第九話 またですか
水曜の夜、コンビニの袋を提げて、若月湊は住宅街を歩いていた。
空に月はない。
駅からアパートまでの途中に、小さな公園がある。滑り台とブランコ、それからベンチが一とつきりの、夜はいつも誰もいない場所だ。街灯が一本だけ立っていて、その下だけが明るい。
その暗がりから、声がした。
「とおかんや とおかんや」
舌足らずな子供のような声だった。節をつけて、同じ言葉を繰り返している。
野良精霊だ、と思った。
湊は足を止めた。こんな時間に、こんなところで唄っている。何を求めているのかは分からないし、訊いたところで答えが返る保証もない。関わらないほうがいい類のものだ。
甘いものを提げて歩いていると、こういうものが寄ってくることがある。今夜も駅を出たあたりから、視界の端で何かが動いていた気がした。見ないふりをしてきた。
放っておけば良いと思うのに、湊は公園のほうへ曲がった。こういうものを拾ってしまう人がいるのを、知っている。
植え込みを回り込むと、唄のほかに声が聞こえた。
「どうしたの?」
知っている声だった。
「とおかんや」
「そっか」
回り込んだ先、街灯の下に樗木真那がしゃがんでいるのが見えた。その足元に、小さなかかしが立っている。
人の膝ほどの背丈で、藁を束ねた体にぼろ布を巻いてある。顔のあたりには墨で目と口が描いてあった。一本しかない足を地面に刺したまま、体を傾けて真那を見上げている。
真那が両手を伸ばして、それを抱え上げた。
「一緒に来る? 送ってあげるよ」
遅かった。
湊は息を吐いた。
「またですか」
真那が肩を跳ね上げて振り返る。理知的な目が、驚きに見開かれていた。
「若月さん……いつから」
「ついさっきからです」
真那は立ち上がると、抱えたかかしを一度見下ろしてから、湊を見上げた。
「……困ってそうだったので、少しだけと思って」
「そんなだからつけ込まれるんですよ」
「でも、放っておけなくて」
真那と、その腕の中にいる精霊を見る。湊にはどうしても、危なっかしいとしか思えなかった。
「俺が追い払いましょうか」
「あ、大丈夫です。ちゃんと送りますから」
「危険じゃないですか」
「大丈夫ですよ。この子、帰りたいだけなので」
帰りたいだけ、と彼女は言う。
湊にはそこまで分からない。目の前にいるのは契約の外にいるもので、何を考えているのかも、次に何をするのかも読めない。話が通じる保証がない。
けれど真那には、何かが分かっている。そういう言い方だった。
「十日夜の子だと思います。一昨日だったので、送ってもらいそびれたんですね」
「とおかんや、ですか」
「お月見です。秋の。地域によっては、お供えをして、藁鉄砲で地面を叩いて」
真那は、自分の腕の中を見た。
「この子、唄のところしか覚えてないみたいですけど」
「……それで、どうやって送るんですか」
湊の言葉に、真那は首を傾けた。後ろで一とつにまとめた髪が、揺れる。
「お供えが必要ですね。本来はおはぎとかなんですけど」
湊は、自分の袋の中身を思い返す。さすがに、そう都合よくおはぎは持っていない。
真那は、腕の中を見下ろした。
「でも、甘いものなら、大丈夫だと思います」
甘いもの。それなら、持っている。
湊は、コンビニの袋を持ち上げた。
「これで良いですか」
真那が目を丸くする。
「え、良いんですか」
「コロッケのお礼です」
「でも、使ってしまいますよ」
「俺は貴女にあげます。それをどう使うかは、貴女が好きにしたら良い」
真那はしばらく湊を見て、それから小さく笑った。
「……じゃあ、ありがたくいただきます」
それから真那は、少しだけ言い足した。
「この子も、喜ぶと思います」
精霊に対して、喜ぶ、という言い方を、湊はしない。精霊が何を思っているかなんて、考えたこともなかった。
袋を差し出すと、真那は受け取ろうとして、腕の中のかかしに気付いて動きを止めた。足元には、彼女自身のコンビニ袋も置いたままになっている。
湊はその袋を拾い上げて、自分の袋と一緒に左手にまとめた。
「持ちます。両方」
「あ、すみません」
真那は精霊を抱えたまま、歩き出した。湊は、その隣に並んだ。
