第3話 冒険者登録と、同期の剣士
二階建ての石造りの建物を、俺は通りの向かいから見上げていた。
壁に、剣と盾を組み合わせた紋章の看板が掛かっている。文字も併記されていて、冒険者ギルド ラドリス支部、と読めた。昨日、衛兵が言っていたやつだ。登録すれば仕事がもらえるらしい。それ以上の仕組みは、正直よく分かっていない。
扉の前で、革鎧の男が二人、笑いながら何か話して出ていく。腰に剣を下げ、背に弓を負った女が入れ違いに入っていった。明らかに俺とは違う種類の人間だ。よれよれのスーツに泥のはねた革靴で、その輪に混ざりに行く。考えるとちょっと足が重い。
とはいえ、ここで突っ立っていても腹は膨れない。野宿二日目を済ませた腹が、さっきから低く鳴いている。
扉に手をかける前に、視界の隅の枠を、念のためもう一度確かめた。
『引ける回数:1』
ここに来る道すがら、すでに一回引いてあった。寝たら戻る。昨日それで確かめたばかりだから、今朝は数字を見ても二度見しなかった。0が1に戻っている。それだけのことだ。慣れというのは早い。
引いて出たのは、これだ。
『遠見 Lv1(N)』
遠見。読んで字のごとくなら、遠くがよく見える系だろう。試しに通りの奥の、看板の小さな文字に意識を向けてみたら、確かに、すっと寄って見えた。離れた壁の継ぎ目の苔まで、はっきり分かる。
昨日引いた鋭敏感覚は、何かが近づいたのを先に察知するやつだった。あれと遠見を合わせれば、危ないものを、見えて、気配でも掴める。索敵の手が増えた。森に出るなら、これがそのまま役に立つ。
引ける回数はまた0に戻ったから、続きは明日だ。
これで、俺の中の力は五つになった。
扉を、押した。
中は、思っていたより広かった。
正面に木の長い受付台。左の壁には板が一面に貼られていて、紙が何枚もびっしり留めてある。あれが仕事の貼り出しか。右の奥には酒場兼食堂らしき一角があって、まだ昼前なのに何人かが木の椀を傾けている。汁の匂いが流れてきて、空っぽの腹がまたぐうと鳴った。
受付台の向こうに、中年の女が一人立っていた。茶色の髪をきっちり引っ詰めて結い、麻のシャツの上に革のエプロンをつけている。何人もの相手をさばいてきた、という顔つきだ。
俺は腹を決めて、台の前に立った。
「登録、したいんですけど。冒険者の」
「はいよ」
女は手元の作業から顔を上げ、俺を上から下まで一度眺めた。よれよれの服にも、片眉を上げる程度の反応で、それ以上は何も言わない。
「初めてだね。Fランクからになるよ。それでいいかい」
「はい、お願いします」
「字は書けるかい」
「書けます」
「上等。書けない子も多いからね、それだけで手間が省ける」
女は台の引き出しから一枚の紙を出し、こちらに滑らせた。鵞鳥の羽のペンと、小さな瓶のインクも添えてくる。
「名前、ここ。出身は、まあ余所からなら余所からでいいよ。細かく書きたくないなら書かなくていい」
名前の欄に、田島悠、と書いた。出身は迷ったが、結局「遠方」とだけ書いておいた。嘘ではない。これ以上ないくらい遠方だ。
「次。持ってるスキル、口で言えるのを一つ二つ。全部言う必要はないよ。一つでも持ってりゃ食い扶持にはなるし、無くたって体が動けばF仕事はできる」
来た、と思った。
ここは慎重にいくべきところだ。火球が撃てる、という事実は、たぶん俺がいま持っている中で一番強い札だ。だからこそ、初対面の相手にいきなり並べる気にはなれなかった。何ができるかを全部見せて回るほど、この世界に慣れてもいない。
迷ったのは一瞬で、俺は二つだけ口にした。
「鑑定と、鋭敏感覚です」
「ほう」
女の手が、紙に何か書きつける途中で、わずかに止まった。
「鑑定持ちかい。そりゃ重宝するよ。買取で偽物を掴まされなくなるし、依頼で拾ってきた物の値も自分で見当がつく。あんた、それ持ってて文無しなのかい」
「……はい。お恥ずかしながら」
「まあいいさ。持ってる力と、財布の中身は別の話だ。よくあるよ」
馬鹿にする調子ではなかった。むしろ、鑑定と聞いて少し見直したような、それでいて深く詮索もしない、慣れた手つきで紙を埋めていく。
