第十二話 段取りが悪いのかも
樗木真那は机にトートバッグを置いて、まず書簡帳を開いた。
取引先ごとに一冊ずつある薄い帳面を、順に見ていく。最後の頁を見て、連絡が届いているものを机の中央に選り分けてゆく。いくつかの書簡帳で新しい連絡が届いていた。返信に確認が必要なものもあった。今日やることが増える。
それから、契約書の束を開いていく。黒い表紙に金の線の、分厚くて重い本。一冊ずつ開いて、最後の頁を見て、閉じる。
<月と物語りし悪魔>の契約書を開いた。
――我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、謹んで告ぐ。
――<暁の記録の書庫>の参照の上限、改むること能う。ただし契約の結び直しを要す。
――儀式にて、段取りを定められたし。
昨日の朝に見つけたまま、新しい書き込みはない。段取りは昨日の儀式で決めてあるので、それでいい。あとはこちらが手を動かす番だった。
他の契約書では、月末の契約更新についての連絡もあった。予定が、また積み上がる。
すべての契約書を確認して、書簡帳に返事もして、それからPCでスケジュールを開く。
月末の準備が並んでいる。更新の時期が近いもの、手順の変わったもの、確かめておきたいもの。十一月も、残り少ない。
その予定を縫うように、<月語>との予定が入っていた。明日の金曜に、条件のすり合わせ。来週の火曜に、契約書の文面の確認。そして水曜に、締結。
儀式室の予定表には自分以外の名前も並んでいて、早い時間はどこも埋まっている。夕方より後の予定になってしまったのは、そのためだった。
真那は、そのまま記録の画面を開く。<暁の書庫>を使っている魔法陣の記録だ。
明日の条件のすり合わせでは、記録をまとめて持っていく必要がある。
<暁の書庫>をこれまでどれだけ参照してきたか。どの本の、どのあたりを、月にどのくらい。それを洗い出して並べて、新しい上限で足りるかどうかを確かめる。足りない上限に書き換えてしまったら、結び直した意味がない。
記録は何年分もあった。真那がここに来る前のものもある。数を拾って、月ごとにまとめていく。数字が並び始めると、少しだけ楽しくなってくる。こうやってまとめると、参照する頁数が年々増えていく様子がはっきりする。
それから、契約書のほうを当たる。
上限が変われば、契約の文面も変わる。それによって、影響を受ける条項がどのくらいあるかは、見てみないと分からない。
そもそも上限があること自体、前任者の引き継ぎから漏れていた。それに振り回されたばかりだった。だから今度は、端から全部を当たることにした。
途中で、別の契約の問い合わせが入った。頁を閉じて、そちらを片付ける。隣の席の鏑木に声をかけられて、去年の更新の記録がどこにあるかを答える。戻ってくると、どこまで見たのか分からなくなっていて、挟んだ付箋を目印に探し直した。付箋は、朝より増えている。
昼休みで立ち上がりかけていた小檜を捕まえる。今月のはじめに一時対応として魔法陣を書き換えたのは、小檜だ。締結が済んだら、あれを元に戻す必要がある。その依頼だった。
「戻すのは締結のあとでいいよね。その日、空けとく」
「お願いします」
小檜は頷いた。
「じゃ、ご飯食べてくる」
そう言って、行ってしまった。
真那の方は、休憩を取りそびれていた。契約書を広げたまま、パンの袋を開ける。
クリームパンだった。今朝、駅前のコンビニで若月湊にもらったものだ。レジで並んでいるときに行き合った。コンビニを出たところで、「これ、どうぞ」と一とつ差し出された。真那も袋から一とつ出して、「じゃあ、これを」と渡した。それから「月末ですね」と話しながら歩いた。
自分では選ばないもの。けれど、もらってしまった。
生地はふんわりと柔らかい。割ると、中身のカスタードが溢れてくるほど詰まっていた。一と口食べると、鼻にバニラの匂いが抜けていった。そして、甘い。柔らかな生地と、甘いカスタードが混ざり合って、舌を優しく撫でてゆく。
ほっと息をついた。肩に入っていた力が、少し抜けた気がした。
疲れたときには甘いもの、とあの人に言われたことがある。その気持ちが、今なら少し分かる。
指についたクリームを舐めて、ウェットティッシュで拭くと、真那はまた立ち上がった。奥の棚の精霊たちを見にいかなければならない。
