第七話 生き甲斐なんです
金曜の夜のコンビニで、若月湊は籠に菓子を放り込んでいた。
特別なことがあった一日ではない。ただ、問い合わせが多かった。呼ばれて、出て、戻って、記録をつけて、また呼ばれる。眼鏡を外したりかけ直したりを何度繰り返したか、途中から数えていない。
棚の色が、先週までとは変わっている。かぼちゃ色が占めていたところに、和栗と紫芋が並んでいた。細く絞り出された茶色のモンブラン。薄い紫の渦が断面に出ているタルト。キャラメルのソースが上からかかったプリン。栗の甘露煮が一粒だけ乗った、小さなカップ。奥のほうには林檎のパイも残っている。
一とつ取って籠に入れ、隣のものも取って籠に入れた。賞味期限は見ない。見れば選ぶことになるし、選ぶのは面倒だった。面倒なことは、今日はもう全部やった。
レジに並びながら、頭の隅で保留になっているものを思い出す。
<暁の記録の書庫>の上限を上げてほしい、という要望。司書の悪魔からの返答は、まだ来ていない。来週になっても動きがなければ、こちらから様子を伺っておいたほうがいいだろう。
それくらいだった。あとは、いつもの量の、いつもの仕事だ。
袋は二たつになった。
歩き出してしばらくして、湊は自分が何をしたのかに気付いた。
多い。一人で食べきれる量ではない。
賞味期限を見ずに買うのはいつものことだが、今日は量も見ていなかった。疲れているときの買い物は、こうなる。
大通りを歩いてくると、手前の建物を過ぎたところで、駐車場越しにアパートのベランダ側が見えた。
二階の、一番手前の窓に灯りがついている。その奥の、湊の部屋の窓は暗い。
買いすぎた。隣に灯りがついている。
二たつ並べたら、答えのようなものが出た。
お裾分けをしよう、と思った。
角を曲がって、階段を上がる。上がりきって、廊下を大通りのほうへ戻る。自分のドアの前を通り過ぎて、その先まで。廊下側には窓がないので、ここからでは灯りは見えない。さっき見たものだけが頼りだった。
チャイムを鳴らす。
しばらくして、ドアが開いた。
樗木真那が顔を出した。ゆったりとしたトレーナーを着ている。部屋着だろう。髪を下ろしているところをはじめて見た。
「若月さん?」
湊は、自分がぼんやりしていたことに気付いた。慌てて口を開く。
「買いすぎたので、よかったら」
湊は袋を持ち上げてみせた。渡して帰るつもりだった。
「え、また?」
真那は袋の中身を覗き込んで、それから湊を見上げた。
「……あの、立ち話もなんですし。じゃあ、紅茶淹れますね」
断る言葉はいくらでもあった。嘘をつく必要もない。疲れているのでまた今度、で足りる。
それでも、湊は靴を脱いだ。この間、生姜焼きを作られてから、なんとなく断れないことが続いている。いや、牛しぐれ煮のおにぎりを受け取ってしまってからかもしれない。
洋室に通される。ローテーブルと、その向こうにベッド。
部屋の隅が、空いていた。
前に来たとき、そこにかぼちゃが三体並んでいた。光る顔を揃えて、菓子をよこせと騒いでいた場所だ。今は何もない。
「もういないですね」
キッチンから戻ってきた真那が、湊の視線を追った。
「あ……はい。いなくなっちゃって」
「良かったじゃないですか」
真那は何か言いかけて、やめた。
湊は袋の中身をローテーブルに出していった。和栗のモンブラン、紫芋のタルト、キャラメルプリン、ドーナツが二種類、林檎のパイ、個包装の焼き菓子がいくつか。季節限定のチョコレートもあった。並べ終えると、小さなテーブルがほとんど埋まった。
「……本当に買いすぎですね」
「これが生き甲斐なんです」
「生き甲斐」
「はい」
真那がマグカップを二たつ持ってきて、片方を湊の前に置いた。
「お砂糖、買っておきました。持ってきますね」
言われて、この前まで砂糖がなかったと思い出した。そのまま飲んだ紅茶は、渋かった。
真那は、小さなガラスのポットを持ってきた。中に角砂糖が入っている。
「いくつですか」
「四つで」
真那の手が止まった。
「四つ、ですか?」
「四つ、です」
角砂糖が、ぽとん、ぽとん、と落ちる。四つ目が沈んだところで、真那が小さく笑った。
「甘いものばかりは、体に悪いですよ」
「そういう気分なんです」
真那は何度か瞬きをして、それから不意に真面目な顔になった。
「……ご飯は、食べてるんですか」
「食べてますよ。この前、樗木さんに作っていただいたので」
