まった柱の隙間へ、滑り込む。床を這ってきた一匹が、そこを抜けようとした、その顔面へ、強化の乗った刃を、叩き込んだ。脚を引っかける足場が、狭い。蜘蛛が、つかえる。後ろのやつが、それに、つっかえる。一匹詰まれば、狭い隙間は、それで栓になる。リタが、そこに立って、栓を、押さえている。
床の流れが、止まった。
残るは、上だ。
上の流れは、リタには、回せない。リタは、下の栓で、手一杯だ。
天井近くの、細く張り出した岩棚。そこを、回り込み組が、ぞろぞろ伝っている。広域感知が、その一列を、はっきり捉えている。先頭が、もう、岩棚の先端まで来ていた。あそこから跳べば、上から、新人に届く。
火球を、手のひらに集めた。
でも、固まりに、まっすぐ撃つんじゃない。あの一列に、横から放っても、当たるのは一匹、二匹だ。それじゃ、流れは止まらない。
張り出しの、根元だ。
細く伸びた岩棚の、付け根。蜘蛛が一列に伝うには、ちょうど一匹分の幅しか、ない。そこを焼けば、足場が崩れる。足場が崩れれば、後ろの列は、進めない。岩を割るほどの威力は、火球には、ない。けど、もともと細い張り出しの、その付け根を、ぐらつかせるくらいなら――。
「外すなよ」
誰に言うでもなく、呟いた。
オレンジの火が、暗がりを裂いて、岩棚の付け根で、爆ぜた。直撃じゃない。狙ったのは、岩じゃなく、そこに脚を食い込ませていた、先頭の一匹だ。火に炙られて、脚が剝がれる。剝がれた拍子に、そいつが、細い足場から、転げ落ちた。一匹落ちれば、後ろが、つっかえる。つっかえた列が、狭い張り出しの上で、押し合いになる。
上の流れも、滞った。
二本の川が、両方、堰き止まった。
火球一発分の痺れが、手のひらに走る。これくらいなら、連発しなければ、すぐ戻る。底まで絞り出す、あの一発を切る場面じゃない。あれは、まだ、温存だ。一発撃ったら、後がない。今は、後を、残しておきたい。
堰き止めている間に、新人どもへ、怒鳴った。
「お前ら! 動けるか!」
「は、はい!」尻もちの一人が、ようやく立ち上がった。
「俺たちの来た穴へ走れ! まっすぐ上だ! 後ろは見るな!」
「で、でも、あんたらは――」
「いいから走れ!」
三人が、つんのめるように、走り出した。リタが押さえた柱の脇を、転がるように抜けていく。逃げ道が、いま、空いている。床の流れも、上の流れも、堰き止められて、新人へ届かない。その隙間を、三人が、駆け抜けた。
最後の一人が、横穴へ消えるのを、地図の端で、確かめた。
逃がせた。
でも、堰は、もたない。
床の栓は、リタが、もう、押し返されかけている。一匹詰まらせても、後ろから、二匹、三匹と、体重をかけて、押してくる。リタの足が、じりじりと、後ろへ滑っていた。
上の張り出しも、押し合った列が、また、じわじわ前へ進み出している。一匹落ちたくらいじゃ、止まらない。下から、新しいのが、際限なく、湧いてくる。
退くなら、今だ。
新人は、逃がした。役目は、済んだ。あとは、俺たちも、来た穴へ走れば、いい。
頭の冷えたほうが、そう言った。
でも、退いた先で、この群れは、どうなる。間引かれないまま、上へ抜ける。新人の狩り場を、好きに荒らして、もっと数を増やして、上へ。放っておけば、次は、もっと多くなって、もっと上で、誰かが呑まれる。今日逃がした三人が、明日、街道の手前で、また呑まれるかもしれない。
それは、嫌だった。
善人ぶる気は、ない。ただ、ここで止めとくのが、いちばん、損が少ない。この目が、それを、勘定で、はじき出していた。
「リタ、もうひと押し、保たせろ!」
「無茶言わないでよ!」リタが、栓を押さえたまま、振り向かずに叫んだ。「もう、けっこう、限界!」
限界の声に、いつもの威勢が、混じっていた。退きたい、とは、言わなかった。
溢れの大本は、一つの穴の口だ。
広域感知が、それを、見せている。下から湧いた群れが、たった一つの穴から、この浅い区画へ、こぼれ出している。二手に分かれるのは、その後だ。源は、一つ。
その口を、塞げば。
二手の川を、両方、ずっと堰き止め続けるより、源の一つを、潰すほうが、早い。
穴の口の、形を、地図で読んだ。岩の裂け目だ。横に細長い。上に、もろそうな庇が、張り出している。あの庇を、落とせば。落ちた岩が、裂け目を、半分、塞ぐ。塞ぎきれなくても、口が狭まれば、溢れの勢いは、ぐっと落ちる。流れが細れば、リタの栓と、上の崩れた足場だけで、しばらくは、保つ。
火球じゃ、岩は割れない。
底の、あれだ。
手のひらの奥、火球の、そのまた下。手を伸ばす。
『爆炎(SR)』
手のひらの中で、熱が、ふくれ上がる。重い。撃てば、空っぽになる。連発できない。撃ち切れば、後が、ない。
