第31話 解禁された深層と、別ものの底
縄を越えて十数歩も下りたところで、空気が変わったのが分かった。
今まで潜ってきた中層は、せいぜい人ひとり半が並んで歩ける通路の連なりだった。壁に手が届く。天井に頭がつかえそうになる。その狭さが、潜るうちに、いつのまにか安心の形になっていたらしい。
ここには、それがなかった。
ダグの言った「もう一段、下りられる縄」を、Dの札を見せて越えた。その先で、足元の岩棚が、すとんと切れていた。
「悠さん、これ」
前を行くリタが、足を止めた。
俺は灯火を、少し前に押し出した。手のひらの上で生まれる、握りこぶしくらいの光の玉だ。それを、できる限り遠くへ伸ばす。届かない。光の縁が、暗がりに溶けて、その先が見えない。
縦に、開けていた。
岩棚の縁から下を覗くと、底が見えなかった。横にも、上にも、空洞が広がっている。天井がどこにあるのかも分からない。中層の、壁に挟まれた感覚が、まるごと通じない。光の届く範囲だけが、ぽつんと足場で、その外側は、全部、暗い。
「広いね」リタが、声をひそめた。「上、どこまであるんだろ」
「分からん。灯火が、届かない」
声が、思ったより遠くまで響いて、それから、奥のどこかで、薄く返ってきた。中層なら、すぐ壁に当たって消えていた声だ。それが、戻ってくる。空間がでかい、ということが、音の遅れで分かった。
それから、息が、妙に重かった。
潜るほど空気が濃くなる、という感覚に近い。喉の奥が、ぴりぴりする。呼吸が浅くなる。中層でも、奥のほうへ行くと薄く感じたやつだ。それが、ここでは、はっきりと強い。魔素が濃い、というのは、こういう体の感じなんだろう。
ダグが、戻ってこないやつのほうが多い、と言っていた。
その言葉の重さが、この縦の暗がりを覗き込んで、ようやく、腹に落ちた気がした。
岩棚を伝って、慎重に下りていく。
道らしい道はない。岩が段々になっている、その出っ張りを選んで、足をかける。灯火を前に置いて、リタが先、俺が後ろ。落ちたら、底は見えない。
「悠さん、気配は」
「拾えてる。いくつか」リタの背中に向けて、俺は言った。「下のほう。固まってるのが、一群れ。あと、ばらけてるのが、何匹か」
気配感知が、暗がりの向こうの位置を、頭の中に流し込んでくる。数。大きさ。向き。中層では、これがあれば、まず後れを取ることはなかった。狭い通路だ。向かってくる方向は、前か後ろの二つしかない。読めば、対処できた。
ただ、ここで一つ、引っかかった。
気配が、上下にも、ばらけている。
俺の感知が拾うのは、平たい地図みたいなものだ。どこに、何匹、どっちを向いて。それは分かる。でも、この縦に開けた空間で、そいつらが、俺より高いところにいるのか、低いところにいるのか――その手応えが、薄い。前か後ろは分かるのに、上か下かが、ぼやける。
まあ、と思い直す。下りていけば、いずれ同じ高さになる。今は気にしなくていい。
そう、思った矢先だった。
頭の上で、空気が、ぶれた。
気配が、来る、と頭の隅で鳴った。けど、方向が、おかしい。前じゃない。後ろでもない。
上だ。
反射的に身を引いた。間に合わなかった。岩棚の天井のほうから、何かが、まっすぐ落ちてきた。黒い塊が、灯火の光をかすめて、俺のすぐ脇の岩に、叩きつけられる。
「うわっ」
声が出た。情けない声だった。
落ちてきたそれが、地面を蹴って、跳ねた。蜘蛛だ。いや、蜘蛛みたいな形の、犬くらいの大きさの魔物だった。脚が、長い。岩肌に、八本の脚を引っかけて、また、ぐっと壁を駆け上がる。重力を、無視していた。壁が、こいつにとっては、床だった。
肩が、ひやりとした。落ちてきた一撃が、もう一歩内側だったら、頭をやられていた。
「上!」俺は怒鳴った。「上から、来る!」
