第10話 格上の長と、ざわめく浅層
悲鳴が、奥のほうから跳ね返ってきた。
間引きの続きで、一段深い区画に降りて何日目かの昼だった。布はもう半分ほど重くなっていて、今日も危なげなく終わる――そのつもりで通路を進んでいたら、前のほうで、人の声が崩れた。一人じゃない。何人かが、いっぺんに後ろへ下がっている。逃げる足音と、追い立てる鈍い足音が、こっちへ向かって流れてくる。
気配を四方へ伸ばした。
通路の先、開けた窪み。そこに、人の気配が四つか五つ。固まって、じりじり後退している。そして、そいつらを押している側に――でかいのが、いた。
でかくて、濃くて、動いている。あの、奥でじっとしていたやつだ。
ホブゴブリンが、動き出していた。
配下を引き連れて、奥からこっちへ、勢力を広げてきている。気配の数を数える。本体の周りに、取り巻きが七つ、八つ。今日斬ってきた大きめのゴブリンより、一つ一つが重い。それが固まって、新人の一団を窪みの壁際まで押し込んでいる。
受付の女の言葉が、頭をよぎった。膨らみきってスタンピードでも起こされたら街が迷惑する。間引きが間に合わなかったんだ。奥で増えた群れが、長に率いられて、新人の稼ぎ場まで降りてきた。あいつにとっちゃ、ここはただの、狩り場を広げるついでなんだろう。
角まで走った。
窪みの手前で足を止めて、覗き込む。栗色の髪を束ねた、見覚えのある背中が、壁際で短剣を構えていた。
「リタ」
「悠さん!?」
声に振り向く余裕もないらしい。リタの正面で、大きめのゴブリンが棍棒を振りかぶっている。その向こう、別の新人が二人、半泣きで盾を構えて、もう一人は腰が引けて尻もちをついている。そして窪みの一番奥、配下の壁の後ろに、頭二つ分でかいやつが、錆びた曲刀をだらりと提げて、ゆっくりこっちへ詰めてきていた。
退くべきだ、と頭の半分が言った。あれはEランク新人の手に余る。鑑定が、はっきりそう返してきた相手だ。前は、迷わず下がった。
でも、いま下がったら、この窪みの新人たちが呑まれる。
あれが浅層寄りまで降りてきたってことは、もう「見るだけ」で済む話じゃない。あいつはここを広げに来ている。退いたところで、あいつは消えない。後ろのこいつらが、先に潰れるだけだ。
火を、隠してる場合じゃなかった。
目立ちたくないとか、慎重に、とか、そんなのは後で考えればいい。いま手のひらに集められる熱が、ここにいる連中の命より大事なわけがない。
俺は、窪みの壁際に向かって、声を張った。
「全員、壁に寄れ! 散らばるな!」
短く。考える間を与えないように。誰が誰だか分からない連中でも、命令は通る。リタが真っ先に反応して、後ろの新人たちを腕で壁際へ押しやった。
「言うとおりにして! この人、火が撃てる!」
配下の群れが、固まり始めた。新人を一塊に追い詰めようと、ゴブリンどもが寄ってくる。それでいい。固まってくれれば、火球が一番効く。気配で、本体がまだ後ろにいるのを確かめた。配下を盾に使うやつだ、と鑑定は言っていた。なら――その盾を、先に焼く。
手のひらに、熱を集めた。
固まりかけた配下の塊。その真ん中へ、火球を放り込んだ。
ぼっ、と火が膨れた。狭い窪みで炎が一気に広がって、固まっていた四匹を呑む。前のめりに焦げて崩れるやつ、火に巻かれて転げ回るやつ。Lv2の一発が、固まった群れのど真ん中で、思いきり効いた。
「やった――いや、まだだ!」
炎の中から、皮の硬いのが二匹、よろけ出てくる。火だけじゃ仕留めきれないやつだ。撃った直後の手のひらは、奥がじんと痺れて、次の熱は集まらない。火球はそういうスキルだ。だから――。