文無しの怪しい余所者だと、邪険にされるんじゃないかと、内心ほんの少し身構えていた。けど、女の関心はもう次の手続きに移っていて、俺がどういう人間かなんてことには、はなから興味がなさそうだった。次の客が一人来た、それを処理している。それだけだ。気が抜けると同時に、なんだか少し、ありがたかった。
「さて、と」
女はペンを置いて、俺をまっすぐ見た。
「登録の控え料が、銅貨五枚いる。証を作る手間賃みたいなもんだ。今、出せるかい」
出せない。銅貨は一枚も持っていない。
言いよどんだ俺の様子で、女のほうが先に察したらしい。小さく息を吐いて、台に肘をついた。
「ああ、その顔だね。出せないと」
「すみません。本当に、一枚も」
「正直なのは助かるよ。見栄張って後でばっくれられるよりは、よっぽどいい」
女は少し考えるそぶりを見せてから、紙の隅に何か印をつけた。
「いいさ。控え料は、あんたが最初に受けた依頼の報酬から引いとく。先払いできない子に、いちいち門前払いしてたら商売にならないからね。そういう運用がある。ただし――踏み倒したら、次はないよ。分かるね」
「分かります。最初の報酬から、必ず」
「うん。それでいい」
女は台の下から、薄い銅の小さな札を取り出して、こちらに置いた。手のひらに収まるくらいの大きさで、表に番号と、紋章の焼き印が押してある。仮通行札よりも、ひと回り上等な手触りだ。
「冒険者証だ。失くしたら再発行に金がかかる。門でも宿でもこれが身分証になるから、肌身離さず持っときな」
俺はそれを受け取って、握った。
登録できた。これで、明日からこの街で稼げる足場ができた。胸の中で、ほんの少しだけ、強張りがほどける。
ただ、握った札は冷たくて、軽い。これ自体は一銭にもならない。控え料は前借りで、つまり俺はさっきより五枚分、借りができたことになる。財布の中身は相変わらず、ゼロから始まってすらいない。
稼げる場所に立った安心と、まだ一文無しだという現実が、同時に手のひらの上にあった。
「依頼は、あの板から選んで剥がして持っといで。Fでも受けられるのは、印がついてるやつだけだ。明日からのつもりなら、今のうちに見ときな」
女が顎で左の壁を示す。俺は礼を言って、その板の前に移った。
近づくと、紙の量に少し気圧された。討伐、採取、護衛、雑用。文字が読めるのが本当にありがたい。下のほうに、Fと書かれた印のついた紙が固まって貼ってある。新人向けはここらしい。
街壁の外の薬草採取。指定の株を、何株か。報酬は控えめだが、危険も少なそうだ。明日の初仕事には、これくらいが手頃に思えた。
その紙に手を伸ばそうとした、ちょうどそのとき。
「あ、それ」
横から声がした。
見ると、すぐ隣に、女の子が立っていた。年は、十六か十七といったところか。背は俺の肩くらい。簡素な革の胸当てに、腰に少し使い込んだ短剣を下げている。栗色の髪を後ろで一つに束ねていて、目に、はっきりとした気の強さがあった。
その子は、俺が伸ばしかけた手と、薬草採取の紙とを見比べて、少しばつが悪そうに口を尖らせた。
「……ううん。なんでもない。先に見てたのは、そっちだもんね」
「いや。あんたが先に目をつけてたなら」
「先には見てたけど、まだ取ってない。だから先に手が伸びたほうが先。それが筋でしょ」
言いながら、本人はちらちらと紙を気にしている。譲ったはずなのに、目が全然譲っていない。
なんというか、まっすぐな子だった。欲しいなら欲しいと顔に書いてあるくせに、横入りはしたくない、という線だけはきっちり守ろうとしている。俺は思わず手を引っ込めた。
「じゃあ、俺は別のを探すよ。あんたが先に見てたんだ」
そう言いかけて、ふと、板をもう一度見た。同じ薬草採取の紙が、何枚か重ねて貼ってある。誰でもできる定番の口なんだろう。
「……っていうか、これ何枚もあるな。取り合うようなもんじゃなかった」
女の子は、貼られた紙の束に目をやって、ばつが悪そうに口を尖らせた。
「……ほんとだ。私が勝手に身構えただけか」
それから、肩の力を抜いて、けど、と何かを振り払うように首を振る。
