第十話 焼肉はちょっと
金曜の朝、樗木真那が部屋を出ると、隣のドアも同時に開いた。
若月湊が出てくる。地味なスーツに、地味なコートを着ている。ぼさっとした黒髪、黒縁の眼鏡。そして、少し猫背。いつもの格好だった。
「おはようございます」
「おはようございます」
ちょうど良かった、と真那は思った。
二人で階段を下りて、脇道から大通りのほうへ出る。駅までは十分ほどの道だ。
真那は、隣を歩く湊を見上げた。
「あの、若月さん」
言うことは、決まっている。
解呪してもらって、甘いものをもらって、この間はお菓子まで使わせてしまった。お礼が溜まる一方だった。夜に訪ねるのは遅すぎて気が引けるし、湊は足音がしないので、いつ出かけるのかも分からない。だから今朝は、ちょうど良かったのだ。
湊は、首を傾けてこちらを見下ろした。
「はい」
「いつも助けてもらっているので。今度、焼肉に行きませんか」
「肉はちょっと」
即答だった。
真那は口を閉じた。
甘いものが好きな人だとは知っている。知っていて、それでも肉を選んだ。疲れたときに食べるものといえば肉だし、甘いものばかりの食生活も心配だったからだ。
真那は俯いた。自分の爪先を見る。断られたことが、自分でも意外なほど、ショックだった。
しばらく黙って歩いた。
「あの」
湊の声に、真那は顔を上げた。高い位置にある顔を見上げる。相変わらず、表情は分かりにくい。
「なんでしょうか」
「代わりに、スイーツビュッフェに行ってくれませんか」
「え」
「男一人だと、行きにくくて」
真那は瞬きをして、湊を見た。
スイーツビュッフェ。真那は行ったことはないが、きっと客層は女性が多いのだろう。確かに男の人が一人で入ったら、変に目立ちそうだ。
湊は、少しだけ目を伏せた。
「一緒に行ってもらえると、助かるんですが」
「えっと……はい、行きます」
「良いんですか」
「はい。でも、それだとお礼になってないですよね」
「なりますよ」
なるだろうか、と真那は考えた。こちらから誘った焼肉は断られている。だったらやっぱり、お礼にはなってない気がする。
真那が考えている間、湊も少し黙った。それから、また真那の方を向く。
「来週の土曜は空いてますか。二十二日」
真那は頭の中でカレンダーを思い出す。月末に向けて仕事は詰まっているけれど、三連休の初日だ。
「空いてます」
「では、三時からの回にしましょう。新宿のホテルの高層ラウンジです。二時過ぎに出れば間に合います」
「ホテル、ですか」
真那はクローゼットの中を思い返す。ホテルなら、それなりの格好をしないといけないのではないだろうか。何を着ていこうか。
湊が、少し身を屈めて真那の顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか」
真那が黙ってしまったから、不安になったのかもしれない。真那は慌てて頷いた。
「はい」
「じゃあ、予約しておきます」
「はい、ありがとうございます」
そこまでお膳立てをしてもらって、やっぱりこれは、お礼になってないと真那は思った。せめて、お会計は出したい。
湊はまた前を向いた。
「当日、迎えに行きます」
当たり前のように、そう言った。
真那はどうやったらお礼になるかと考えていた。
「失礼」
不意に、湊の手が真那の肩を抱き寄せた。
真那の足が一歩、湊のほうに踏み出す。真那の肩が湊の胸にぶつかる。
その脇を、自転車が走り抜けていった。
それを見送ってから、湊は慌てたように手を持ち上げた。
「あ、すみません」
「いえ」
真那は一歩、湊から離れる。いつも通りの距離に戻る。
それから、ふと気付いた。湊の歩く速さが、自分と同じだということに。
湊は背が高い。そのぶん足も長い。だから普通に歩けば、もっと速く歩けるはずだ。なのに、今は隣で、並んで歩いている。
真那は湊を見上げた。何を考えているのかは、やっぱり分からない。
肩には、大きな手の体温が、まだ残っている気がした。
◆◆◆
事務所に着いて、机の上の書簡帳を開く。二冊に連絡が届いていた。両方とも、その場で返信までしてしまう。
