第33話 上を取る敵と、足りない読み
今日は、調子がよかった。
深いとこに下りて、もう何度目かになる。岩棚の段差にも、足が慣れてきた。リタが上を見て、俺が前と下を読む。横穴から飛び出してくるやつも、滑空してくるやつも、二人で分担してさばけば、たいていは取りこぼさずに片づく。さっきも、三匹まとめて湧いたのを、危なげなく落とした。リタの剣には、相変わらず、強化が少し厚めに乗っている。使い込んだぶん、保ちが延びたやつだ。
「いい感じじゃない?」リタが、額の汗を拭いながら言った。「今日、私たちだけで、けっこう奥まで来てるよ」
「そうだな。キサさんも、見当たらないし」
あの獣人は、今日は別の方角にいるらしい。鼻の利く先客がいないぶん、上を取られる怖さは、いつもより、こっちで気を張って補っていた。それでも、回せている。袋の重さが、半日でこれだ。中層で日銭を数えていた頃を思えば、悪くない。
欲をかかない範囲で、もう少しだけ。そう思って、横穴を一つ、奥へ抜けた。
抜けた先が、広間になっていた。
灯火を、できるだけ前へ伸ばす。天井が、高い。光が届かない。床にも、ごつごつした岩の柱が、何本も立っている。中層の通路の感覚なんて、ここでは、何の役にも立たない。
気配感知が、何かを拾った。
一つだけ。でも、でかい。
でかい、というのが、まず、おかしかった。
今まで拾ってきた気配は、犬くらいの蜘蛛が、数で固まっている、そういう手応えだった。これは違う。一つ。たった一つなのに、感知に乗ってくる手応えが、群れぜんぶよりも、重い。リタに上を分担してもらうとか、横から回り込まれるとか、そういう話じゃない。一つで、この重さだ。
「リタ、止まれ」俺は、声を落とした。「一匹、いる。でかいの」
「どこ?」
「それが」
言いかけて、詰まった。位置は、拾える。広間の、奥のほう。でも、そいつが、今、床にいるのか、岩の柱の途中にいるのか、それとも、見えない天井に張りついているのか――そこが、まるで、像を結ばない。重い手応えだけが、暗がりの中を、ゆっくり、移っていく。前後左右には動いている。なのに、高さが、つかめない。
灯火の縁の、その外。
暗がりが、ぬっと、せり出した。
最初、岩の柱が一本、動いたのかと思った。それくらい、でかかった。四つ足の、岩みたいな胴。背中に、ごつごつした甲羅みたいな張り出し。それが、岩の柱の根元から、こっちへ、ぬうっと顔を出して――次の瞬間、その巨体が、信じられない速さで、横の柱へ、跳んだ。
跳んだ、というより、消えた。
目で追えなかった。さっきまで床の暗がりにいた重さが、一拍で、左の岩の柱の、俺の頭より高いところに、張りついていた。あの図体で、壁を、垂直に。爪を岩に食い込ませて、こっちを、上から見下ろしている。
背筋に、ぞわっと、悪寒が這い上がった。
「上!」俺は怒鳴った。「リタ、左の柱! 上だ!」
言ったそばから、もう、いなかった。
柱の上の重さが、ふっと、軽くなる。気配が、跳ぶ。今度は、どこへ。前か、後ろか、上か。読もうとした、その読みが、追いつく前に――頭の、すぐ上で、空気が鳴った。
落ちてくる。真上から。
考えるより先に、リタの腕を掴んで、横へ飛んだ。直後、俺たちが立っていた岩の床が、ぐしゃ、と陥没した。巨体の前脚が、岩を、菓子みたいに砕いていた。砕いた勢いのまま、そいつは、また柱を蹴って、暗がりの高みへ、消える。
心臓が、喉まで上がってきていた。汗が、一気に噴き出る。
「な、なに、今の」リタの声が、上ずっていた。「速すぎ」
「上だ。ずっと、上を取られてる」
息が、うまく吸えない。胸が、内側から押されているみたいに、苦しい。
俺の感知は、平たい。前後左右の位置は、拾える。でも、こいつは、その平たい地図の上を、上下に、跳ねて動く。床から柱へ。柱から天井へ。天井から、また床へ。そのたびに、高さが、ぼやける。気配が、来る、と分かったときには、もう、どこから来るのかが、決まっていない。読みが、追いつかない。
