11
* * *
――会わなければよかった。
マリエールを部屋へ送り、自室へ戻ったアルノルトはあかりも付けずベッドに腰掛けていた。
カーテンを開いたままの窓の外では、まだ星が煌めいている。
マリエールと話したのは、ものの数分。それが今の自分たちに許される精一杯の時間だった。
アルノルトは礼服の胸元、堅苦しいボタンを外し、ふっと息をつく。
抱きしめたマリエールのあたたかさは、まだ手のひらに残っていた。鼻腔をくすぐった甘い薬草の香りも。
彼女は綺麗だった。
白い肌も、柔らかな亜麻色の髪も、まっすぐに見つめてくる紅茶色の瞳も。
子供の頃はどこか自信なさげだった少女は、時を経て、その手に力をつけ、見事仕事を果たしてみせた。
自分なんてまだまだ、と謙遜をしていたけれど、アルノルトからすれば彼女は十分立派な薬師だった。城の医務官たちが、感嘆と嫉妬を抱くほどに。
――ヘルさんが言っていたのは、そういうことだったんだろうな。
子供の頃、彼が打ち明けてくれた過去、『宮廷での足の引っ張り合い』。
このままマリエールを城に留めおけば、優秀な彼女は、必ず権力争いに巻き込まれてしまうだろう。アルノルトの政敵も含めて。
それはダメだ。
アルノルトは、陰謀渦巻く王宮から一刻も早くマリエールを逃したかった。もう二度と会えなくても。
新薬の開発は進んでいるし、この分では、早ければ数日中には彼女を解放できるだろう。
それで終わり。
アルノルトは、そう自分に言い聞かせる。
――思い出すのは、数日前のこと。
エリオ・フィガーに呼び止められたアルノルトは、マリエールが自分を探していることを聞かされた。
『彼女はずっと行方のわからなくなった友人を探しているんです。仕事の合間も、どこに行っても。歩いてる時に突然走り出したりして。見ていて正直、可哀想なくらいで……。……殿下、不躾なお願いとは承知しておりますが、どうかお力を貸していただけないでしょうか』
――あの子は、ずっと僕を探してくれていた。
その事実が嬉しくて、苦しくて、申し訳なくて。
これ以上彼女を縛りつけてはいけないと思った。
だからアルノルトは、マリエールに真実を話した。
けれどやはりそれは、失敗だったかもしれない。小さく自嘲する。
おかけで、自分の気持ちに気づいてしまった。
(離れたくなかったなあ。)
王位も、兄の悲願も、ウベロたちからの期待も、全てを捨てて彼女と生きられたら。
そんなに幸せなことはなかった。
「――会わなきゃよかった」
ヘルにも。マリエールにも。
けれど、村での幸せな思い出が、堰を切られたように溢れ出す。
古屋と呼んだ方が正しいような家、雑多な本棚、所狭しと並ぶ薬瓶、かわいいマリエール。
「……」
アルノルトはゆっくりとベッドに寝そべった。
王位継承――戴冠式の準備は、着々と進められている。だから。
「無理だよ、そんなの」
ユリシスが顔を出す。わがままを、言ってみたかった。
*
同時刻。
王城の一室、灯りを極限まで絞った隠れ部屋で、フィオリアは親指の爪を噛んでいた。
「なんなの、あの女。陛下に色目を使って、生意気にも口まできいて」
「落ち着いてください。フィオリアさま」
宥めるように言ったのは、フェゴールの筆頭宮廷医師グラディウスだった。
グラディウスはその地位に上り詰めるため、若い頃から高位貴族に取り入り続けてきた。
しかし、アルノルトの台頭により、その座は揺らぎつつある。そこで目をつけたのがフィオリアだった。
グラディウスは背をかがめ、次の擦り寄り先に、ひっそりと囁く。
「手はございます」
フィオリアは訝しげにグラディウスへ目を向けた。
国王に、息子ルシアンの快気祝いを提案したのはフィオリアだった。
甘い王は、フィオリアの願いを心よく引き受けた。だが、蓋を開けてみればそれは、フィオリアの望んだものとはまるで違っていた。
ルシアンだけを祝えばいいものを、王は、医師や薬師、あろうことか看病に尽力した者たちまで集め、彼らにも賞賛と褒美を与えてしまった。
これではルシアンが霞んでしまう――。
その上王は、一番の功労者は『医師たちを招集し、その指揮をとったアルノルト』だと褒め称えた。
しかもあの忌々しい王子は、若い女を引き連れ、夫に対面までさせたのだ。
「……どうして私の邪魔ばかりするの」
アルノルト・リ・フェゴール。
身体の弱い正妃が産んだ二人目の王子。
アルノルトを産んだ後、おかげて女は、永遠の眠りについてくれたが。
残した芽はいくら摘もうとも雑草のようにしぶとく生き延び、フィオリアを苛立たせていた。
きょうだいの中で誰よりも優れ、実績を残し、ついには王位継承権まで手にしてしまった王子。
強く噛みすぎた爪が、醜く傷ついていく。
「早く、早くなんとかしなくちゃ」
国王はどの女が産んだ子供も愛していたが、アルノルトのことはことさら可愛がっていた。
亡き正妃に似て、美しく勤勉だったからだ。
「フィオリアさま。この薬を」
グラディウスが目の前に薬の包みを差し出してくる。
フィオリアは片目を歪めた。
「これは?」
「毒薬でございます。味はなく、色も変わらない。紅茶にでも混ぜれば、数分で呼吸は止まります」
「……アルノルトに飲ませるのは難しいわ」
あの王子にはいつも屈強な番犬ウベロ・キオがついている。
しかしグラディアスは「違います」と首を左右に振った。
「飲ませるのは、あの娘です」
言われて、フィオリアは目を見開いた。
――夫に色目を使ったあの小娘になら、薬を飲ませることなど造作もない。
――さらにその罪を王子に被せることができれば、これ以上胸のすくことはなかった。
「……おまえは軍師の方が合っているのかもしれないわね」
フィオリアは言って、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した。
一人がけの椅子にゆっくりと腰掛ける。と、気の利く従者――シャルマ・テぺがそばのテーブルにワインを用意した。フィオリアが身体を使いアルノルトから奪い取った歴戦の戦士だ。
「ルシアンを救ってくれた子の命を奪うのは心苦しいけれど、仕方ないわよね。だって、私のことを不安にさせたのだもの」
この計画がうまくいき、アルノルトが失脚すれば、王はきっとルシアンに目を向けてくれる。
そうしてフィオリアを長い間空席となっている正妃の座へとつかせてくれるはずだ。
きっと、きっと。いえ、必ず。
「グラディウス」
「は――」
フィオリアはグラディウスから薬の包みを受け取り、眺めた。
こんな小さなもので人の命は潰えるのか。
そう思うと、何もかもがくだらないようにも思えるのだった。




