10
風が鳴っていた。
夜空には満天の星が輝いている。
マリエールは、アルノルトに連れられた先――夜の庭園のベンチに並んで腰掛けていた。
アルノルトの低い声が、夜の静寂に溶けていく。
「僕には、兄がいたんだ」
その視線はわずかに下げられたままだった。長いまつ毛が、彼の頬に影を落とす。
「兄は――名をガルディスと言って、僕とは似ても似つかない、とても明るくて強くて、頼り甲斐があって、優しい人だった。兄は次の王になることが決まっていて、周りもそれを望んでた。その頃の僕の夢は、兄を支え、役に立つことだった。そのために、勉強も剣の稽古も励んでいた。ウベロもいっしょに」
マリエールはアルノルトの話に、ひたすらに耳を傾けていた。一言も逃してはならないと思っていた。
「でも――――兄は死んだ。殺されたんだ、腹違いの弟とその一派に。王位継承権を狙われて」
瞬間、アルノルトの灰藍色の瞳に、ほの昏い影がよぎる。
その時のことを思い出しているのだろうか。
マリエールは伸ばしそうになる手を堪えた。
「兄が殺されたのは、僕が十三の時だった。それから僕は仇を討つ決意をした。ウベロや、兄を支持していた者たちも賛同してくれて、力を蓄えていた。でも、そんな僕を目ざとく思う奴らに裏をかかれて、僕は城を追われた」
幼いアルノルトは真夜中、政敵からの襲撃に遭い、命からがらウベロと共にフェゴール城を脱出したのだという。
集まった仲間の中に、裏切り者がいたのだそうだ。
それからアルノルトは、二日以上も飲まず食わずで、敵に追われながら森を彷徨ったと言った。
「ウベロも動けなくって、僕も歩けなくって、森で倒れて。もうダメだと思った。その時だよ。ヘルさんに助けられたのは」
アルノルトの告白に、マリエールは思いのほか驚いてはいなかった。
ああ、やっぱり。という気持ちの方が強くて。
――やっと会えた。
会えていたのだ。
マリエールは唇を振るわせる。
――けれど彼は。
アルノルトの告白は続く。
「それから――すごく苦い薬を飲まされて、小さな薬師さんに看病してもらって、僕は、生き延びることができた」
やっとアルノルトがこちらを向いてくれる。
星あかりだけでもこんなに表情がわかることを、マリエールはその夜、初めて知った。
決意を秘めた瞳。
硬く閉じられた口元。
凛とした空気を纏うアルノルトは、まさに〝王子さま〟だった。
「村での生活は楽しかったよ。どこに敵が潜んでいるかわからなかったから、素性を明かすことはできなかったけど。村の人たちは、ヘルさんも、村長さんも、まあ、ティティも、親切だったし。特にね、ヘルさんの助手の薬師は、ずっと僕を気にかけてくれて……嬉しかった」
太陽と共に起きて、食べ、薬を作り、売って、遊んで、月と共に眠る。そんな生活が楽しかったと、王子さまは言った。
「城にはいつも敵がいて、張り詰めてたからかな。僕は生まれて初めて、穏やかな気持ちになれていたと思う」
寝込みを襲われないこと。
すれ違いざま嫌味を言われないこと。
食べ物に毒が混じっているかなんて、気にしなくていいこと。
その全てがアルノルト――ユリシスには幸せなことだったそうだ。
「でも、ウベロが迎えに来てくれた」
とアルノルトは続けた。
それも真夜中のことだったらしい。
「それからは急いで村を出た。……ごめん。僕がちゃんとお別れを言わなかったら、ずっと探させていたんだよね」
アルノルトが言って、すまなそうに微笑む。
「でも、僕は大丈夫。だからもう――僕のことは、いいんだよ」
マリエールはたまらなくなって、アルノルトの手を握りしめた。アルノルトは拒絶せず、好きなようにさせてくれる。
