第13話 強化付与と、二人で越える
受付の壁に貼ってあった紙を、リタは爪の先で、こつ、と叩いた。
「ほら。これ」
Dランク解禁区画、と上に書いてある。その下に細かい字で、推奨ランクと注意書き。Dランク以上、と。俺もリタも、まだそこには手が届かない。Eの俺と、Fのこいつでは、この札を受付に持っていっても、たぶん受理されない。だから二人で見ているのは、その一枚下の紙だ。長を倒したあと、ぽっかり空いた一段深い区画。そこに、最近、別種の個体が降りてきている、と。間引きが要る、と。
「Dじゃなくて悪いけど」リタは、隣の紙を指で押さえ直した。「こっちなら、私たちでも受けられる。長のいたとこより、もう一段下。今日くらいの稼ぎなら――」
「重いぞ、それ」
「分かってる。だから二人で行くんでしょ」
言い方に、迷いがない。昨日の梯子の前で、奥を見上げて「二人なら行けるんじゃない」と言ったときの目のままだ。受付の女が、台の向こうから、慣れた目でこっちを見た。
「その区画かい。新顔の別種が出てるって話だね。皮の硬いのが」
「皮の硬いの」
「鎧みたいなのを背負ってる。剣が滑るって、戻ってきた連中がぼやいてた。無理だと思ったら、深追いしないことだよ」
受付は依頼書をこっちに寄越しながら、最後だけ少し声を落とした。皮肉の混じった、いつもの調子だ。リタは紙を受け取って、懐に押し込んだ。皮の硬いの、と小さく繰り返している。
大穴を降りて、長のいた区画を抜け、その下へ。
ここまでは、もう何度も来た道だ。気配感知を前へ広げる。長を倒してから群れは目に見えて減ったが、その分、奥から別のものが上がってきている。前方、通路の膨らんだあたりに、これまで読んだことのない手応えの気配が一つ。動きが鈍い。重い。固まっている群れとは、感触が違う。
「リタ。前のと違う。一匹で、でかい」
「皮の硬いのって、これか」
角を回ると、そいつが土を掘り返していた。ゴブリンより一回り大きい。背に、岩を貼りつけたような甲が幾重にも乗っている。受付の言ったとおりだ。剣が滑る、というのが、ひと目で分かる背中だった。
いつもの段取りなら、固まりに火球を放り込んで、抜けてきたやつをリタが斬る。けど、相手は一匹で、群れじゃない。火を入れる「固まり」がない。俺は手のひらに熱を集めかけて、やめた。一匹に火球を一発撃って、それで仕留めきれなかったら、痺れているあいだ、こいつの相手はリタ一人になる。あの甲を相手に、それは危ない。
「先にあんたが当ててみてくれ。俺は、抜けたら火を入れる」
「分かった」
リタが半身で踏み込んだ。短剣が、甲の隙間――首と背の境を狙って入る。狙いはいい。けど、ぎ、と硬い音がして、刃が滑った。甲の縁を浅く裂いただけで、本体には届いていない。そいつが、ぶう、と低く唸って、太い腕を振り回した。リタが跳んで下がる。
「硬っ……! 剣が、入らない」
いつもなら通る一撃が、通らない。リタの声に、初めて、戸惑いがあった。
俺は後ろで、手のひらの熱を一度散らした。火球は今、撃つ場面じゃない。撃ったら痺れる。痺れたら、リタが一人でこの甲を相手取ることになる。
そのとき、頭の隅に放っておいたものが、ふいに引っかかった。
『強化付与 Lv1(R)』
昨日の夜、寝る前に一回引いて、出たやつだ。引いたときは、正直、何に使うのか分からなかった。火球や礫みたいに、撃てば何かが起きるわけじゃない。鑑定みたいに、見れば情報が出るわけでもない。付与、強化。読んでも、どこに、何を、という手応えがなかった。だから、何となく頭の隅に放っておいた。
それが、今、勝手に浮いてきた。
リタの剣に。