「リタ! 抜けてきたの、頼む!」
「分かってる!」
リタが踏み込んだ。よろけ出てきた一匹の腕の内側へ滑り込んで、首の付け根へ短剣を一突き。声もなく崩れる。もう一匹は、俺が礫を額に叩き込んで足を止めて、その隙に貸し剣でとどめを刺した。
盾が、剥がれた。
配下の塊が、半分焼けて、半分崩れた。本体の前を守る壁が、なくなった。
ホブゴブリンが、ぎろりとこっちを見た。配下を焼かれて、初めて狙いを変えた。曲刀を持ち上げて、俺のほうへ、まっすぐ踏み込んでくる。背丈が頭二つ分でかいぶん、一歩の幅も、人の倍ある。来る。
「来た! 下がってろ!」
リタを後ろへ押しやって、俺は本体と向き合った。
まず、距離だ。あの曲刀の間合いに、火球を撃てる距離はない。撃てば俺ごと巻き込まれる。気配で、あいつの体の向きと、踏み込みの起こりを読む。曲刀が、横薙ぎに来る。重い一撃だ。あれをまともに食らったら、貸し剣ごと折れて終わる。
受けない。よける。
地面を蹴った。床の蹴り出しが、軽い。俊足だ。曲刀が薙いだ空間の、もう一歩外へ、体が先に滑り出ていた。風圧が頬を叩いた。曲刀の刃が、さっきまで俺がいた場所の岩を削って、火花を散らす。
でかい。重い。けど――遅い。
その一撃が重いってことは、振り終わりに、戻すまでの間が空くってことだ。気配で起こりが読めるなら、その隙間に、こっちが先に入れる。
礫を、目に叩き込んだ。
顔めがけて投げた一発が、ホブゴブリンの片目をかすめる。倒すためじゃない。視界を削って、的を絞らせないためだ。あいつが顔をかばって首をすくめた、その瞬間。
間合いを、こっちで作り直す。
もう一度、地面を蹴った。曲刀の戻りが間に合わない、その内側へ。攻めの一歩を、ひとつ前倒しに。本体の懐に、滑り込む。
そこで、手のひらの痺れが、抜けた。
熱が、また集まる。さっき火球を撃ってから、配下を片付けるだけの間が空いていた。連発はできないが、一度撃って、間を置けば、また撃てる。その二発目の、ちょうど集まりきる頃合いに、俺はあいつの懐にいた。
至近距離。皮の厚いやつだ。胴に撃っても、一発じゃ焦げ落ちない。この前、鑑定で測ったとおりだ。だから、皮の薄いところへ。
首の付け根。喉の脇の、硬い皮の継ぎ目みたいな、柔らかいところ。
そこへ、二発目の火球を、押し当てるみたいに撃ち込んだ。
『火球 Lv3(R)』
撃った熱が、いつもより一回り重く、深く弾けた。使い込んだぶんが、ちょうど今、繰り上がったらしい。狙い澄ました一発が、ホブゴブリンの首の付け根で炸裂する。分厚い皮の、その一番薄い継ぎ目を、内側から焼き破った。
ホブゴブリンが、初めて声を上げた。低く、引きつったような咆哮。曲刀を取り落として、首を押さえて、よろめく。
でも、まだ立っている。一発じゃ、倒れない。皮の厚いやつだ。それも、分かっていた。
だから、これで終わりじゃない。
俺は貸し剣を握り直した。よろめいて、首をかばって、がら空きになった脇腹。そこへ、踏み込んだ勢いのまま、剣を下から突き上げる。焼けてもろくなった皮を、刃が突き破って、深く入った。
ホブゴブリンが、膝から崩れた。
でかい図体が、横向きに、地響きを立てて倒れる。錆びた曲刀が、岩の床で乾いた音を立てた。
窪みが、静かになった。
肩で、息が上がっていた。手のひらの奥が、じんじん痺れている。火球の二連発と、礫と、剣。出し惜しみなく全部使った。膝の裏に、遅れて震えが回ってくる。あいつの一撃を、一発でもまともに食らっていたら――そう考えるだけで、手のひらの汗が冷たくなる。決して、楽な相手じゃなかった。
でも、倒した。