彼の手は、大きくなっていた。あの頃よりずっと、ずっと。
「……わかったわ」
マリエールは懸命に笑顔を作る。
まさかほんとうに王子さまだったなんて。
ぽろぽろと溢れた涙をアルノルトに拭われる。
「泣かないで」
「……ごめん、ごめんなさい。でも、また会えたことが嬉しくて。元気そうで、よかったわ」
「うん。僕も、すごく嬉しかった。安心した。――すぐに言えなくてごめんね」
そうだ。
アルノルトはどうして突然打ち明けてくれる気になったんだろう。
疑問が顔に出ていたのか。マリエールを見つめながら、アルノルトは言う。
「エリオ・フィガーに言われたんだ。『マリエールにはずっと探してる奴がいる』って。『自分への褒美はいいから、あの子の人探しを手伝ってやってくれないか』って。彼は、ほんとうにいい人だね」
マリエールは目を見開く。
「エリオが……?」
「うん。とても必死に頼みこまれた。マリエール、きみ、会う人会う人に僕のことを聞いてたんだって?」
「……ええ、そうよ。そうよ――すごく探してた」
少しだけ不満を漏らす。
「お城にいたんじゃ、見つかるはずもなかったわ」
「うん。でも、このことは内密にしておいてほしい。誰にも言っちゃダメだ」
アルノルトと関わりがあると政敵に知られれば、マリエールやヘルにも危害が及ぶかもしれない。
それを心配して、アルノルトは今まで口をつぐみ、自分たちを遠ざけていたんだろう。
あの夜も。
そして、これからも。
立ちはだかる難題の前に、マリエールは胸の奥を締め付けられた。これ以上、彼の力にはなれそうもない。
「……いつもは、こんな喋り方じゃないんだ」
ふと、恥ずかしそうにアルノルトが首の後ろをかいた。マリエールは頷く。
「そうよね。アルノルトさまの時のあなたは、〝為政者〟って感じだったわ」
「演じてるんだ。兄みたいに上手くはいかないけど」
言われて、思い出す。そうだ。アルノルトは次期国王の座も約束されているのだった。
なんて遠い。
マリエールは、心を締め付ける想いを振り払うように明るく振る舞う。
「きっと大丈夫よ。アルノルトさまは街でもすごく評判がいいし、私も応援してるから」
「……きみも、夢を叶えたしね」
「入り口よ。まだ、ヘルさんみたいに上手くはいかないわ」
言った後に、アルノルトの同じ弱音を発していると気づいた。
ふたりは肩を揺らして笑い合う。
――この夜が終わり、次に会う時には王子と薬師の関係に戻らなければいけない。
それがお互いにわかっていた。
だから惜しむように、思い出話に花を咲かせる。
これまでのこと。
楽しかったこと。
苦しかったこと。
ヘルにもまた会いたいということ。
けれどそう長く時間を取れるわけもなくて。
会話が途切れた瞬間、ふたりの時は終わりを告げた。
夜会場から流れる音楽が、別世界の音のように聞こえた。
「マリエール」
アルノルトが片腕を伸ばし、その胸の中にゆっくりとマリエールを抱き入れる。
「会えて、ほんとうに嬉しかった。どうか、幸せに」
祈るように言われて、マリエールは両目を閉じた。
――この気持ちは、なんなんだろう。
胸の痛みが頂点に達する。
マリエールはアルノルトの胸に頬を寄せた。
爽やかな香水の匂いがした。
離れたくない、もっと一緒にいたい。
どうして?
それはきっと。
気づいたけれど、口にすることはできなかった。だって彼は王子さまで、成し遂げなければいけないことがあるから。この気持ちは彼を困らせるだけだと、わかっていた。
胸に宿る想いを、マリエールは涙とともに飲み込む。
「あなたもどうか、幸せで」
でもせめて、と。ただそれだけを、祈るように伝えた。




