第30話 Dランクと、まだ広い世界
「あんたら、上がるよ。二人とも、Dだ」
北の宿場から戻って、護衛の達成を報告しに行ったその場で、受付の女に、いきなりそう言われた。
いつもの台の向こうだ。茶色の髪を引っ詰めた、慣れた顔。けど、今日のそれは、依頼書を一枚さばくときの調子とは、少しだけ違っていた。台帳から目を上げて、まっすぐ、俺とリタの二人を見ている。
「Dって」リタが、隣で、声を裏返した。「私も、ですか」
「あんたもだよ。何度言わせるんだい」
女は、台の下から、薄い銅の札を二枚、出してきた。俺が腰に下げているのと、よく似た形だ。だけど、縁の刻みの数が、増えている。
昇格そのものは、思ったより、あっけなかった。
女は、俺たちの古い札を受け取って、台帳の何かと照らして、新しいほうを、ぽんと押し返してきた。儀式めいたものは、何もない。誰かが祝ってくれるわけでも、楽の音が鳴るわけでもない。ただ、刻みの一つ多い札が、手の中にある。
ただ、女が口にした理屈のほうは、あっけなくなかった。
「言っとくけどね。Dへの飛び級なんざ、めったに通る話じゃないよ。あんたら、本来ならEで何件も実績を積んでから、ようやくって順番さ」女は、台帳の角を、指で叩いた。「上がそれを通したのは、単純な話だ。元B級の頭目を、二人で落とした。腐ってた荷主を、引きずり出した。それだけの立役者を、いつまでもEの新人の棚に並べとくのは、ギルドとして、収まりが悪い。回す依頼と、ランクが、釣り合わなくなってきてる。それだけのことさ」
「それだけ、ですか」
「それだけだよ。情で上げたわけじゃない。あんたらが、上げざるを得ない実績を、勝手に積んだ。こっちは、それを後追いで札に書いてるだけだ」
女は、ふん、と鼻を鳴らした。世辞でも、おだてでもない。算盤の上で、数が合わなくなったから、桁を一つ繰り上げた。そういう言い方だった。
リタは、自分の札を、両手で、まじまじと見ていた。
縁の刻み。それを、指の腹で、何度もなぞっている。顔が、じわじわと赤くなっていく。さっき、Dと言われた瞬間から、ずっと、どう喜んでいいのか分からない、という顔のままだ。
「私、いっこも、上がったこと、なかったんですよ」
リタが、ぽつりと言った。女に言うともなく、俺に言うともなく。
「ずっと、Fで。村にいた頃から、ずっと振ってて、それでも、いっこも。Eにすら、上がれてなくて。それが、いきなり、D、って」
「飛び級だからね」女は、素っ気なく言った。「あんたの剣が、あの頭目の一打を、一拍止めた。後衛が火を撃ち込む隙を、前衛が命がけでこじ開けた。そう、本隊の連中の証言が、札に付いてる。前衛として、勘定されてんだよ。連れの付き添いじゃなくてね」
リタの目が、ちょっと、潤んだ。それを、慌てて、手の甲で押さえる。
「私の、剣で」
「あんたの剣でだよ。もう、言わせるんじゃない」
女は、それきり、次の客の依頼書に手を伸ばした。皮肉なのか、ぶっきらぼうな照れ隠しなのか、いつもどおり、半々で分からない。
俺は、横で、何も言わなかった。
こいつが、自分の足で歩いてきた距離を、紙の上の一行で測り直して、その重さを、両手で確かめている。それを、横から言葉で飾るのは、違う。あの一拍が、ただの偶然じゃなかったことは、誰より、俺が知っている。だけど、それを、こいつが、こいつの腕で受け取っているのを、ただ見ていればいい気がした。
「あと、これだ」
女が、思い出したように、台の下から、革袋を二つ、押し出してきた。
手に取ると、ずしりと重い。今まで、ここで受け取ってきた、銅貨数枚の、あの軽さじゃない。
「護衛の報酬と、頭目の巣から出た素材の、お前らの取り分だ。素材のほうは、ギルドが買い上げて、本隊と按分した。お前らの働きが、相応に乗ってる」
袋の口を覗くと、銅貨に混じって、銀貨が、いくつも。底のほうに、金貨の色まで見える。
大穴で安魔石を売って、銅貨を一枚二枚、目盛りと並べていた頃を思えば、桁が、まるで違う。中層に潜って魔石が出れば跳ねる、という、あの跳ね方を、もう一段、大きくしたような重みだ。
「……これは、跳ねましたね」
「相応だよ。元B級の巣を一つ潰せば、出るもんも相応に出る。お前らの取り分が、たまたまその規模だったってだけさ」女は、また、台帳に目を戻した。「言っとくが、これが当たり前になると思うんじゃないよ。こんな口は、そう転がってない」