◆◆◆
アパートまでは十分ほどある。
真那は時々、腕の中のかかしに話しかけている。かかしは「とおかんや」としか返さないのに、会話が成立しているように見えた。
穏やかな笑みが、かかしに向けられている。
湊は、横から話しかけた。
「さっきの、藁鉄砲というのは」
「束ねた藁で地面を叩くんです。もぐらを追い払うためだとか、地の神様に知らせるためだとか、言われてますね」
真那の瞳が、湊を見上げた。街灯を反射して、輝いていた。
「たぶん、どっちも後からついた説明です。もとは音を出すこと自体に意味があったんだと思います。音は、境目を作るので」
「はあ」
「あ、すみません。こういう話、興味ないですよね」
「いえ」
真那の視線は、また腕の中に戻ってしまった。
興味がないわけじゃない、詳しくないだけだ、というのは言えなかった。精霊を扱うのは職務じゃないし、今だって危険なものだと思っている。
それでも、もう少し声を聞いていたかったと思った。今、この人は少し楽しそうにしていた。少し早口だった。そういうところを見るのは、はじめてだった。
アパートの階段を上がって、廊下を大通りのほうへ戻る。自分のドアの前を通り過ぎて、その先まで。
真那が鍵を出したところで、湊は口を開いた。
「見届けます」
「え」
「野良ですから。何かあってからでは遅い」
嘘ではなかった。野良精霊は何をするか分からないし、送る手順の途中で何かが起きる可能性もある。だから最後まで見る。
真那は少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「じゃあ、お願いします」
部屋を抜けて、掃き出し窓を開ける。
狭いベランダだった。仕切り板の向こうは湊の部屋で、下は隣の建物とのあいだの駐車場になっている。住宅街の中では、空が広いほうだ。
その空に、やはり月はなかった。月見の精霊が、月のない夜に取り残されている。
十一月の夜風が正面から入ってきて、真那が少し身を縮めた。
湊は何も言わずに、風上のほうへ半歩ずれた。背が高いぶん、壁の代わりくらいにはなる。
狭いので、肩が近い。
一度、この肩を掴んだことがある。思っていたより細かった、ということも覚えている。
「とおかんや」
精霊の声がして、湊は慌てて視線をやった。何かあれば、対処しなければならない。
真那がしゃがんで、かかしをベランダの床に立たせる。一本足はコンクリートの上でうまく立たなくて、真那は両手で支えながら傾きを直した。ベランダのフェンスに寄り掛からせるようにして、立たせた。
袋からお菓子を出す。個包装のものを二たつ、三つと、かかしの前に並べていく。一度置いたものを、少しだけずらした。並べ方にも、意味があるのかもしれない。湊には分からない。
それでも、真那は迷いのない手つきで進めていた。その指先が、寒さで赤くなっていた。
菓子を並べ終えると、真那は肩に落ちた髪を背中に払った。
それから、かかしに向かって言った。
「とおかんや、とおかんや」
節はついていなかった。ただ呟いただけ、という声だった。
かかしの体が、ふっと軽くなったように見えた。ぼろ布の裾が風と関係のない方向に揺れて、墨で描かれた口が、少しだけ形を変えた気がする。
次に瞬きをしたときには、もういなかった。並べた菓子も、一緒になくなっている。
湊は手を出さなかった。出せる位置には立っていた。けれど、出す必要がなかった。
窓を閉めると、部屋の中は暖かかった。
「今回はたまたま害がなかったから良いですけど、そういう精霊ばっかりじゃないんですよ」
真那は空になった袋を畳んでいた。顔を上げて、頭を下げる。
「お菓子、ありがとうございました」
「……いえ」
「一緒に送ってもらえて、良かったです」
真那は湊を見上げて、笑った。
この人はまた同じことをする。湊にはそれが分かった。次に困っている何かを見つけたら、また「一緒に来る?」と言うのだろう。何度言っても同じだ。
「……それでも、気を付けてください。危ないので」
「はい。ありがとうございます」
これは、やっぱり分かってない。
湊は溜め息をついた。