そう念じた瞬間、俺の手のひらから何かが、ほどけるように出ていった。それが、踏み込み直そうとしているリタの短剣の刃に、薄く乗る。光るわけでも、音がするわけでもない。ただ、刃の縁が、ほんの少し、空気を切るのを忘れたみたいに見えた。
「リタ、もう一回!」
「えっ」
「いいから、さっきと同じとこ!」
リタは、わけが分からないという顔をしながらも、体を開いて踏み込んだ。さっきと同じ、甲の隙間。同じ角度、同じ踏み込み。
今度は、滑らなかった。
ぐ、と刃が甲の縁を割って、その奥へ入った。さっき止まったところより、はっきり深い。そいつが、初めて痛みらしい声を上げて、のけぞる。
「――通った!」
リタの声が、裏返った。
驚いていたのは、たぶん俺も同じだ。何が起きたのか、撃った本人がよく分かっていなかった。けど、結果は目の前にある。さっき滑った刃が、今は甲を割った。違うのは、俺が刃に乗せた、あの薄いものだけだ。
「悠さん、今、何した!?」
「分からん。でも、あんたの剣に、何か乗せた。それで通った」
「乗せたって、何を!」
「だから、分からないって言ってるだろ。もう一回いくぞ、続いてる間に!」
付与した感触は、消えていない。けど、ずっと残るわけでもなさそうだった。手のひらの奥に、火球とは違う種類の、じわっとした重さがある。これを長く保つのは、たぶんできない。だから、効いている今のうちだ。
「リタ、あいつが腕を振り上げたら、下が空く。そこに、さっきの一撃をもう一発」
「分かってる!」
今度のリタは、迷わなかった。一度通った手応えが、体に残っているんだろう。甲の重い腕が振り上がって、胴の下が無防備になった瞬間、リタが滑り込む。強化の乗った刃が、甲の薄い腹側へ、根元まで入った。そいつが、どう、と前のめりに崩れる。土煙が上がった。
俺は、火球を一発も撃っていない。
崩れたそいつの背を、リタが肩で息をしながら見下ろしている。短剣の刃に、まだ薄く、あの何かが残っていた。けど、見ているうちに、それは溶けるみたいに消えていった。やっぱり、長くは保たない。乗せている間だけ、剣が化ける。それが切れたら、ただの短剣に戻る。
「これ……何なの。私の剣、急にこんなに」
「俺が、強くした。たぶん、そういうスキルを引いてた」
「強くしたって、剣を!?」
リタは、自分の短剣を、まじまじと見た。刃を陽に透かすみたいに目を細めて、それから、こっちを見る。気の強い目が、いつもより明らかに大きく開いていた。
「……なにそれ。私、ずっと、この剣が通らなくて。何度村で振ったって、硬いのには弱くて。それが、悠さんが触ったら、急に通るって」
「俺は触ってない。乗せただけだ。斬ったのはあんただ」
「斬ったのは私」
リタは、その言葉を、口の中で確かめるように繰り返した。それから、ふ、と笑った。さっき「私の剣が」と言いかけたのを、自分で「斬ったのは私」に直していた。
「そうだよ。斬ったのは、私だ」
そのあとの遭遇は、初めから手順を決めて当たった。
でかいのが出たら、リタが踏み込む前に、俺が刃へ乗せる。乗せられるのは、たぶん一度に一本ぶんだ。火球を撃った直後みたいに、続けて何度も乗せると、手のひらの奥のじわっとしたのが、すぐ底をつく。だから、ここぞ、というときに乗せる。乗せたら、あとはリタの腕だ。間合いも、踏み込みも、首の隙間を狙う角度も、全部こいつが村で何千回も振ってきたものだ。俺がやるのは、その一撃が滑らないように、最後のひと押しを足すことだけ。
群れが混じって出てきたときは、これまでどおりにした。固まりに火球を入れて、痺れているあいだの前を、リタが塞ぐ。皮の硬いのが交じっていたら、そいつにだけ、リタの剣へ乗せる。役割が、前より一本、増えた。俺は撃つだけじゃなく、こいつを化けさせる手も持った。
「悠さん、次、左の硬いのに乗せて」
「分かった。踏み込む前に言え」
