第17話 差し向けられた刃と、守りたいもの
路地に入った瞬間、足が、勝手に止まった。
なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。買取を終えて、安宿への近道に、いつもの裏路地を選んだだけだ。両側に建物が迫って、昼でも薄暗い。それだけの、なんでもない道だ。なのに、その薄暗がりへ一歩踏み込もうとした足が、つま先の手前で勝手に固まって、動かなくなった。背中の毛が逆立つより、ずっと前だった。理屈じゃない。ただ、ここから先は危ない、と、頭のどこかが、声より先に言っていた。
「悠さん? どうし――」
リタが言いかけた、その上を、何かが横切った。
路地の左の建物の影から、黒いものが飛んできて、俺が一歩踏み込んでいたはずの場所の壁に、突き立った。短い矢だ。手投げの、太い矢。さっきまで俺の喉があった高さに、ぶるぶると震えながら、刺さっている。あと半歩、足を出していたら、あれは俺の喉に刺さっていた。
「リタ、下がれ!」
考える前に、声が出た。リタの腕を掴んで、来た道のほうへ引き戻す。路地の奥、薄暗がりの中で、影が動いた。一つじゃない。気配感知が、はっきり拾う。前の路地に二つ。そして、後ろ――今、俺たちが戻ろうとした表通りの口にも、一つ。挟まれている。
誘い込まれた、と気づいた。
いつもの近道。何度も通った道。だから、警戒もせずに入る。そこを狙って、待ち伏せていた。さっきの一矢は、外したんじゃない。俺が足を止めなければ、当たっていた。
「囲まれてる。前に二人、後ろに一人」
リタの短剣が、もう鞘を払っていた。背中合わせに近い形で、俺の後ろに体を寄せる。組んでからは、こういうとき、言わなくても背中の守りに回ってくれる。だが、こいつは怯えてはいない。息は速いが、足は地に着いている。
「悠さん。あの矢、なんで避けられたの」
「分からん。あとだ」
本当に、分からなかった。気配は拾っていた。だが、矢が飛んでくる前に、俺は足を止めていた。気配感知は、誰がどこにいるかを読む。けど、これから飛んでくる一矢を、当たる前に教えてはくれない。あれは、別のものだ。今朝、引いた――いや、それも、あとだ。
路地の奥から、男が一人、ゆっくり歩いて出てきた。
革の上着。腰に剣。歩き方が、これまで縛り上げた野盗どもと、まるで違った。重心が低く、無駄がない。剣の柄に手をかけてもいないのに、いつでも抜ける構えだということが、立ち姿で分かる。冒険者くずれか、雇われの腕利きか。とにかく、これまでの相手とは、格が違う。
「嗅ぎ回るのを、やめときゃよかったんだ」
男は、面倒くさそうに言った。怒鳴りもしない。脅しつける気もない。ただ、決まったことを片付けに来た、という顔だった。
「魔石の値を、しつこく数えてたそうだな。新入りが、首を突っ込む話じゃねえ。何度か、肩を叩かれたはずだ」
見られていた。柱の陰の、あの男の視線。あれは、ただ見ていたんじゃない。値踏みしていた。こいつを放っておいていいか、消したほうがいいか。それで、消す側に決まった。
「肩を叩かれた覚えはないな。いきなり矢を投げてくるのを、肩を叩くとは言わない」
「軽口を叩く余裕があるうちに、言っとくぞ」男は、ようやく剣の柄に手をかけた。「お前一人なら、痛い目で済ませてやってもいい。だが、連れがいるとな。見られた以上、二人とも始末しろと、言われてる」
言われてる。この前、街道で縛った野盗と、同じ言い方だった。こいつも、誰かに言われて動いている。だが、野盗とは格が違う。誰かは、こんな腕利きを、わざわざ俺たち二人のために寄越した。それだけ、俺たちは邪魔だと思われている。
始末しろ、と言われた瞬間、リタの息が、後ろで一つ、詰まった。
その音で、俺の中の、何かが切り替わった。
市場の歪みがどうとか、相場をいじる誰かがどうとか――そんなのは、ただの好奇心だった。倉庫で帳簿の数字が合わないのを、放っておけない、あの癖だ。引っかかったから、嗅いだ。それだけだ。なのに、その俺の好奇心に、リタを巻き込んだ。こいつは、村から出てきて、剣の腕で身を立てようとしているだけの、ただの新人だ。俺が魔石の値をしつこく数えなければ、こんな路地で、刃物を向けられることもなかった。