いつものように、金平糖を落として、器の並びを直して、端の植木鉢に水をやる。
「今日は、クリームパンを食べました」
フウリンソウの花が、少しだけ持ち上がる。そのまましばらくパンの話をして、花がすっかり上を向いてから、真那は席に戻った。
夕方になって、真那は手を止めた。
条項の洗い出しは、予定の半分も終わっていなかった。
顔を上げると、隣の席の鏑木がモニタに向かっている。今は新しい案件の魔法陣を作っていて、ちらりと見えたスケジュールは、予定通りに進んでいるようだった。
少し離れた席では、小檜が帰り支度をしている。いつもの時間だった。
みんな、それぞれ仕事を回している。
わたし、段取りが悪いのかな。
真那はまた、スケジュールを確認した。金曜日までは仕事が詰め込まれている。
土曜に、と約束した。迎えに行きます、とも言われた。あと二日。
真那は付箋を一枚剥がして、次の頁を開いた。
◆◆◆
その日、若月湊は朝から四度呼ばれた。
立ち上がって髪を撫で付け、眼鏡を外して机に置き、黒い革手袋をはめる。石の部屋で口上を返して、頭を下げて、「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」と言う。用件を聞いて、契約書を呼び出して、できることとできないことを分けて示す。
戻って眼鏡をかけ直すと、チャットに未読が溜まっている。他チームからの確認、来週の会議の日程、誰かが貼った契約番号。読んで、必要なものだけ返して、次を開いたところで、また呼ばれる。
四度目から戻ってきたときには、午後になっていた。
その合間に、<理と若木の魔術師>の結び直しの準備を進める。
新しい上限の文面を、悪魔に合わせて契約の文面に書き換える。中身はただの条件だが、それをただ書くだけでは司書の悪魔は受け取らない。
過去の条項を確認しながら、新しい文面を書く作業は、慣れている。だからといって、速く書けるわけではない。
ようやくできた文面を司書の悪魔に送って、確認してもらう。社内チャットなので、返事は速い。速いけれど、短い。問題があるか、ないか。それだけだ。
通らなかった文面を、どこが悪いのかと眺める。大抵の場合、理由は教えてもらえない。悪魔には悪魔の基準と判断がある。言い回しを少し変えて、言葉を少し変えて、もう一度送る。また短い返事が来る。問題は、ある。なかなか通らない。
その作業の合間に、昨日の儀式で控えた資料を確認する。あの魔術師が掲げた三枚の資料は、しっかりとまとまっていた。明日、また改めて記録を確認して持ってくると言っていた。
気付けば、三時近くになっていた。昼を食べ損ねていた。
モニタに資料を開いたまま、パンの袋を開ける。ベーコンチーズパンだった。
自分で買ったものではない。朝、駅前のコンビニで真那に渡されたものだった。自分では買わない類いのパンだ。
チーズの匂いが強い。一と口齧ると、しょっぱい。ベーコンとチーズの脂が口に広がる。そして、チーズの匂いと胡椒の刺激が鼻に抜けた。噛みちぎって、唇についた脂を舐める。パン生地はふかふかと柔らかく、脂を吸い込んだ部分はしっとりしていた。飲み込めば、腹の底にずしりと溜まる感じがした。
隣の席の月岡が、振り向いた。
「珍しいもの食べてるね」
「もらいものです」
「へえ」
月岡はすぐにモニタに向き直った。
確かに、珍しい。職場で甘いもの以外を食べるのは、はじめてかもしれない。
そんなことを思いながら、湊は残りも食べた。
そこから更に、二度、呼ばれた。
その日の対応記録をまとめはじめたのは、夜になって定時を過ぎてからだった。
一件ずつ、用件とその対応をまとめてゆく。
書き終えて、画面を眺める。
件数はいつもと変わらない。変わらないのに、時間内に収まっていない。
前より、段取りが悪くなっているのか。
一と息ついてスマホを開く。
ブックマークには、甘いものの店ばかりが並んでいる。行った店は少なく、行きたい店ばかりが増える。季節ごとにメニューの変わる店もある。その中の一とつが、土曜のホテルのラウンジだった。
前から入れてあったものだ。いつ入れたのかは、もう覚えていない。
今は和栗のフェアをやっている。予約したのも、それだ。写真をタップして、少し眺める。モンブランの絞りが、細い。和栗と抹茶のオペラは、断面が緑と栗色で綺麗だった。
土曜まで、あと二日。
湊はスマホを伏せて、契約書の案に戻った。