それから契約書の束を一冊ずつ開いていく。開いて、最後の頁を見て、閉じる。
<月と物語りし悪魔>の契約書には、何も書かれていない。
<暁の記録の書庫>の上限を上げてほしい、と要望を出してから十日になる。少々お時間をいただきます、とは言われていた。実際に、時間がかかっているのだろう。
閉じて、次の一冊を開く。
途中で、隣の席から声がかかった。
「樗木さん、何か良いことでもあった?」
顔を上げると、鏑木がモニタからこちらに視線を向けていた。
「え……そう見えますか?」
「なんとなくだけど、表情が」
真那は、自分の頬に手を当てた。
「表情、違いますか」
「機嫌良さそうだなって」
鏑木はそれだけ言って、モニタに戻った。
真那は手を下ろして、その手を見た。手を見ても、自分の表情は分からない。
けれど、外からはそう見えるらしい。
心当たりがあるかと言われれば、ある。スイーツビュッフェだ。
そこで、はじめて気付いた。甘いものにそこまで興味はないけど、それでもスイーツビュッフェを楽しみにしている。一度も行ったことがない。甘いものがたくさん並んでいる様子は、きっと綺麗だろう。ホテルの高層ラウンジだってそうだ。きっと景色は良いだろう。
そうか、楽しみなんだ。
真那は胸元を一度押さえてから、次の契約書を開いた。
午後、事務所の奥の棚に向かう。
契約精霊たちが住んでいる棚だ。器は精霊によって違っていて、鳥の巣箱のようなもの、小さな壺、硝子瓶、蓋つきの籠、植木鉢が並んでいる。棚を見渡すだけで、何種類もいるのが分かる。
「おなか すいた」
巣箱の中から声がした。よく喋る精霊だ。
「はい、どうぞ」
真那は瓶の蓋を開けて、金平糖を一粒、巣箱の口から落としてやる。
「おなか すいた」
別の器からも声がする。そちらにも、金平糖を一粒。
「せまい」
硝子瓶の中の一体が言った。真那は棚の下から一回り大きな瓶を出してきて、中身ごと移し替える。手間のかかる作業だった。
「おなか すいた」
また別の器から声がした。両手が塞がっている。
急いではいない。声を聞けば分かる。同じ言葉でも、今すぐなのか、あとででいいのかは違う。
真那は瓶を支えたまま、そちらへ小さく頷いてみせた。
移し替えの途中でも、声は次々にあがる。
「あつい」
「さむい」
「くうき わるい」
「ちょっとだけ待ってください」
硝子瓶を移し終えて、棚に収める。それから、待たせていた器に金平糖を一粒落とす。
「お待たせしました」
そして、棚全体を見回した。
「あつい」
「さむい」
「くうき わるい」
さっきの精霊たちが、まだ騒いでいる。
それらを聞きながら、器を並べ替えていく。窓に近いもの、遠いもの。棚の上と下。何度か行ったり来たりして、全部の落ち着き先を決めた。
一番端の植木鉢は、何も言わない。
小さな人の形をした精霊で、頭がフウリンソウの花になっている。今日は、その花が俯いていた。
ほかの器が賑やかなので、黙っている一体は埋もれる。見に行かないと気付けない。
真那は如雨露を持ってきて、土に水をやった。水が染みていく。
「今日は、お天気良いですよ」
返事はない。
「昨日より暖かいです。この時期にしては」
やはり返事はない。真那は構わずに続けた。
「来週、三連休なんですよ。わたし、出かけるんです」
しばらく、そうしていた。
やがて、花から声がした。
「さみしい」
小さな声だった。
「はい」
真那は頷いて、話を続けた。
「来週、スイーツビュッフェに行くんです。高いところでお菓子をたくさん食べるんですよ」
フウリンソウは、まだ俯いていた。
「高いところから見たら、きっと遠くまで見えますね」
少しずつ、フウリンソウの花が持ち上がる。
「お菓子も、どんなものがあるんでしょうね」
フウリンソウが、真那の方を見た。それで、真那は笑った。
「また明日も来ますね」
棚を端から端まで見て回って、全部の器に手を入れた。いつも通りだった。
真那は如雨露を片付けて、自分の席に戻った。机の上には、まだ契約書が積んである。
来週の土曜まで、あと八日。
真那は一番上の契約書を引き寄せて、表紙を開いた。