「分かってます」
リタは、自分の革袋を、ちゃりっと振って、その重さに、目を丸くしていた。それから、俺を見て、ちょっと、得意げに笑った。
ギルドを出ると、夕方の大通りに、いつもの喧騒が戻っていた。
露店が並んで、買い物帰りの連中が行き交って、荷車の軋む音がしている。少し前まで、この通りに薄く張りついていた緊張は、もう、ない。荷馬車が、街道の向こうから、無事に荷を運んで入ってきている。
「ねえ、悠さん」
歩きながら、リタが、横から言った。札を、まだ、握ったままだ。
「Dだよ。私たち、D」
「Dだな」
「私、F以外になったの、初めてだよ」リタは、しみじみと言った。「すっ飛ばして、D。なんか、実感、湧かないんだけど」
「飛び級だからな」
「悠さんも、飛び級でしょ」
「俺は、Eから一段だ。お前は、二段すっ飛ばしてる」
「あ、ほんとだ」リタは、急に、また嬉しそうな顔になった。「私のほうが、すごいじゃん」
「そういう話か、それは」
二人で、当てもなく、市場の通りを歩いた。
考えてみれば、ずいぶん、いろんなことがあった。気がつけば、この街に流れ着いて、わけも分からないまま冒険者の札を握って、大穴に潜って、銅貨を数えて、相棒ができて、格上の壁とぶつかって、それを越えた。一つ一つ、丁寧に思い出す気にはならないけど、ここまで来た、という手応えだけは、革袋の重みと、札の刻みと一緒に、手の中にある。
第二の人生で、ここまで来た。
市場の外れ、行きつけの安食堂で、ダグが、奥の卓に座っていた。
酒の椀を片手に、片肘をついて、いつもの顔だ。脇腹の布は、もう取れている。俺たちが近づくと、ちらりと目だけ上げた。
「ダグさん。聞いて。D。私たち、Dに上がったの」
リタが、勝手に向かいに腰を下ろして、札を、卓の上に、ぱちんと置いた。
ダグは、その刻みを、ちらりと見た。
「ふん。早かったな」
「早いでしょ。飛び級なんだから」
「飛び級ってのは、その分、周りの目が厳しくなるってことだ」ダグは、椀をあおった。「Dの中にゃ、何年もかけてそこまで来たやつもいる。お前らは、事件で一足飛びだ。実力が伴ってねえと、すぐ見透かされる。……まあ、お前らなら、心配はいらねえだろうがな」
持ち上げる言い方じゃなかった。最後の一言を、ぼそりと、付け足しみたいに落としただけだ。けど、その「心配はいらねえ」が、ダグの口から出るのは、初めてだった。
「で」ダグは、椀を置いて、俺のほうを見た。「Dに上がって、どうする」
「どう、というと」
「依頼の格が上がる。潜れる階層も、下りられる」ダグは、卓の上を、指で軽く叩いた。「大穴の、お前らがうろついてた中層。あの、もっと下だ。Dなら、もう一段、縄を越えられる」
「ダグさんは、下りないんですか」リタが、訊いた。
「俺は、中層止まりだ」ダグは、こともなげに言った。「下りねえ。下りたくても、下りられねえって言ったほうが、近いかもしれねえな」
「下りられない?」
「あの大穴の、本当に深いほうにゃ、俺らみたいなのが踏み込んで、まともに帰ってこれる場所じゃねえ。何が出るのか、はっきり知ってるやつも、そう多かねえ。聞いた話と、噂ばっかりだ」ダグは、椀の酒を、ゆっくり揺らした。「強いやつが出る。いい素材が出る。だが、戻ってこねえやつのほうが、多い。その辺は、潜るときに、自分で見極めることだ」
ダグは、それから、酒で口を湿らせて、少し、世間話の調子になった。
「最近は、街道の口が増えて、よそから来る連中も多い」ダグは、店の入口のほうへ、顎をしゃくった。「西の宿場で、商人が言ってたぜ。北のほうの、国境のあたりが、ちっと、きな臭いってな」
「きな臭い、というと」
「さあな。俺が聞いたのは、帝国のほうが、また、辺境の関所で、通行を渋りだしたとか、その程度だ」ダグは、興味もなさそうに、肩をすくめた。「商人の、いつもの愚痴かもしれん。あっちの王様と、こっちの王様が、仲がいいって話は、昔から聞かねえからな。荷の値が上がりゃ、俺らには関係ねえとも言えねえが……まあ、この街にいる分にゃ、当分は、遠い話だ」
帝国。
その響きは、俺の中で、まだ、はっきりした形を結ばなかった。この街と、大穴と、街道の、その向こう。地図の端のほう。そういう、ぼんやりした遠さとして、頭の隅に、ことんと落ちた。
「遠い話ついでに、もう一つ、面白いのを聞いたぞ」