リタが、短剣を構え直した。
「私が、相手するよ。悠さん、強化」
「待て、駄目だ」
止めた。
いつもなら、俺が前後を読んで、危ない方向の手前に、強化を乗せたリタを置く。それで、迎え撃てた。でも、それは、来る方向が、先に読めるからできることだ。今は、読めない。リタを、どこに置けばいいのか、俺が、指せない。指せないまま前に出せば、上から、潰される。さっきの床みたいに。
「方向が、読めないんだ」俺は、早口で言った。「いつもみたいに、お前を置く場所が、決められない。先に動いたら、上から落とされる」
「じゃあ、どうすんの」
どうする。
頭の隅で、いつもの算段が、空回りした。火球で、揺さぶる。だが、揺さぶった先に、こいつは、いない。撃った瞬間には、もう、別の高さへ跳んでいる。礫も、同じだ。動きの速さに、何もかも、置いていかれる。
でかい気配が、また、暗がりの中を移った。今度は、右の柱の中ほど。こっちを、測っている。一回りでかいぶん、湧いて死ぬまで突っ込んでくる中層のやつとは、頭が違う。間合いを測って、いちばん効く高さから、落ちてくる気だ。
来る。今度は、右上から。
「リタ、俺の後ろ! 右上だ!」
読めた、わけじゃない。気配の重さが、右の柱で、ぐっと沈んだ。跳ぶ前の、ためだ。それだけを頼りに、賭けで、言った。
巨体が、右上から、落ちてきた。
俺は、障壁を、右上へ向けて、立てた。手のひらの前に、見えない板を、斜めに張る。来ると分かった一発を、正面でいなす。
いなせなかった。
障壁に、巨体の前脚が当たった瞬間、板が、紙みたいに砕けた。受け止めるどころじゃない。叩き割られて、その勢いの残りが、俺の肩を、横殴りに弾いた。体が、宙に浮いて、岩の床に、背中から叩きつけられる。息が、肺から、ぜんぶ抜けた。
「悠さん!」
リタの声が、遠くで聞こえた。視界が、白く明滅する。背中と、後頭部が、痺れている。立て、と頭の冷えた部分が言う。今、動かなきゃ、次が来る。
巨体は、障壁を割った勢いで、いったん床に降りていた。前脚で、地を掻いて、向き直ろうとしている。一瞬。ほんの、一瞬だけ、床にいる。高さが、決まっている。
今しかない。
俺は、痺れる腕を、なんとか持ち上げて、手のひらに、熱を集めた。火球じゃない。火球じゃ、こいつの厚みは、貫けない。さっきの障壁すら、紙だった。
底へ、手を伸ばした。あの夜、ドレクの前で、初めて掘り当てた、火球の、その奥にあるやつ。
『爆炎(SR)』
手のひらの中で、熱が、鉄の塊みたいに、ふくれ上がる。重い。久しぶりに引き出すそれは、火球とは比べ物にならない密度で、手の中に、ぐっと根を張った。
床に降りた、巨体の胴へ。
撃った。
橙の光が一点に潰れて、爆ぜた。轟音が、広間の岩を揺らす。爆風が、撃った俺まで、床の上を、ずるりと滑らせた。煙と土埃が、巨体を、まるごと飲み込む。
効け。頼むから、効いてくれ。
煙が、薄れた。
巨体は、そこに、いた。
立っていた。背中の甲羅みたいな張り出しの、片側が、焦げて、めくれている。岩みたいな胴の横腹に、爆炎の焦げ跡が、黒々と走っていた。効いて、いる。たしかに、効いている。あの、ドレクの胸当てを、面からひしゃげさせた一発だ。岩の柱が砕けるんだから、生き物に、効かないわけがない。
でも、止まっていない。
効いて、なお、立っている。それだけ、図体が、でかい。爆炎の中心を、胴の一点で食らって、片側が焦げて、それでも、四つの脚で、踏ん張っている。一発で決め切れる厚みじゃ、なかった。
そして、それを、見届けた瞬間に、俺は、自分の失敗を、悟った。
手のひらが、空っぽだった。
爆炎は、底まで絞り出す一発だ。撃てば、手の奥が、しんと静まり返る。火球なら数呼吸で戻ってくる熱が、これは、戻ってくる気配すらない。腕の付け根の、そのまた奥まで、何かを、根こそぎ持っていかれた感じがする。次の一発を、出そうにも、引き出す底が、もう、ない。