「言ってる! ほら、今!」
言われた瞬間に乗せる。タイミングがずれると、効いていない刃で踏み込むことになる。だから、こいつの呼吸を後ろで読んで、踏み込む半瞬前に乗せる。気配感知で、こいつが体を開きかけるのが分かる。そこへ合わせる。最初はずれた。三度目くらいから、噛み合うようになった。
一段下の区画は、長のいたところより、確かに重かった。一匹一匹が硬くて、火球一発では沈まないやつもいた。一人で来ていたら、俺はたぶん、撃って痺れて、その隙に下がるのを繰り返して、それで終わりだった。深くは行けなかった。けど、今日は、その硬いのを、リタの剣が一つずつ割っていく。俺は後ろで、どこに何がいて、どっちを向いているかを読んで、ここぞの刃に乗せる。
被弾は、ほとんどなかった。
梯子の手前まで戻ったとき、上から、聞き慣れた重い足音が降りてきた。ダグだった。皮鎧の胸板を鳴らして、こっちの足元の布袋を、ちらりと見る。
「下まで降りたのか」
「ええ。皮の硬いのが出るって聞いて」
「あれを二人でか」ダグは、崩れた一匹の方を顎で示すでもなく、ただ俺たちの剣と布袋を見比べた。「あの背中、剣が滑るって、戻ってきた連中が音を上げてたぞ。よく割ったな」
「こいつが割りました」俺は、リタを指した。「俺は後ろにいただけです」
「俺は後ろにいただけ、ねえ」
ダグは、それ以上は突っ込まなかった。代わりに、布袋の重さを目で測って、短く言った。
「その調子なら、Dも、そう遠かねえな。――欲はかくなよ」
言うだけ言って、ダグは自分の稼ぎ場へ降りていった。最後の「欲かくな」は、たぶん口癖だ。けど、その前の半分は、世辞を言わない男の口から出た言葉だった。Dも、そう遠くない。リタが、布袋を握り直す手に、力がこもったのが、横から分かった。
梯子を上りきって、外の光に出た。
布袋は、ずっしり重い。皮の硬いのの魔石は、これまでのゴブリンの粒より、一回り大きくて、買取も跳ねるはずだ。一段下の区画を、二人で、危なげなく越えた。一人では届かなかった一段下を、だ。それは、稼ぎが増えたという以上に、はっきりした手応えだった。
「悠さん」リタが、自分の短剣を、かちゃ、と鞘に収めながら言った。「私さ、今日、何回斬ったと思う」
「数えてない」
「私は数えてた。全部、通ったよ。今まで滑ってたのが、一回も滑らなかった。一回もだよ」
リタの声は、得意げを通り越して、少し興奮していた。剣を収めたあとも、その手は、まだ、さっきの手応えを確かめているみたいに、柄の上を撫でている。
「あんたが、ちゃんと当てたからだ」
「悠さんが、乗せてくれたからでしょ」
「乗せても、外したら通らない。あんたは一回も外さなかった」
リタは、口を開きかけて、閉じた。否定しようとして、できなかった、という顔だ。それから、ふっと肩の力を抜いて、前を向いた。
「……うん。私が、外さなかった」
そう言ったリタの横顔は、長のいた区画を見上げていたときより、ずっと先を見ていた。Dも、そう遠くない。ダグの言葉が、たぶんこいつの中で、もう一度鳴っている。一段下を越えた。硬いのを割った。剣が、化けた。それは、二人ぶんの実績で、確かに掴んだものだった。
「明日も、あの区画?」リタが聞いた。
「あの硬いのを、もう少し慣れておきたい」俺は布袋を肩に担ぎ直した。「あんたの剣に乗せるの、まだタイミングが甘い。揃えば、もっと速く割れる」
「揃えてよ。私は、外さないから」
ギルドの方へ歩き出しながら、リタが、もう一度、鞘の上から短剣の柄を、とん、と叩いた。それは、昨日、奥の暗がりへ顎をしゃくったときと同じ仕草だった。けど、今日のそれは、これから行く、という構えじゃなかった。一つ、確かに越えた、という、収まりのいい音だった。




