第十一話 ご無理なさらないでください
火曜の午後、社内チャットで返事が来た。
若月湊は、その返信を三度読み返した。
<理と若木の魔術師>からの要望について、<暁の記録の書庫>の司書の悪魔からだった。返信が遅かったので、先週、様子を伺うメッセージを入れてある。そこからさらに一週間待った。
参照できる頁数の上限を引き上げる。そのために、新しい上限を提示するように、とあった。
それを読みながら、湊は頭の中で手順を整える。
今の契約書には古い上限が書かれている。それを新しい文面に書き換える必要がある。その際に新しい上限を適切に決めて、それを司書の悪魔に伝えなければならない。そして、新しい文面で契約を結び直せば、問題は解決する。
司書の悪魔が何を基準にしているのかは、湊にも分からない。きっと、どの僕も分かってないだろう。悪魔には悪魔の基準と判断がある。
だから、今回の件も受け入れられないだろうと思っていた。もしそうだったら、あの魔術師には残念なお知らせをすることになっていた。
けれど、受け入れられた。仕事は増えるが、それは喜ばしいことだった。
この件のはじまり、契約の通りです、としか言えなかった自分を思い出す。お役に立てず申し訳ございません、とも言った。記録に書けることがなかった。
けれど、今日は違う。
湊は席を立って、上司の望月のところへ行った。
「<若木>の書庫の件、上限の変更が通りました。契約を結び直します」
望月は、モニタから目を離して湊を見上げた。
「どのくらいかかりそう?」
「儀式が何回か。相手の予定次第ですが、二週間で終わると思います。余裕を見るなら、三週間」
「そう。月末と重なると厄介だね。ミスのないよう進めて」
「はい」
湊の返事を受けて、望月はまたモニタに向かった。指先がキーボードの上で動き始める。
席に戻って、契約書を呼び出す。黒い表紙に、金の線で魔法陣が描かれている。
最後の頁を開いて、白紙の部分を指先でなぞる。そこへ、文字が浮かんでゆく。
――我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、謹んで告ぐ。
――<暁の記録の書庫>の参照の上限、改むること能う。ただし契約の結び直しを要す。
――儀式にて、段取りを定められたし。
古めかしい言い回しだが、中身は上限を上げられるので契約を結び直しましょう、日程をください、というだけのことだ。
文面を読み返して、契約書を閉じる。
あとは、向こうが見に来るのを待つしかない。
こちらから呼ぶ手段はない。いつ開かれるのかも分からない。明日かもしれないし、来週かもしれない。
社内チャットなら一秒で届く。隣の席なら、声をかければいい。手段はいくらでもあるのに、魔術師相手には使えない。
書いたものが読まれたかどうかさえ、呼ばれるまでは分からなかった。
湊は次の案件に移った。
◆◆◆
翌日の夕方、遅い時間に呼び出しが入った。<若木>からだった。
定時のぎりぎりだった。今から応えて話していたら、定時を過ぎるだろう。だからもう時間外だ、と無視することもできた。
それでも、髪を撫で付け、眼鏡を外し、黒い革手袋をはめた。
石を敷き詰めた床と壁、わずかな照明。灰色のローブとフードが、短剣の向こうに座っている。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕の一人が、<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」
いつもの口上を返して、頭を下げた。
「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」
「遅い時間にすみません」
「いえいえ、まだ時間内ですよ」
ぎりぎりだ、ということは相手も知っている。それでも連絡してきたのだ。だから湊はそのことについて、何も言わなかった。
「契約書を拝見しました。契約の結び直しを、お願いしたいです」
相手は今日も資料を揃えていた。今の上限が書かれた条項の写し、これまでの参照の記録、それから変更後にどのくらい使う見込みかをまとめた一枚。
湊は順に目を通していく。並べ方に迷いがない。