いつも、リタが、この空白を埋めてくれていた。ドレクのときも、そうだった。撃ち切ったあとの、がら空きの間を、リタが、前で、塞いでくれた。
でも、今は、違う。
リタを、置く場所が、読めない。だから、爆炎を撃つ前に、リタを前に出せなかった。出せないまま、撃った。撃ったあとの、この空っぽの間を、塞ぐやつが、いない。一人で、この間を、晒している。
焦げた巨体が、岩の柱を、また、蹴った。
跳ぶ。今度は、どこへ。読めない。手のひらは、空。逃げ場を、上から塞ぐように、暗がりの高みで、重さが、跳ねた。
「悠さん、こっち!」
リタの声が、横から飛んできた。
リタが、近くの岩の柱の、根元の窪みに、身を寄せていた。柱の張り出しが、庇みたいに、上を覆っている場所だ。上から落ちてくる相手には、上に蓋のある、あそこなら。
考えるより、足が動いた。俊足を、足に乗せる。爆炎で感覚の遠い腕じゃなく、足だ。地を蹴って、リタのいる窪みへ、転がり込んだ。
直後、頭の上で、岩が砕けた。庇代わりの張り出しに、巨体の前脚が、叩きつけられている。岩の破片が、降ってくる。けど、本体は、張り出しに阻まれて、俺たちのところまでは、届かない。
「凌げてる」リタが、引きつった顔で言った。「けど、これ、いつまで」
「もたない」
俺は、岩の張り出し越しに、上を睨んだ。巨体が、張り出しを、しつこく、叩いている。岩が、少しずつ、欠けていく。崩されるのが、先か。手の底が、戻るのが、先か。考えるまでもなかった。爆炎の空白は、火球の比じゃない。張り出しのほうが、ずっと早く、崩される。
退くしかない。
頭の冷えた部分が、はっきり、そう言った。
悔しさで、認めたくなかった。爆炎は、効いた。間違いなく、効いた。あの厚みに、半分は、刻んだ。あと一発、もう一発、決められる隙さえ作れれば。
でも、その隙が、作れない。
威力が、足りないんじゃない。爆炎は、ちゃんと、強い。こいつだって、警戒している。さっき焦がしてから、一度も、まっすぐは突っ込んでこない。じゃあ、何が足りないのか。
読みだ。
こいつが、次にどの高さから来るのか。それを、先に読めれば。読めれば、リタを、そこへ置ける。置ければ、リタが、塞ぐ。塞いでくれれば、俺は、もう一度、底まで撃ち切れる。撃ち切れれば、届く。
届く順番は、全部、見えている。最初の一手が、抜けているだけだ。こいつの高さを、先に、読む。それさえ、できれば。
できないから、退く。
「リタ、聞け」俺は、張り出しの欠けていく音の下で、早口で言った。「次に、あいつが張り出しを叩いた、その直後。間が空く。そこで、横穴へ走る。来た道だ。あいつは、でかすぎて、横穴の細いとこは、追えない」
「悠さんは」
「俺も走る。お前が先だ。読みは、間に合わせる。行け」
リタが、一瞬、俺を見た。置いていく気じゃないかと、疑う顔だった。
「先に行けってのは、お前が、横穴で上を見る役だからだ」俺は言った。「俺は、後ろで、下と前を読む。いつもの逆だ。だから、お前が先。それだけだ」
リタの顔から、疑いが、消えた。
「分かった」
巨体が、張り出しを、また叩いた。岩が、大きく欠ける。その、叩いた反動で、巨体が、ほんの一拍、引き戻る。
「今だ! 走れ!」
リタが、窪みから飛び出した。俺も続く。横穴へ。
背後で、気配が、跳んだ。追ってくる。重さが、頭の、斜め上。来る方向は、もう、読もうとしなかった。読めないものを読もうとして、足を止めるほうが、危ない。ただ、まっすぐ、横穴へ。
横穴に、転がり込んだ。
直後、入口の岩に、巨体が、激突した。横穴の口が、巨体には、狭すぎた。岩が、外側から、ぼろぼろと崩れる。でかい前脚が、口から、ぐっと突き込まれて、俺の足を、掠めた。けど、それ以上は、入ってこられない。