守らなきゃならない、と思った。守りたい、と。それは、依頼の報酬とも、ガチャで何を引くかとも、何の関係もない、もっと単純な気持ちだった。
「リタ。後ろの一人、任せていいか」
「……うん」
「無理はするな。武器を落とさせれば、それでいい。深追いするな」
「悠さんも」
短く返して、リタが後ろの口へ向き直る。表通りの口に立った一人は、たぶん、退路を塞ぐための見張りだ。剣を抜いたきり、踏み込んでこない。リタなら、いい。あいつは、もう、ただ守られるだけの新人じゃない。
問題は、目の前の、この男だ。
男が、地面を蹴った。
速い。野盗の踏み込みとは、比べ物にならない。剣が、下から斜めに跳ね上がってくる。来る、と気配感知が読むより、ほんの先に、俺の足が横へ動いていた。さっきの矢のときと、同じだ。読むより先に、危ない方向から体が逃げている。俊足で、半歩、外へ。刃が、俺の革の胸当ての表を、浅く擦った。布が裂ける感触。あと指一本ぶん深ければ、肉まで届いていた。
「ほう。避けるか」
男が、低く言った。手応えのなかった剣を、すぐに引き戻す。野盗のように、振り終わりで隙だらけにならない。戻しが、速い。
まずいな、と思った。
火球を撃つ間合いじゃない。この近さで撃てば、俺ごと巻き込む。礫を投げる隙も、向こうのほうが早い。気配で起こりは読める。さっきの矢のように、危ない方向も、なぜか先に分かる。だが、それで避けられても、こっちから当てる手が、見つからない。一発、また一発と、剣が来る。そのたびに、俊足で、紙一重で外す。外せている。けど、外しているだけだ。じわじわと、壁際に追い詰められていく。
これが、手練れか。
大穴の格上は、でかくて、重くて、遅かった。あいつらは、起こりが読めれば、隙間に入れた。だが、この男は、でかくも、重くもない。速くて、無駄がなくて、隙を見せない。気配感知も、危ない予感も、避けるためには働く。けど、勝つための隙は、向こうが、なかなか作らない。
「悠さん!」
後ろで、リタの声。だが、振り向く余裕はなかった。見張りの一人と、リタは、もうやり合っている。短剣のぶつかる音。リタは、押されてはいない。だが、助けに行ける状況でもない。二人とも、自分の相手で、手一杯だ。
壁が、背中に当たった。
追い詰められた。男が、これで仕留めると見て、踏み込みを一段、深くした。剣が、まっすぐ、俺の胴へ。逃げ場は、左右しかない。男も、それを読んでいる。左へ逃げれば、そっちへ刃を流す。右なら、右へ。手練れは、こっちの逃げる先を、先回りしている。
その瞬間、また、危ない、と来た。
左だ。左へ逃げるな、と頭のどこかが言う。理屈じゃない。気配でもない。ただ、左は死ぬ、と分かる。男の剣は胴へ来ているのに、なぜか、左のほうが危ない。考える前に、俺は右へ跳んだ。
左の壁の影から、二本目の太い矢が、突き出てきた。
俺が左へ逃げると見越して、影に潜んでいた一人が、そこへ矢を構えていた。男の剣で左へ追い込んで、矢で仕留める。二人がかりの、決め手だ。左へ跳んでいたら、串刺しだった。だが、矢は、誰もいない壁を貫いた。
今だ。
矢を放った一人は、外した直後、次の矢をつがえる手が、一拍、遅れる。剣の男も、決め手が外れて、わずかに、目線が矢のほうへ流れた。初めて、二人の間に、隙が空いた。気配で起こりが読めても作れなかった隙が、向こうの仕掛けが外れたことで、向こうから空いた。
手のひらに、熱を集めた。
剣の男じゃない。矢の一人だ。壁の影から半身を出した、無防備な肩口。そこへ、火球を放った。
ぼっ、と炎が膨れた。狭い路地で、火が壁に跳ね返って広がる。矢の一人が、肩を焼かれて、悲鳴を上げてのけぞった。麻の上着に火が移って、転げ回る。仕留めるための一発じゃない。一人を、戦いから引き剝がすための一発だ。これで、二人がかりが、崩れた。
「てめえ……!」
剣の男が、仲間が焼かれたのを見て、声を荒げた。初めて、冷静さが、揺らいだ。怒りで、踏み込みが、一段、大ぶりになる。さっきまでの、無駄のない剣じゃない。
だが、撃った直後の手のひらは、奥がじんと痺れて、次の熱は集まらない。火球は、そういうスキルだ。連発はできない。男は、それも知っているみたいに、痺れの空白を突いて、踏み込んでくる。