ダグが、椀を傾けながら、続けた。
「北の宿場の語り部が、酒の肴に喋ってたって話だ。ずっと北の、人の住まねえ果てに、昔、人ならざる連中の国があったとか、ないとか。角の生えた、長生きの種族だとよ。大昔に、人間と、でかい戦をやったって伝承が、あっちの土地にゃ、残ってるらしい」
「人ならざる」
「魔族、とか言うらしいぜ。魔物とは、別だ。あっちは、ただの獣だが、そっちは、知恵のある連中だってな」ダグは、ふん、と笑った。「まあ、語り部の、こけおどしだろう。何百年も前の、おとぎ話だ。今どき、見たってやつは、いやしねえ。北の果てなんざ、行くやつもいねえしな」
リタが、椀の汁物をすすりながら、目を丸くしていた。
「人魔大戦、ってやつ? 私も、村のばあちゃんが、寝物語に言ってた気がする。北の果てには、悪いもんが封じられてる、外に出るんじゃないよ、って」
「子供を脅すには、ちょうどいい話さ」ダグは、椀を空けた。「俺らには、関わりのねえ話だ。それより、お前ら、Dになったんなら、まずは、その格に見合った口を、地道にこなすことだな。飛び級は、ボロが出やすい。欲かいて、いきなり深いほうに下りて死ぬんじゃねえぞ」
「欲かくな、ですか」
「いつもの、それだ」ダグは、立ち上がった。「下りるなら、一段ずつだ。困ったら、ギルドに札を出しときゃ、誰か来る。……まあ、俺は中層までしか行かねえが、そこまでなら、いつでも背中は預けられる」
それだけ言って、ダグは、軽く手を上げて、店を出ていった。
味方ではある。けど、一緒に下りる相手じゃない。先まで行く道は、自分たちで見つけろ、と、背中で言っているみたいな、いつもの距離だった。
外は、すっかり、夜の気配だった。
大通りの露店が、ぽつぽつと灯りを点け始めている。俺とリタは、なんとなく、そのまま、街の外れのほうへ足を向けた。
「深いほう、行きたいね」リタが、灯りを見ながら、言った。「Dになったんだもん。もう一段、下りられるんでしょ」
「下りられる。けど、その下の、もっと下は、ダグさんでも、聞いた話と噂ばっかりだ」俺は言った。「強いやつが出て、いい素材が出る。集める楽しみは、その分、増える。けど、戻ってこないやつも、多い」
「悠さんなら、戻ってこれるよ」
「お前を連れて、二人ともだ。一人で死ぬのは、嫌だからな」
リタは、ちょっと笑って、それから、北の方角のほうを、見るともなく見た。
「帝国とか、魔族とか。さっきの、ダグさんの話」
「ああ」
「遠いよね」
「遠いな」俺は言った。「地図の端の、もっと向こうだ。今の俺たちには、関わりのない話だよ」
本当に、そうだった。
火を化けさせて、格上の頭目を、二人で、やっと落とした。Dにも上がった。けど、それで、世界の天井に手が届いたわけじゃ、まるでない。大穴は、まだ、底が見えない。その向こうには、国があって、もっと向こうには、おとぎ話の果てがある。俺たちが立っているのは、その、ずいぶん手前だ。
上は、まだまだ、果てしなく高い。
不思議と、それが、怖くはなかった。
「ねえ、悠さん」
リタが、横から、俺の顔を覗き込んだ。
「また、考え事してる」
「考えてた」
「何を」
「世界、まだ広いなって」
リタは、少しのあいだ、こっちを見ていた。それから、ふっと、笑った。気の強い目に、いつもの張りが、戻っている。
「広いほうが、いいじゃん」リタは、前を向いて、歩き出した。「集めるとこ、いっぱいあるってことでしょ。悠さん、好きでしょ、そういうの」
「好きだな」
「私も、まだ、もっと強くなれるってことだし」リタは、新しい札を、もう一度、ぎゅっと握った。「F以外になったの、初めてだったけど。これ、たぶん、まだ、途中だよね」
「途中だ。Dの上に、まだ、何段もある」
もっと深い階層。地図の端の、国と国の、きな臭い話。その、もっと向こうの、おとぎ話の果ての、魔族とやら。世界は、まだ、ずいぶん広い。
今は、何一つ、はっきりとは届かない。だけど、集めて、育てて、二人で行けば、いつか、その遠さの一つくらいは、近くなるのかもしれない。届かなかった火が、届いたみたいに。
「行くか」
俺は、言った。
「行こう」
リタが、即答した。
夜の通りの灯りの先、まだ見ていない街の外のほうへ、二人で歩き出した。Dの札が、二枚、それぞれの手の中で、夜風に、ちょっと冷たい。