「それ、先週ですよね」
「そうですね」
湊はティースプーンでかき混ぜてから紅茶を一口飲む。甘い。甘さと一緒なら、渋みもアクセントとして楽しめた。
真那は眉を寄せたけれど、それ以上の追求は諦めてくれたようだった。
「では、いただきますね」
真那はフィナンシェの袋を開けた。テーブルに並んだ中で、一番小ぶりで、一番地味なものだった。口を開いて、フィナンシェを一と口。柔らかな生地の欠片が、唇の脇に溢れた。
湊は目を逸らして、モンブランにプラスチックの匙を入れた。
綺麗に絞られた薄茶色のクリームの下から、白いクリームが出てくる。一緒に掬って口に入れると、栗の香りがした。その後から甘さが口に広がる。栗の甘さは繊細で、舌の上でほろほろと崩れ落ちていった。白いクリームと溶け合って、喉を流れ落ちてゆく。
思わず笑いそうになって、人前だったと思い出した。
誤魔化すように、口を開いた。
「今日は、呼ばれてばかりでした」
「お疲れなんですね」
「はい。でも、取引先の方がしっかりしてるので、助かっています」
言いながら、湊は灰色のローブとフードを思い浮かべていた。記録を二枚揃えて、魔法陣の写しまで挟んで持ってくる相手。ああいう人ばかりなら、一日はもっと短くて済む。
多くはそうではない。何が起きているのかも曖昧なまま呼ばれて、こちらが一とつずつ訊いて、形にしていく。形になった頃には、次の呼び出しが入っている。
「本当はもっと、一件一件に時間をかけて対応できたら良いんですけど。そうもいかなくて」
「大変ですね」
「それに、こちらから言えることも決まっているので。『契約の通りです』と、そこから先は言えない」
湊は匙を置いた。
「……あれ、言いたくて言ってるわけじゃないんですよ」
真那が、マグカップを口元に近づけたまま、困ったような顔をした。
「……すみません。言われる側の気持ちを、ちょっと思い出してました」
「あ、そうですよね。すみません」
「いえ、若月さんが謝ることでは」
しばらく、二人とも黙っていた。
それから湊は、余計なことを言ってしまったことに、気付いた。魔術師に聞かせる愚痴ではなかった。
「……本当に、すみません」
「大丈夫ですよ」
真那は、何を思い出したのか、小さく息を吐いた。
「やること、いっぱいありますもんね」
「そうなんですよ」
「わたしもです」
真那が、マグカップをローテーブルに置いた。そして、その理知的な瞳が湊に向く。
「でも、取りこぼさないことが大事ってことも、あると思います」
湊は顔を上げた。
「取りこぼさない」
「はい、取りこぼしって、あとから誰かが困るんですよ。わたしもこの前、それで振り回されたので」
そう言って、真那は小さく笑った。
湊はその表情から視線を逸らした。テーブルの上には、まだ菓子が並んでいる。
「そうだ、これ、食べてみてください。季節限定なので」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
湊が勧めるまま、真那は紫芋のタルトを引き寄せた。それから、湊のマグカップを見た。
「紅茶、もう一杯淹れますね」
断ろうと思えば、断れた。けれど、湊は頷いてしまった。
「はい、いただきます」
真那がマグカップを持って立ち上がる。
湊はモンブランの続きを食べた。
一件にかけられる時間が短いことを、湊はずっと、足りないことだと思っていた。それでも、全部に対応している。そのこと自体に、意味はあるのかもしれない。
キッチンから湯を沸かす音がする。真那が戻ってくるまでのあいだ、湊はローテーブルの上を見ていた。まだ半分以上残っている。
ドーナツを片方手に取った。これも季節限定の味で、大学芋ブリュレと書いてある。蜜のように艶々したグレーズの表面に、黒胡麻が散らしてあった。
ざっくりとしたオールドファッション生地に芋が練り込んである。グレーズは歯を立てるとぱりっと割れて、その下の蜜がねっとりと重い。口の中がたっぷりと甘く満たされた。こちらの口内を埋め尽くさんとするドーナツを蹂躙するように噛んで、飲み込む。指についたグレーズを舐める。黒胡麻の匂いがした。
マグカップを持って戻ってきた真那が、笑った。
「若月さん、本当に美味しそうに食べますね」
「それはもう、生き甲斐なので」
「お砂糖、今度も四つで良いんですか」
「はい、四つで」
ぽとり、ぽとり、とマグカップに角砂糖が四つ、落とされた。