リタが、ぱっと頭の上を見上げた。その視線の先、岩棚の壁を、もう二匹、三匹と、同じ形の影が這っていた。光の届くぎりぎりのところを、するすると移動して、こっちの位置を、上から測っている。
気配は、拾っていた。数も、いた。でも、それが、頭の上だとは、最後まで、はっきり分からなかった。上か下かを、感知が、取りこぼした。
一匹が、また、天井から身を投げた。今度はリタへだ。
「リタ、強化!」
考えるより先に、強化付与を、リタの全身へ投げ込んだ。リタの足が、地を噛んで、低く沈む。落ちてくる蜘蛛の影に合わせて、短剣を、下から上へ、すくい上げた。強化を乗せた一撃が、落下の勢いとぶつかって、蜘蛛の胴を、横ざまに弾き飛ばす。岩壁に叩きつけられた蜘蛛が、脚を縮めて、けたたましい音を立てた。
「一匹!」リタが、息を弾ませた。
「まだいる。壁に、二匹」
俺は、手のひらに熱を集めた。
火球だ。狙いは、壁を這う一匹じゃない。壁の、そいつらが固まっている、その一点。
撃った。
オレンジの火が、暗がりを裂いて飛んで、岩壁の出っ張りで、弾けた。直撃を狙ったんじゃない。岩肌に火が爆ぜて、その熱と光が、まとわりついていた蜘蛛どもを、いっせいに、剝がした。脚を引っかける場所を、火に焼かれて、こらえ切れずに、二匹が、宙に投げ出される。
壁を這う相手には、壁から引き剝がせばいい。
地面に落ちた二匹に、リタが、踏み込んだ。落下で体勢を崩した蜘蛛は、もう、壁の自由を失っている。ただの、地を這う獲物だ。一匹の脚を、強化の乗った短剣が、根元から薙ぐ。返す刃で、もう一匹の胴を、上から押さえつけて、刺し貫いた。
脚が、痙攣して、止まった。
残りの気配が、上のほうへ、引いていくのが分かった。
数が減って、勝てないと踏んだのか、暗がりの高みへ、するすると戻っていく。追う気には、ならなかった。上は、こっちの間合いじゃない。
灯火の光の中で、俺は、肩で息をしていた。
火球の熱が、まだ手のひらに残っている。痺れは、いつもの一発分だ。連発しなければ、戻る。これくらいで済んだのは、火球で足りる相手だったからだ。爆炎を出すような場面じゃない。あれは、底まで絞り出す一発で、撃てば、しばらく空っぽになる。こんな、群れの一掃に使う火じゃない。
「悠さん、上、見れる?」
リタが、短剣の血を払いながら、頭の上を警戒している。
「気配は、引いてる。けど」俺は、暗い天井のほうを見上げた。「正直、上は、自信がない。さっきの、頭から落ちてきたやつ。気配は拾ってたのに、上だって、最後まで読めなかった」
「読めなかった?」
「数も、いるのも、分かってた。でも、上か下かが、ぼやけるんだ。中層は、前か後ろしかなかったから、それで足りてた。ここは――」俺は、縦に開けた暗がりを、ぐるりと見回した。「上にも、下にも、敵がいる。今の感知じゃ、片手落ちだ」
肩が、まだ、こわばっていた。
頭の上を、敵に取られる。それが、こんなに気持ちの悪いものだとは、思っていなかった。中層では、背中さえ気をつけていればよかった。ここは、上を見落とした瞬間、頭の上から落ちてくる。視界の外、灯火の届かない高みから。
「もっと、広く読めれば」
ぽつりと、口から出た。前と後ろだけじゃなく、上も下も、ぐるりと一息に。そういう読み方ができれば、さっきのは、避けられた。
まあ、ないものねだりだ。今あるもので、どうにかするしかない。リタに上を見てもらって、俺が前を読む。二人で、片手落ちを、補い合えばいい。
「補い合おう」リタが、あっさり言った。「私が上、悠さんが下と前。それでいいでしょ」
「それでいこう」
倒した蜘蛛から、魔石を抜いた。
胴の中ほどに、埋まっていた。中層の魔物のそれより、二回りはでかい。手のひらに乗せると、ずしりとくる。光に透かすと、奥のほうで、深い色が、ゆっくり脈打っているみたいに見えた。
「でかいね、これ」リタが、覗き込んできた。
