第八話 善処します
日曜の夕方、樗木真那は隣のチャイムを鳴らした。
今日は、待たずにドアが開いた。
若月湊は真那の顔を見て、それから手元に目を落とした。肉屋の紙袋と、スーパーの袋と、それから小さな袋がもう一とつ。
長く息を吐いて、ドアを開ける。入って良いということらしかった。
上がると、キッチンは先週と何も変わっていなかった。畳んでいないコンビニの袋。使った跡のないコンロ。引き出しを開ければ、プラスチックのスプーンとフォークが溜まっているはずだ。
一週間あって、何も増えていない。減ってもいない。
真那は袋を調理台に置いて、レタスを出した。
湊は、冷蔵庫の前に立って真那を見ていた。
「俺がいなかったら、どうするつもりだったんですか」
「洗濯機の音がしたので、いるなって思って」
湊が少しだけ黙った。それから、目を逸らした。
「そうですか」
「壁、薄いので」
「……知ってます」
湊の在宅は、分かりにくい。足音はしないし、廊下側に窓もないので灯りも見えない。壁を通ってくる洗濯機の音で、ようやくいると分かった。だから、買ってきた。
レタスを洗いながら、真那は三つ目の袋を顎で示した。
「あ、それ、開けてもらっていいですか」
湊が袋を覗き込んで、動きを止めた。
「……食器まで買ったんですか」
「百均のものですけど」
「いや、でも」
「あった方が良いと思います」
真那は手を止めずに言った。先週この家には皿が二枚しかなくて、どちらも大きさも柄も違って、箸はなくて、ご飯はタッパーのまま食べた。必要だと思ったから買ってきた。
湊はしばらく黙っていた。黙ったまま、袋の中を覗き込んでいた。
白い無地の茶碗が二たつと、同じく無地の平皿が二枚、少し深さのある皿が二枚。それから箸が二膳。飾り気のない、客用のような一式だった。
レタスを洗い終えて、真那は調理台に移った。
湊はまた溜め息をつくと、袋ごと抱えて流しに向かった。
「洗います。使う前に」
「ありがとうございます。助かります」
狭いキッチンに、二人で並ぶことになった。
湊は背が高いので、流しに向かうと猫背がいつもより丸まる。水を出して、食器を一とつずつ手に取っていった。
湊の肘が、真那の腕に当たった。一瞬だけ、動きが止まる。
湊が少し身を引く。猫背が、さらに丸くなった。
「すみません」
真那もすぐにレタスに向き直った。
「いえ」
横目に、湊の手が映った。骨張った大きな手で、百均の茶碗を持つと、茶碗のほうが小さく見える。
一度、この手に目を塞がれたことがある。それから、息を――。
真那はぱりっと音を立てて、レタスをちぎった。あれは解呪だった。ただの解呪だ。
洗い上がった平皿にレタスを敷いて、トマトを切って並べる。買ってきたサラダチキンを手で裂いて、その上に散らした。ドレッシングは持ってきている。
コロッケは、まだ温かかった。
商店街の肉屋で、揚がったばかりのを包んでもらったものだ。紙袋の中で少し湿気てはいるけれど、歩いて十分の距離なら、まだ間に合う。
皿に二たつずつ乗せて、ソースをかけた。タッパーから茶碗にご飯を移す。今日も、炊いて持ってきた。
◆◆◆
洋室のローテーブルにお皿と茶碗と箸が並んだ。先週とは違って、食器がちゃんと並んでいる。食卓になった。
湊は今日も、ビーズクッションを押しやって、床に座った。真那はその正面に座る。
「いただきます」
「いただきます」
湊はまず、サラダのトマトを持ち上げた。綺麗な箸遣いだった。トマトを咀嚼して、飲み込む。それからご飯を一口。そして、コロッケを割って、一口。
ざくり、と衣を噛む音がした。
良かった、食べてる。そう思って、真那も自分で食べ始めた。
箸を入れると、衣がさくりと割れた。断面から湯気が上がる。じゃがいもの白さと挽き肉の茶色の上に、ソースが流れ落ちてくる。
一口食べる。ソースの酸味。ざっくりとした衣の食感。そして、挽き肉の油をたっぷり吸い込んだじゃがいものほっくりとした味。
