12
* * *
アルノルトと話した夜から数日後。
マリエールは城を立つ準備をしていた。
荷物をまとめ、滞在する間与えられていた個室も簡単に掃除する。
たっぷりと襞をとった花柄のカーテン。
ふかふかの大きなベッド。
品のいい調度品。
そこはまるで、貴族のお姫さまが住まう部屋のようだった。
ほとんどを患者のもとで過ごしたため、あまりゆっくりとは休めなかったが、いい経験になったと思う。
「マリエール、準備はどうだ?」
そこへエリオが迎えにくる。
「今終わったところよ。いつでも出られるわ」
これからアルノルトや、世話になった医務官たちにも挨拶をして、ノクティアへ帰る予定だった。
これ以上城に留まり、権力争いに巻き込まれ、万が一にでもアルノルトの足を引っ張るようなことにはなりたくなかったのだ。
アルノルトからの了承も得ている。
新薬の精製については、城の医務官たちにあとを託したし、何かあれば、手紙でやり取りをする手筈になっている。
(私も私で、頑張ろう)
マリエールは思い、アルノルトから貰ったドレスと靴、宝飾品をしまった小箱を撫でる。これも一生大切にしようと思った。
それと――。
マリエールはエリオを振り返った。
エリオにも心配をかけていた。だから、アルノルトが探し人だったことを話しておかねばならない。
でも、全ては打ち明けられないから、どう伝えようかと迷う。
その時だった。
「失礼、マリエール・フェルナーさま」
「! はい――」
誰だろうと思いながらマリエールは扉を開けた。
そこには白い髪をした長身の騎士がいて、静かにマリエールを見下ろしていた。歳は四十の手前頃だろうか。
屈強な騎士は低い声で言う。
「突然の訪問をお許しください。私はフィオリアさま付きの騎士、シャルマ・テペと申します。フィオリアさまがあなたを茶会にお招きされています。準備は整っていますから、どうぞ」
――フィオリアさま……?
確か、夜会の時、王さまのそばにいた女性の名前だ。
アルノルトが〝嫉妬深い〟と言っていたのを思い出して、わずかに身構える。
「……どうして私などを?」
体を固くしたマリエールに、シャルマはほんの少しだけ眉を動かす。
「そう警戒なさらないでください。あなたがお帰りになる前に、直接礼をしたいとおっしゃっているだけです」
「……礼?」
「ルシアン殿下をお救いくださった礼です。フィオリアさまは、ルシアンさまの母君ですから。心配でしたら、そこにいらっしゃるエリオ殿か、アルノルト殿下にご同席頂いても結構ですよ」
「……ですが、お礼なら」
「先日の夜会は国王陛下が催されたもの。フィオリアさまは直々にあなたに感謝を告げたいとのことです」
そういう、ものなのだろうか。母親という存在は。
マリエールは迷いながら、けれど自分が断れる立場ではないことを思いだす。
アルノルトは忙しいだろう。今日は会議が詰まっていると聞いた。
ならば、エリオに頼るしかない。
そう思い、マリエールはエリオと共にフィオリアの待つ離宮へと向かった。
そこはフィオリアのために作られた庭園なのだそうだった。
柔らかな午後の日差しの中、中央に据えられたガゼボの下で、フィオリアがにこにこと笑っていた。
「急に呼び出してごめんなさいね。あなたがもう帰ってしまうと聞いて……」
夜会の時とは打って変わり、フィオリアの態度は友好的なものだった。
向かいに座った途端に、カップに熱々のお茶を手づから淹れられる。そばに並ぶ菓子も美味しそうなものばかりだった。
マリエールは恐縮して頭を下げる。
「いえ、お招きくださりありがとうございます」
エリオが場を和ませるように口を挟む。
「女性同士の席に、僕もお邪魔してしまってよろしかったのでしょうか」
「もちろんよ。ふたりとも、好きなだけ食べてちょうだいね」
白いレースのドレスに身を包んだフィオリアは、口元を扇子で隠しながら上機嫌に話し続けた。
マリエールは緊張しつつ、クッキーを齧り、あたたかな紅茶に口をつけた。
フィオリアは一層笑みを深くしていた。
「美味しい? どれもアルノルトのお気に入りなの。この茶葉もあの子から分けて貰ったのよ。貴重だけど、とっても身体にいいらしいの。たくさん飲んでね」
そう話すフィオリアの背後には、シャルマが影のように控え立っていた。
無表情で佇む大柄の男性は、そこにいるだけで威圧感があった。一つでも粗相があれば彼が動くのだろうと思うと、味などまともにしない。
フィオリアは微笑み続けている。
「マリエールさん。ルシアンを助けてくれて、ほんとうにありがとう。わたくし、とても感謝しているのよ。お礼の品もたくさん用意したから、持って帰ってちょうだいね」
「はい、ありがとうございます」
ここで断っては、逆に失礼になるかもしれない。
マリエールは、素直にフィオリアの厚意を受け取ることにした。
「さあ、もっと召し上がって。遠慮しないで。さあ」
言われて、マリエールはカップを持ち上げようとした。
しかしその瞬間、急に呼吸が苦しくなる。
え?