「中層のと、別もんだな」俺は、それを、袋に落とした。乾いた、重い音がした。「ダグさんが言ってた。深いほうの素材は、跳ねるって」
もう数匹、しばらく潜るあいだに片づけた。どれも、立体的に動いた。岩棚の影から滑空してくるやつ。横穴から大きく跳ねて飛び出してくるやつ。中層の、まっすぐ向かってくる魔物の、延長じゃなかった。一つ一つ、動き方が読めなくて、そのたびに、ひやりとした。
袋が、重くなった。
魔石の数は、中層の半日で稼いだ分より、少ない。でも、一個一個の重さが、まるで違う。これを地上で売れば、と頭の隅で勘定が回った。中層で銅貨を一枚二枚と並べていた頃の、あの目盛りでは、たぶん測れない。桁が、変わる。
深いほうは、危険も、稼ぎも、別ものだった。
奥の広間に出たところで、灯火の縁に、人影があった。
ぎくりとした。気配は、拾っていた。でも、あまりに動かないので、岩か何かだと思っていた。それが、ゆっくり、こっちを向いた。
女だった。
軽装の、身軽な格好。頭の上に、獣の耳があった。獣人だ。腰を落として、岩棚の出っ張りに、片膝をついている。狩りの途中なのか、足元に、解体しかけの魔物が、転がっていた。
俺たちのほうを、女が、見た。
暗がりの中で、目だけが、灯火の光を拾って、ちらりと光った。値踏みするような目だった。Dの札を提げた新入りが、二人、こんな下まで下りてきた。それを、上から下まで、一度なめるように見て――それきり、興味をなくしたみたいに、手元の解体に、目を戻した。
「……」
リタが、何か言いかけて、口をつぐんだ。
女は、こっちに、一言も、かけなかった。手伝うでも、追い払うでもない。ただ、自分の手元の魔物を、淡々と捌いている。深いとこに先にいたのは自分だ、お前らは勝手にしろ、とでも言うみたいな、素っ気なさだった。
立ち去りかけたとき、女が、ぽつりと言った。こっちを見もしないで。
「深いとこは、別もんだよ」
それだけだった。
手元から、目を上げもしなかった。忠告でも、世間話でもない。独り言みたいな、低い声だった。けど、上から頭を取られて、ひやりとした直後の俺には、その一言が、やけに、的を射て聞こえた。
「……みたいですね」
俺は、それだけ返した。女は、もう、応えなかった。
深く立ち入る気は、なかった。
今日は、ここまでだ。上を取られる怖さも、立体的に動く魔物の読みづらさも、まだ、体に馴染んでいない。欲をかいて、もう一段下りる場面じゃない。ダグの、欲かくな、が、こういうときのための言葉なんだろう。
来た道を、岩棚を伝って、戻り始めた。
縦穴を見上げる。下りてくるときに覗いた、底の見えない暗がり。あの底のほうから、ぬるい、重い空気が、ゆっくり立ち上ってくる。喉の奥が、まだ、ぴりついている。魔素の濃さは、上るほど、薄れていくはずだ。
ただ、と思った。
今日、俺たちが下りたのは、解禁されたばかりの、深層の、ほんの入口だ。あの、底の見えない縦穴の、ずっと下。灯火の届かない、もっと深いところ。あそこには、今日の蜘蛛なんかとは、桁の違う何かが、いる。
気配感知が、底のほうから、何かを拾った気がした。
いや、拾えてはいない。距離が、遠すぎる。ただ、暗がりの底に、巨大な何かが、息をひそめて横たわっている――そんな、輪郭にもならない感じだけが、喉のぴりつきと一緒に、背中の奥に、こびりついた。
リタも、足を止めて、底を見下ろしていた。
「下、まだ、ずっとあるんだよね」
「ずっとある。今日のは、入口だ」
「入口で、これか」リタが、ぽつりと言った。声に、いつもの威勢が、半分しかなかった。それでも、底を見下ろす目は、逸らさなかった。
俺は、灯火を握り直した。光の玉が、暗がりを、わずかに押し返す。その光の届かない、底のほうへ、二人で、目を凝らした。
あそこに、何がいる。
知りたかった。怖さと、ほとんど同じだけ、知りたかった。