さすが肉屋のコロッケだ。挽き肉が多い。そして、脂が美味しい。揚げ油も、良い匂いがした。
ご飯を一口。それから、またコロッケ。
肉を味わって、これだ、と思う。疲れた週の終わりに食べたいもの。元気になれるもの。肉を食べたから、また明日からも頑張れる。
「美味しそうに食べますね」
顔を上げると、湊がこちらを見ていた。見られていたことが恥ずかしくて、真那は視線を落とした。
「お肉屋さんのものなので。やっぱり、肉が良いですよね」
言ってから、何か間違った気がした。そして、そもそもの目的を思い出した。
「あ、あの。一昨日は、お菓子ありがとうございました」
今日のこれは、そのお礼。そのつもりだった。なのに、順番をすっかり忘れていた。慌てて、小さく頭を下げる。
湊はご飯を飲み込んで、箸を止めた。
「どれか、気に入ったものはありました?」
真那も箸を止めて、思い出しながら答えた。
「お芋のが、美味しかったです。甘さがちょうど良くて」
「紫芋のタルトですね。あれは芋が裏ごしされてるので、口当たりが違うんですよ。去年は紫芋だけだったんですけど、今年は安納芋のも出てて、そっちは蜜が強いので、好みが分かれると思います。栗のほうも今年は二種類あって、モンブランは毎年の定番なんですけど、今年はパイのほうが」
「詳しいんですね」
湊は、はっとしたように動きを止めて、それから目を伏せた。
「……すみません」
「あ、いえ、大丈夫です」
楽しそうに話していた湊を止めてしまった。悪いことをした気分になって、真那は話を続けた。
「あの生地、塩気がありましたよね」
「そうなんです」
湊がまた顔を上げた。湊の表情は分かりにくい。それでも今は、嬉しそうにしているのが分かった。
それで真那は、笑ってしまった。
「わたし、甘じょっぱいの、好きなんですよね。和菓子なら、みたらし団子とか」
「団子なら、あんこの方が良くないですか」
「あんこの方が甘いからですか」
「はい、だから良いんです」
言い切られた。
「若月さん、本当に甘いもの好きなんですね」
湊は躊躇いもなく頷いた。
「はい」
否定する気はまったくないらしい。生き甲斐という言葉は、本当にそうなのだろう。
コロッケの二たつ目を食べ終えて、湊は残っているサラダに箸をつけた。レタスも、トマトも、サラダチキンも、残さずに食べている。
食べてくれて良かった、と思いながら、真那も自分のサラダを食べ進めた。
食べ終えて、二人で食器を運ぶ。茶碗と皿と箸は、流しに置かれた。
湊は、それを見ていた。
「洗っておきます、作ってもらったので」
「はい、じゃあ、お願いします」
真那は、ソースとドレッシングを袋にまとめる。この部屋にもソースがあれば楽なのに、とちょっとだけ考えた。
「じゃあ、帰りますね」
「はい、ご馳走様でした」
そのまま玄関まで見送られる。
真那は湊を見上げた。
「甘いもの以外も、ちゃんと食べてくださいね」
「……善処します」
「検討よりは前進しましたね」
「そう、ですね」
湊の神妙な顔に、真那はまた笑った。
廊下に出て、自分のドアの前で振り返る。三、四メートル先で、湊がまだドアのところに立っていた。
目が合うと、湊は小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
◆◆◆
真那は部屋に戻って、鍵をかけた。
手を洗おうと洗面台に立つと、壁の向こうで水の音がした。
さっきの食器を洗っているのだろう。二たつの茶碗と、二枚の皿と、二膳の箸を。大きな背中を丸めながら。大きな手で。
水の音は、思ったよりはっきり聞こえた。真那は蛇口を止めて、しばらくその音を聞いていた。
今日も、ちゃんと食べてくれた。コロッケを二たつと、サラダを全部と、茶碗に盛ったご飯を。
タオルで手を拭いて、洗面所の灯りを消す。
壁の向こうの音は、まだ続いていた。