固まった配下を火で焼いて、本体を裸にして。重い一撃をよけて、間合いをこっちで作って。皮の薄いところに渾身の一発を当てて、剣でとどめを刺した。一つ一つは、いつもの手だ。ただ、正しい順番で、全部、嚙み合った。
「……今の」
リタが、声を漏らした。短剣を握ったまま、倒れたホブゴブリンと、俺とを、交互に見ている。目が、丸くなっていた。前に「ずるい」と言ったときの、あの拗ねた色じゃない。もっと、別の何かを見るような目だった。
「悠さん、あれを、一人で……」
言いかけて、リタは口をつぐんだ。何かを言いたそうに、けど言葉が追いつかないみたいに、唇を結んだだけだった。
壁際の新人たちは、まだ腰が抜けたまま座り込んでいる。そのうちの一人が、震える声で言った。
「あれ……ホブゴブリンだろ。奥に出たって、噂の」
「あの新人、一人で倒したのか?」
「火、撃ってたよな。あんなの、見たことねえ」
ざわめきが、窪みに広がっていく。称えるというより、まだ信じきれていない、半分上ずったような声だ。俺は、なんと返していいか分からなかった。倒したのは、退けなかったからだ。あんたらが押されてたからだ。そう言ったところで、たぶん伝わらない。曖昧に頷いて、リタのほうを見た。
そのとき、窪みの入り口のほうから、別の足音が一つ、近づいてきた。
革鎧に、薄い金属の板。あの常連の男だった。間引きが間に合っていないのに気づいて、様子を見に来たんだろう。手には抜き身の剣。だが、その剣を使う相手は、もういない。
男は、倒れたホブゴブリンの前で、足を止めた。
でかい図体を、ぐるりと見回す。首の付け根の、焼け焦げた傷。脇腹の、剣の刺し傷。それから、肩で息をしている俺と、壁際で座り込んでいる新人たちを、順に見た。
「……これ」
男が、低い声で言った。
「お前が、やったのか」
「ええ。まあ」
俺の答えに、男は少しの間、黙っていた。剣を鞘に納めて、もう一度、ホブゴブリンの傷をじっと見る。火で焼かれた首と、剣で抜かれた脇腹。その二つを、見比べていた。火だけじゃ、あの皮は焦げ落ちない。剣だけじゃ、あの懐には入れない。両方やった、ということの意味を、たぶんこの男は分かっている。
「火しか撃たんと思ってたが」
男は、低く言った。それから、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「懐に入って、薄いとこを、火で抜いたか。新入りのやることじゃねえな」
褒めるというより、信じられないものを口の中で転がしているような言い方だった。前に「手堅いな」と落としていったときより、声に重みがあった。
「ダグだ」
ふいに、男が言った。
「お前、よく見るからな。名乗っとく。困ったら、ギルドに札を出しとけ。誰か来る。……俺でもな」
それだけ言うと、ダグは倒れたホブゴブリンの牙のあたりを指で弾いて、品定めするように見た。
「いい魔石が出るぞ、こいつぁ。素材も上等だ。長やってただけある」
ダグは新人たちのほうへ顎をしゃくって、立て、と短く促した。腰の抜けた連中が、のろのろと立ち上がる。リタは、もうすっかり呼吸を整えて、けど、まだ俺のほうを、ちらちらと見ていた。
ホブゴブリンの素材を、ダグが手伝って布に包んでくれた。ずっしりと重い。取り巻きの右耳と魔石も合わせれば、今日の取り分は、間引きの頭割りとは桁が違う。
「あの新入り、誰だ?」
窪みを出る間際、後ろのほうで、新人の一人が小声で言うのが聞こえた。
「さあ。Eに上がったばっかりだって、リタが」
「Eで、ホブゴブリンを一人で……?」
ざわめきは、梯子へ向かう俺たちの後ろを、ついてくるみたいに、まだ続いていた。