いつもなら、撃つ前に、リタを前に置く。空っぽになった間を、リタが塞ぐ。それが、段取りだ。
でも、今、リタは、床の栓で、手一杯だ。前に、出せない。
なら、塞ぐやつが、いない間に、撃つしかない。撃ったあとの、がら空きを、自分で、晒すしかない。
その晒した間を、最短にするには、一発で、決め切ることだ。揺さぶりじゃない。源の口を、ひと撃ちで、潰す。
穴の口の、もろい庇の、その付け根へ。
撃ち切った。
オレンジの光が、一点に潰れて、爆ぜる。轟音。爆風が、撃った俺ごと、床を後ろへ滑らせた。岩の裂け目の上の庇が、根元から、ごっそり崩れる。崩れた岩塊が、溢れの口へ、なだれ落ちた。
穴が、半分、埋まった。
手のひらは、空っぽだ。腕の付け根の、そのまた奥まで、絞り出した。次の一発は、当分、出せない。だるさが、肩から、ずしりと下りてくる。
でも、源の勢いは、目に見えて、落ちた。
半分埋まった裂け目から、まだ、蜘蛛が、こぼれてくる。けど、さっきの、押し出されるような勢いは、ない。狭まった口を、一匹ずつ、もたもたと、抜けてくる。それくらいなら――。
「リタ! 楽になったろ!」
「……あ、ほんとだ!」リタが、栓を押さえる手の、その向こうの勢いが、ふっと弱まったのを、感じ取ったらしい。「押す力、減った!」
床の栓に、つかえる蜘蛛が、減る。リタが、押し返す余裕を、取り戻した。一匹詰まらせて、薙いで、また詰まらせて。栓を保ったまま、少しずつ、前へ出ていける。上の崩れた足場のほうも、新しいのが伝ってこなくなって、押し合っていた列が、自分の重みで、ぼろぼろ、落ちていく。
二本の川が、どちらも、細っていった。
しばらくして、溢れが、止まった。
半分埋まった穴の口から、もう、こぼれてこない。残った蜘蛛は、リタが床で片づけ、俺は、空っぽの手のかわりに、礫を投げて、岩棚から落ちかけのを、落とした。だるい腕でも、礫くらいは、出せる。
最後の一匹を、リタが薙いで、ようやく、静かになった。
二人とも、その場に、座り込んだ。
肩で、息をしていた。爆炎の手の奥は、相変わらず、空っぽで、重い。リタは、短剣を握ったまま、岩壁に背中をあずけて、天井を仰いでいた。
「逃がせたね」リタが、息を整えながら言った。「あの、三人」
「ああ」
「源の穴、塞いだのも、悠さんでしょ。あの、でかい一発」
「半分しか、塞げてないけどな」
俺は、半分埋まった裂け目を、見た。崩れた岩塊で、口が狭まっている。これで、しばらくは、こっちへ溢れてこない。今日の、この穴は、止めた。
でも、それだけだ。
広域感知を、下へ伸ばした。
止めたのは、この、一つの穴だ。新人の狩り場へ抜ける、枝の一本。それだけ。
立ち上がった目で、深層の底のほうを、探る。さっき、塞いだ。だから、底の数は、減ったはずだ。減っていてくれ、と思いながら、地図を、下へ、下へ。
減って、いなかった。
底の、あの密な固まりは、さっきと、ほとんど、変わっていない。びっしりと詰まったまま、暗がりの底で、押し合っている。俺が塞いだのは、こぼれ口の、一つだけ。漏れた一波を、堰き止めただけだ。本体は、まだ、底に、まるごと、ある。
そして、地図の、別のところ。
底の固まりの、端のほうが、また、別の方向へ、にじり始めていた。今、塞いだのとは、違う枝。別の穴の口を、探って、押し合いの圧が、新しい逃げ道を、見つけようとしている。
一つ塞いでも、別の口から、また溢れる。
堰を、いくつ作っても、追いつかない。源の、底にある、あの数そのものが、減らない限り。
「悠さん?」リタが、俺の顔を、覗き込んだ。「どうかした。塞いだ、んだよね」
「塞いだ」俺は、地図から、目を上げられなかった。「ここは。けど、底のやつ、減ってない」
「減ってない、って」
「全然だ。漏れたの、ほんの、一握りだった」俺は、半分埋まった裂け目を、見た。あれを塞ぐのに、爆炎を、撃ち切った。「あれだけ溢れて、あれだけ騒ぎになって。それでも、底のは、まるごと、残ってる。今、別の口を、探し始めてる」
リタが、息を、呑んだ。
今日、逃がした三人。今日、塞いだ、一つの穴。撃ち切った、爆炎の一発。それが、あの底の数の、ほんの、上っ面を、削っただけだったと、たぶん、同じ絵が、リタの頭にも、浮かんでいた。
下の暗がりで、押し合う数が、また少し、別の口へ、にじり寄る。
今日のは、漏れた、ほんの一波だ。本番は、まだ、底で、押し合っている。それが、次に、どの穴から、どれだけの数で、溢れてくるのか。広域感知は、そこまでは、教えてくれない。ただ、底の数が、減っていないことだけを、はっきりと、見せ続けていた。