「……? ……っ?」
気のせい、ではない。
喉の奥を絞られ、息が細くなるような感覚に、マリエールは思わず喉元を抑える。
「マリエール?」
エリオが隣で、怪訝な声を上げた。
呼吸はさらに苦しくなる。
――まさか。
マリエールは、真向かいに腰掛けるフィオリアを見つめた。
赤い瞳は、変わらずにこにこと細められている。さっきよりも、ずっと機嫌が良さそうに。
「どうしたの? マリエールさん」
「……っ」
声が出ない。
苦しさと混乱でマリエールはクッキーの乗った皿を床に落とした。
瞬間、フィオリアの口角がさらに上がったのを見て、マリエールは確信した。毒を盛られたのだ。
マリエールは咄嗟に口に指を入れ、中のものを全て吐き出した。
「まあ、汚い」
「マリエール……!」
エリオが立ち上がり、マリエールの肩を支えた。
マリエールは椅子から頽れるように倒れこむ。
それでも呼吸は苦しいままだった。
「……おかしいわねえ」
整わない息の中。
フィオリアが立ち上がり、そばに歩み寄ってくるのがわかった。まるで研究者のように、マリエールを見下ろしている。
「まだ死なないのかしら?」
驚愕に目が眩んだ。この人は、何を言っているのだろう。
その時、庭園の影からグラディウスが飛び出してきた。顔を歪めてマリエールを見下ろす。
「こいつ、吐き出しおったんですか」
「吐き出したら効かないの?」
「……っいえ、そんなはずは」
「じゃあどうしてまだ生きてるの? 数分だって、あなた言ったわよね?」
目の前で繰り広げられるやり取りに、マリエールは自分の耳を疑っていた。
確かに、グラディウスとは城にいる間何度か衝突したが、命を狙われるほど憎まれているとは思いたくなかった。
フィオリアに至っては、接点などほとんどない。
なのになぜ。
「……残念。無駄に知識があるからいけなかったのかしら」
どこか夢見るような口調で呟くと、フィオリアは徐にテーブルの上、ケーキを切り分けるために添えられていたナイフを手に取った。
よく研がれた鋭利な切先が、太陽の光を受けて反射する。
「やっぱり、最初からこうすれば良かったのよね」
言ったフィオリアが虚な目で、ナイフを握りしめた右手を振り上げる。
――殺される
マリエールは恐怖に目を瞑った。しかし。
「そこまでです、フィオリアさま」
「……っ! シャルマ! ……おまえ、やはり」
恐れていた痛みはいつまで経っても訪れず、代わりに、周囲が騒がしくなる。異変に衛兵たちが集まってきたらしい。
マリエールはおそるおそる目を開けた。
シャルマが、フィオリアの腕を掴み、拘束しているところだった。
「フィオリアさまはご乱心だ。取り押さえろ」
「は? ……はっ」
衛兵たちは戸惑いつつも、シャルマの命に従い、暴れるフィオリアを取り押さえる。
フィオリアは呪うような目つきでシャルマを睨みつけていた。
「裏切り者」
「最初から私の主君はただひとりです」
声が遠くなる。
エリオがマリエールの肩に手をかける。
「マリエール、大丈夫か」
しかし、マリエールが意識を保てたのはそこまでだった。深い眠り、死の底へと誘われる。
――ああ、薬師のくせに、毒で殺されるなんて。
ヘルさんに怒られてしまう。
きっと、ユリシスにも。
そうして思うのは、ただ一つの後悔。こんなにあっけなく終わりが来るのなら、わがままを言えば良かった。あの夜、彼を困らせてでも。
――ユリシス
最後にひとめだけでも、会いたかった。
* * *
頭が、回らない。
「フィオリアはシャルマがとらえました。奴は元々、フィオリアの本性を人前で暴くことが目的だったようです」
ウベロの報告も、耳を掠めていくばかりだった。
アルノルトは呆然と立ち尽くす。
執務の最中、血相を変えたウベロに呼び出され向かった先には、横たわるマリエールがいた。
フィオリアに毒を飲まされたのだという。
その顔は青かった。
アルノルトはベッドの脇にひざまづき、震える手で頬に触れる。
体温は下がり、生気はなく、ほんの微かに動いている胸だけが、砂粒ほどの希望だった。
――僕に関わったから。
再会したあの日。
やっぱり無理やりにでも理由をつけて、すぐに城から追い出せば良かった! そうしたら彼女は今頃。
――ここが魔窟だと、知っていたのに。
――僕のせいだ。
後悔が、波のように押し寄せる。
「……エリオ」
そばに佇む医師の名を呼ぶ。
急ぎマリエールが運び込まれた部屋には、侍従やメイド、他の医務官も揃っていた。
しかし今、そんなことはどうでもよかった。
矜持も身分も、全て捨てて構わない。
彼女が無事でいてくれるのなら。
「……助けてくれ」
涙をこぼし言ったアルノルトに、エリオは深く頷いた。