「リタ!」
俺が叫ぶより、半瞬、早かった。
見張りの一人を短剣の腹で打ち倒したリタが、もう、こっちへ走り込んでいた。火球を撃った直後、俺が次を撃てないことを、リタは、組んでからずっと、体で知っている。だから、その空白に、自分から入ってくる。
大ぶりになった男の剣が、俺へ来る。その内側へ、リタが滑り込んだ。大穴で、皮の硬いのを何度も割ってきた、あの踏み込みだ。村にいた頃から毎朝振ってきた剣が、男の剣の軌道を、横から弾いた。手練れの一撃を、真正面から受けたんじゃない。流した。リタの読みが、間に合った。
「悠さん、痺れ、抜けた!?」
「もうちょっとだ! 足、止めとけ!」
「分かってる!」
リタが、男の剣を、二度、三度と弾く。受けるたびに、後ろへ押される。手練れと、正面からやり合えば、リタが押されるのは、当たり前だ。だが、押されながらも、足は止めている。落とされていない。俺が次の熱を集めるまでの、ほんの数呼吸を、こいつが、削り取って稼いでいる。
守りたい、と思った相手に、いま、守られている。
手のひらに、熱が、戻った。
「リタ、離れろ!」
リタが、男の剣を最後に一度、思いきり弾いて、横へ跳んだ。剣を弾かれて、体勢を崩した男の、胴ががら空きになる。その一瞬。
手のひらの熱を、礫に乗せて、男の利き腕の肘へ、叩き込んだ。
火球じゃない。痺れから戻ったばかりの一発は、礫だ。狭い路地で人を焼き殺すには、火球は重すぎる。嬲るためでも、殺すためでもない。剣を、握れなくすればいい。礫が、肘の関節を、横から砕いた。
ごっ、と鈍い音。男の手から、剣が落ちた。
「ぐっ……!」
手練れが、初めて、苦痛の声を漏らした。砕けた肘を押さえて、よろめく。さっきまでの、無駄のない立ち姿が、崩れていた。剣を拾おうと、左手を伸ばす。その手の甲に、もう一発、礫を落とした。男が、左手を引っ込めて、後ろへ下がる。
「動くな」
俺は、手のひらに次の熱を集めながら、言った。火球の痺れは抜けている。次は、撃てる。男にも、それが分かったはずだ。
「次は、火だ。さっきの仲間と、同じになる。肘を砕かれただけで済んだのが、運がよかったと思え」
男は、砕けた肘を押さえたまま、俺を睨んだ。けど、その目から、さっきの余裕が、消えていた。剣を握れない手練れは、ただの、腕の砕けた男だ。肩を焼かれた一人は、路地の隅でうずくまって、火を消すのに必死だ。見張りの一人は、リタに武器を落とされて、もう逃げ腰だった。
二人がかりの決め手は、崩れた。
「お前ら、いったい、何なんだ」男が、絞り出すように言った。「魔石の値を数えてただけの、新入りじゃ……」
「新入りだよ。お前らが、見くびっただけだ」
俺は、男の落とした剣を、足で遠くへ蹴った。リタが、見張りの男を組み伏せて、こっちを見ている。深追いはしなかった。必要なだけ、押さえている。組んでからの俺たちは、それが、どこまでで十分か、分かっている。
逃げる気力の残っていた見張りと、肩を焼かれた一人は、結局、取り逃した。
手練れの男一人を、リタの縄で縛り上げて、衛兵の詰所まで引っ張っていった。肘の砕けた男は、もう抵抗しなかった。詰所で、衛兵は、縛られた男の顔を見て、眉を寄せた。
「こいつは、見覚えがある。前に、別件で挙げようとして、逃げられた口だ」衛兵は、男の腰の、空になった剣の鞘を検めた。「腕の立つのが、こんな路地で、新人二人に縛られたのか」
男は、何も喋らなかった。誰に雇われたかも、何のために俺たちを狙ったかも、口を割らない。手練れというのは、そういうものらしい。だが、衛兵は、男の身なりと得物から、こいつがただの野盗じゃないことを、すぐに見抜いた。
「賞金のかかった口かもしれん。ギルドに照会する。お前たち、明日、受付に寄れ。引き渡しの報酬が、いくらか出るだろう」衛兵は、淡々と言った。それから、少しだけ、声の調子を変えた。「だが、二人とも――こういうのに目をつけられるってのは、もう、ただの新人じゃ済まされてないってことだ。気をつけろ」
男の腰には、ほかに、革の小袋が一つ提げてあった。衛兵が中を検めると、銀貨が数枚、入っていた。手練れを雇うだけの金を、誰かが、出している。その手付けか、報酬の前金か。証拠の品として詰所が預かることになったが、街道で奪われた荷の代金が、こういう形で末端まで回っているんだと思うと、嫌な気分だった。