巨体が、口の外で、苛立たしげに、岩を掻いた。それから――ふっと、気配が、引いた。
追うのを、諦めたらしい。狭い横穴に、無理に体を突っ込んで、抜けなくなる損のほうを、嫌ったみたいだった。あの図体で、それくらいの分別は、ある。
俺たちは、横穴の暗がりで、しばらく、動けなかった。
縦穴を、上り始める。
しばらく、二人とも、口をきかなかった。
肩で、息をしていた。背中が、まだ、痺れている。爆炎を撃った手の奥は、上っても上っても、戻ってこない。岩棚に手をかけるたび、腕の付け根が、芯から、だるい。爆炎の空白は、こんなに、長く尾を引くものだったのか。一発で、決め切れる相手にしか、使えない。そう、体で、思い知らされた格好だった。
「悠さん」リタが、上りながら、ぽつりと言った。「あれ、倒せなかったね」
「ああ」
「強化、乗せる隙も、なかった。私、ほんと、何も、できなかった」
リタの声が、いつもの威勢を、半分も、含んでいなかった。前を割って、斬る役なのに、その前を、一度も、取らせてもらえなかった。それが、こいつには、こたえているらしかった。
「お前のせいじゃない」俺は言った。「俺が、お前を置く場所を、読めなかった。それだけだ」
言いながら、悔しさが、腹の底で、ぐつぐつと、煮えていた。
爆炎は、効いた。あと一発、撃てれば、たぶん、届いた。なのに、その一発を、撃つための隙が、作れなかった。隙を作るのに、必要なのは、火じゃない。読みだ。あいつが、上から来るのか、下から来るのか。それを、気配が届くより先に、丸ごと、つかめていれば。前と後ろだけじゃ、足りない。高さが、要る。
手のひらを、握って、開いた。爆炎の余熱は、もう、ない。空っぽの、だるさだけが、残っている。
火は、足りていた。足りなかったのは、こっちだ。
縦穴を、半分ほど上ったところで、岩棚の縁に、人影があった。
キサだった。獲物の解体を、途中でやめたみたいな格好で、片膝をついている。今日は別の方角にいたはずの、あの獣人が、こんな縦穴の途中まで、上がってきていた。
こっちを見る、その顔が、いつもと違った。
値踏みの目じゃない。鼻を、俺たちが上ってきた、下のほうへ、向けている。眉が、きつく、寄っていた。
「あんたら」キサが、低く言った。「下で、でかいのと、やったね」
「……分かるんですか」俺は言った。
「臭うのさ。焦げと、血と――あいつの臭い」キサは、下の暗がりを、じっと睨んでいた。「甲羅持ちの、でかいやつだろ。爪で、岩を割る」
「知ってるんですか、あれ」
「知ってるよ。けど」
キサが、言葉を、切った。鼻を、もう一度、下へ向ける。確かめている。何かが、合わない、という顔だった。さっき、群れの数が合わないと言ったときの、あの顔に、似ていた。けど、今度のは、もっと、深く、引っかかっている。
「あいつの巣は、もっと下だ」キサは、ほとんど独り言みたいに言った。「ずっと下の、暗いとこ。あんなのが、こんな上まで、出てくる臭いじゃ、ない」
「上まで?」
「ああ」キサは、初めて、まっすぐ俺を見た。「あいつが、自分の縄張りより上に、出てきてる。あんたらが、運悪く、踏んだんじゃない。あいつのほうが、上に、いた」
それだけ言って、キサは、もう一度、下の暗がりへ、鼻を向けた。
その横顔が、固かった。
深いとこを、何年も一人で潜ってきた女が、自分の知っている臭いの並びが、狂っている。それを、嗅ぎ当てた顔だった。なぜ、あれが、上に出てきたのか。キサは、口にしなかった。たぶん、答えを、持っていない。
俺も、持っていない。
ただ、爆炎を空っぽにして退いてきた、その腹の底に、別の冷たいものが、一つ、降りてきた。あの図体が、本来いるべき下から、押し出されるみたいに、上がってきている。何かが、下で、起きている。
キサは、それきり、何も言わなかった。下の暗がりを睨んだまま、岩棚に、片膝をついて、動かなかった。