「やっぱり私、採取はいい。地味だし。せっかく剣をやってるんだから、もうちょっと体を動かす依頼を探す。あんたが採るなら、どうぞ」
欲しがって手を伸ばしたくせに、最後は剣士の意地のほうを取った。まっすぐな子だ。
俺は一枚、紙を剥がした。
「悪いな。助かるよ」
「べつに。貸しを作ったつもりはないから」
つんとした言い方だったけど、嫌な感じはしなかった。
「私はリタ。あんたも今日登録? その服、見ない顔だし」
「田島悠。悠でいい。今さっき登録したばっかりだ」
「悠さん、ね」
リタは俺の名を確かめるように一度繰り返して、頷いた。
「私も三日前にFになったばっかり。同期みたいなもんだね」
話している間に、俺はなんとなく、リタに鑑定を向けてみていた。
石を見ても色水を見ても答えが返ってきたやつだ。じゃあ人を見たらどうなるんだろうという、半分は好奇心だった。
意識を向けると、ちゃんと返ってきた。
剣の腕。これは生まれつきの力じゃなく、振り込んで身につけた技のほうだ。それなりに積んである。それと、体を強くする系のスキルを、少し。生まれ持ったやつが、控えめに乗っている。
なるほど、と腹のうちで思う。前に出て剣で戦う、前衛のタイプだ。腕は悪くない。ただ、飛び抜けて光っているという感じでもなかった。地道に積んできたんだろうな、というのが、数字でなく手触りで伝わってくる。
火を飛ばす俺と、剣で前に出るこの子。
役割が、きれいに分かれている。前で受けてくれる相手がいるなら、俺は後ろから撃てる。噛み合いそうだ――と、そこまで考えて、口にはしなかった。出会って一分の相手に、いきなり組もうと持ちかけるのは、いくらなんでも気が早い。それに、人を勝手に鑑定で値踏みして、それを当人に告げて回るのは、なんだか趣味が悪い気がした。
俺は気づいたことを、ひとまず腹の中にしまった。
「悠さん、どうかした? じっと見て」
「いや。剣、慣れてそうだなと思って」
「分かる?」リタの目が、ぱっと明るくなった。「これでも結構やってるんだから。村にいた頃から、毎朝振ってた。……まだ、これで食えてるってほどじゃないけどね」
最後の一言だけ、少し声が小さくなった。でもすぐに、自分で振り払うように顔を上げる。
「採取くらいで死にはしないだろうけど、油断はしないことだよ。新人がいちばん簡単に死ぬんだから。……って、これも受付の受け売りなんだけどね」
「先輩面するなあ。三日先輩のくせに」
「三日でも先輩は先輩でしょ」
言い返してくる声に、悪気は微塵もなかった。負けず嫌いなだけだ。受付の女のあの慣れた淡白さとも、衛兵の業務的な短さとも全然違う、まだ自分のことで手一杯な、けど前を向いている若い声だった。
その勢いに、俺はちょっと笑ってしまった。久しぶりに、人と話して気が楽になった気がする。
リタは「じゃ、私はこっちの貼り出しも見ていくから」と、もう別の板のほうへ歩きかけていた。それから一度だけ振り返って、「無理だけはしないようにね」と、ぶっきらぼうに付け足していく。世話焼きなのか、ただの負けず嫌いなのか、よく分からない子だ。
受付に紙を見せると、女は明日の朝の段取りを手早く教えてくれた。街壁の外の、森の浅いあたり。指定の株は、葉の裏が銀色がかった小さなやつ。半日陰の、湿りすぎない地面に生える。
頭の中に、その株の像が、なぜかもう置かれていた。言語と一緒に、この街で当たり前とされる知識が、最初から入っているらしい。便利なのか不気味なのか、判断がつかない。
ともあれ、明日の仕事は決まった。
外に出ると、日はまだ高かった。今夜もまた、屋根のない夜になる。腹も減ったままだ。それは何も変わっていない。
それでも、握った冒険者証の重みと、明日初めて自分の手で銅貨を稼ぐという当てが、足元を少しだけ確かにしていた。
半日先輩を気取る、栗色の髪の同期の顔が、なぜか頭に残っていた。この街に放り出されてから、見知らぬ誰かとまともに名前を交わしたのは、あれが初めてだった。気になる奴がひとりできた、それだけのことが、思っていたより悪くない。