詰所を出て、宿への道を歩く頃には、もう、すっかり日が暮れていた。
リタは、しばらく黙っていた。さっきの戦いで、押されていた腕が、まだ、強張っているのかもしれない。胸当ての表が、男の剣で浅く裂けていた。俺のも、同じだ。明日、また革を当て直さなきゃならない。
「悠さん」
路地を抜けたあたりで、リタが、口を開いた。
「あれ、私たちを、本気で消そうとしてた」
「ああ」
「魔石の値段を数えてただけで?」
「数えてただけで、邪魔になったんだ。それだけ、向こうは、痛いところを突かれてるってことだろうな」
言いながら、嫌な確かさが、足元から這い上がってきた。あの男は、たまたま俺たちに絡んできた野盗じゃない。誰かが、雇って、寄越した。それも、安宿暮らしの新人とは、釣り合わないような、腕利きを。銀貨数枚を握らせて、二人とも始末しろ、と。市場の歪みに気づいた程度の新人を、ここまでして消しにかかる。それは、向こうが守っている儲けが、それだけ、でかいということだ。
それに、リタを、巻き込んだ。
俺が好奇心で嗅ぎ回らなければ、こいつは、こんな刃物を向けられることもなかった。逃げて、知らないふりをして、それで向こうがリタまで見逃してくれるなら、そうする。だが、向こうは、最初から「二人とも」と言った。逃げることが、リタを守ることにならないなら、逃げる意味は、ない。
「リタ」
「うん」
「巻き込んで、悪かった。俺が、しつこく嗅ぎ回ったせいだ」
リタは、少しの間、黙った。それから、ふん、と鼻を鳴らした。いつもの、負けず嫌いの音だった。
「私だって、街道のあれ、見てきた。一緒に縛った。今さら、悠さんだけのせいにしないでよ」リタは、こっちを見もせずに言った。「それに……あいつ、押し返せたんだよ、私。手練れだって、おじけづいた相手に。少しは、役に立ったでしょ」
「ああ。お前がいなきゃ、火球の二発目を撃つ前に、やられてた」
本当に、そうだった。あの痺れの空白を、リタが埋めてくれなければ、俺は、剣の届く間合いで、立ち往生していた。守りたいと思った相手に、戦いの真ん中で、命を拾われた。それは、これまでのリタの援護とは、何かが違っていた。
その夜、安宿の硬い寝床で、天井を見上げながら、俺は、考えていた。
あの路地で、矢を避けられたのも、左へ逃げるなと分かったのも、気配感知じゃない。あれは、これから来る危ないものを、先に教えてくれる、別の働きだった。今朝、引いたばかりの。窮地に追い込まれて初めて、それがちゃんと働いていたことに、気づいた。
『危険感知 Lv1(R)』
危険を、前もって察する。当たる矢の高さで足が止まり、逃げてはいけない方向が分かる。読むんじゃない。来る前に、危ない、と分かる。気配感知が「どこに誰がいるか」を教えるのに対して、こっちは「これから何が来るか」を教える。今日、これがなければ、最初の一矢で、俺は喉を貫かれて終わっていた。
ありがたい力だ。だが、万能じゃないことも、今日、分かった。危ないと分かっても、それで勝てるわけじゃない。あの手練れ相手に、避け続けることはできても、こっちから当てる隙は、向こうの仕掛けが外れるまで、見つからなかった。命を拾う力ではあっても、勝たせてくれる力じゃない。
寝床の隣の部屋から、リタの寝息が、薄い壁越しに聞こえてくる。
明日、受付に寄れば、引き渡しの報酬が、いくらか出る。手練れを縛った手柄だ。だが、報酬をもらって、それで終わる話じゃないことを、俺は、もう知っていた。
あいつらは、本気だった。
たまたま絡んできた野盗じゃない。誰かが、金を出して、腕利きを雇って、俺たちを消しにかかった。市場の歪みに気づいただけの新人を、二人とも始末しろと、命じるほどに。今日は、凌いだ。だが、向こうは、一度や二度しくじったくらいで、手を引くようには見えなかった。今日の手練れは、たぶん、向こうにとっては、手駒の一つにすぎない。次は、もっと多くか、もっと上を、寄越してくる。
あいつらは、本気で、俺とリタを、潰しに来る。
壁の向こうのリタの寝息を聞きながら、俺は、暗い天井を見上げていた。