「では、現状の確認から始めましょう。今どこまで使っているかを、記録で押さえます。そのあと条件のすり合わせで、新しい上限をどこに置くかを決めます」
「はい」
「それから、こちらで契約書の文面を用意して、ご確認いただきます。最後に締結です」
「それぞれ、儀式が必要になりますよね」
「はい。そうですね」
「……何回になりますか」
「最低で三回です。すり合わせが一度で済まなければ、もう一回」
フードが小さく動いた。頷いたようだった。
「わかりました」
「では、次の日程ですが、ご都合の良い時間帯はございますか」
そこで、相手が黙った。
資料を手際よく揃えてきた相手が、都合の良い時間はすぐに出せないでいる。
待っていると、やがて魔術師の声がした。
「……今週の金曜でしたら。あ、でも、その日は夕方しか空いていなくて」
「私のほうは、遅い時間でも構いません」
「すみません。もう少し早い時間が取れると良いんですが、こちらの儀式室が」
「いえ」
候補に挙がるのは、どれも遅い時間だった。この魔術師が何を抱えているのかは、湊には見えない。見えるのは、空いている時間の少なさと、疲れていることだけだ。
声は変質しているので、調子までは読めない。それでも言葉と言葉のあいだが長いし、背中がいつもより曲がっている。フードの中で、一度だけ長く息を吐くのも聞こえた。
きっと仕事の合間を縫って、儀式をしているのだろう。
段取りを決め終えて、魔術師は短剣に手を伸ばした。湊は体を引いた。
そして、気付いたら口を開いていた。
「あまりご無理なさらないでください」
魔術師の手が、止まった。
湊も、動きを止めてしまった。自分でも、どうしてそんなことを言ったのか、分からなかった。
業務の範囲でもない。契約でもない。
誤魔化すように、お辞儀をした。
「何かございましたら、いつでもお呼び出しください」
それは、いつも言っていることだった。いつもと同じ調子で言えた。
魔術師は、短剣を握った。
「……ありがとうございます」
声は変質している。それでも、その一言だけは柔らかく聞こえた。
それから、何事もなかったかのように短剣を持ち上げた。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
その口上は、いつもより少しゆっくりに聞こえた。
湊は頭を下げた。煙の中を、戻ってゆく。
◆◆◆
帰りに、コンビニに寄った。
棚は先週と似た色をしている。和栗と紫芋。渋皮煮が一粒乗ったタルトと、紫芋の鮮やかなロールケーキが、新しく並んでいた。端のほうには、もうクリスマス色の箱が積んであった。気が早い。
モンブラン、芋のタルト、渋皮煮のタルト、ロールケーキ、それから季節限定のチョコレートをいくつか。賞味期限は見ない。
部屋に帰って、膝を折って冷蔵庫に詰めて、部屋着に着替える。紫芋のロールケーキを手元に残した。
ビーズクッションに沈んで、タブレットを引き寄せる。骨伝導イヤホンを耳にかけて、音量を絞った。動画はなんでも構わない、煩くなければ。
ロールケーキの袋を開けると、クリームの甘い匂いが誘惑するように漂ってきた。
期待に口角が上がる。薄い唇が三日月の形になった。
口を開けて、ロールケーキに噛み付いた。紫色の生地は少しの抵抗を見せたが、すぐに大人しく歯を受け入れた。そして、クリームに辿り着く。
薄紫色のクリームはスポンジ生地に纏わり付いていたが、抵抗にすらならなかった。湊の口の中で、スポンジ生地とクリームが、溶け合うように崩れてゆく。咀嚼するたびに、甘い。
唇の端についたクリームを親指で拭って、舐める。芋のねっとりした甘さが感じられた。
そのとき、廊下から足音がした。
手が止まる。
隣の樗木真那が帰ってきたのだ。湊のドアの前を通って、その先の自分の部屋へ。鍵の音がして、ドアが開いて、閉まった。
時計を見る。湊も今日は残業をした。その湊よりも、遅い。
また何か抱えているんじゃないか、と思った。
あの人は、困っているものを見ると引き受ける。あの一本足のかかしも、その前のかぼちゃも。拾って抱えてしまう人だ。仕事で同じことをしていない保証はない。
湊は、食べかけのロールケーキを見た。
もう一と口、と思うのに、しばらく動けなかった。




