第十三話 スイーツビュッフェ
土曜の午後、樗木真那は支度を終えて、クローゼットの扉の鏡に向かっていた。
鞄は、いつもの大きなトートバッグではなく、小さいものを出してきた。財布とスマホとハンカチだけを入れると、持ったときに頼りないくらい軽い。髪は下ろしてある。トップスは細い糸のアイボリーのニット。ブラウンのチェックのスカートは、買って一度着ただけのものだった。
スカートを穿くのは久し振りだった。ホテルだから、という理由がなければ、今日も穿かなかったかもしれない。
時計を見ると、二時を過ぎたところだった。
チャイムが鳴って、真那は肩を跳ねさせた。
若月湊は足音がしないので、いつ来たのかが分からない。廊下を歩いてくる音も、ドアの前で止まる音も、何も聞こえなかった。
ドアを開ける。
湊が立っていた。
細身のチャコールグレーのジャケットに、それよりわずかに濃い色のタートルネック。紺のパンツはまっすぐで、足の長さがはっきりと出ている。ネイビーのコートは腕にかけていた。
目にかかるほどの前髪と、野暮ったい黒いフレームの眼鏡がいつも通りで、真那は少しほっとした。
湊は黙っていた。黙って、真那を見下ろしている。
真那は自分の襟元に手をやった。
「……何か、おかしかったですか?」
ホテルに合わない格好だっただろうか。
「いえ」
湊は、ふいと視線を逸らした。
「……行きましょうか」
◆◆◆
高層階のラウンジの入り口で、コートを預ける。キャメルとネイビーが並んで持っていかれた。
中に入ると、壁の一面が窓だった。
案内されたのは、その窓に向かって並んだ席だ。窓の外には、街が広がっていた。ビルが幾何学模様みたいに並んでいて、その向こうに山の稜線が薄く見える。上から見ると、街は静かだった。
周りの席を見ると、女性同士の二人連れか、男女の二人連ればかりだった。男の人が一人で入るのは、確かに難しそうだ。
湊は、ジャケットの袖口を直していた。折り目が真新しくて、生地がまだ硬そうに見える。新しい服なのかもしれない。
そう思って見ているうちに、胸のポケットに気付いた。蓋の上を、白い糸が粗く縫い留めている。
「若月さん、それ」
「はい」
「ポケット、しつけ糸がついたままです」
湊は自分の胸元を見下ろした。それから、真那を見た。
「……どうすれば」
「引っ張れば取れます。失礼します」
真那は身を乗り出して、糸の端を摘んだ。ゆっくり引くと、粗い縫い目が順にほどけて、白い糸が一本、すっと抜けた。
その間、湊は動かなかった。
「取れました」
真那は糸を指に巻き取って、小さな鞄に入れた。
「……ありがとうございます」
湊はポケットのあたりを手で押さえて、それから窓のほうを向いた。
「……取ってきましょうか」
「いえ、自分で行きます」
真那が立ち上がると、湊も立ち上がった。
台には、和栗が並んでいた。
細く絞られたモンブラン。和栗とほうじ茶のムースは二層になっていて、上が栗色、下が茶色をしている。和栗と抹茶のオペラは、緑と栗色が交互に重なった断面を見せていた。プリン、ミニパフェ、チーズケーキ、カヌレ、それから渋皮栗のテリーヌ。ぶどうのジュレが、彩りのように端に置かれている。
湊は、迷わなかった。
皿の上に、何か基準があるらしい。カヌレを端に寄せて、テリーヌはその隣に立てるように載せた。ムースのカップは反対側。組み立てる、という言い方が合っている手つきだった。
「これ、絞りが細いんですよ」
湊がモンブランを皿に載せながら言った。
「細いほうが、口の中で早く崩れる。太いと、栗が塊で来ます。それも悪くないんですが、今日のはこっちです」
「そういうものなんですか」
「そういうものです」
湊は頷いて、次は和栗と抹茶のオペラを皿に載せた。
台の端まで行くと、軽食のコーナーがあった。
大きな皿に、薄く切ったローストビーフが並んでいる。横にソースとクレソン。
肉があることに嬉しくなって、真那はローストビーフを何切れか皿に載せた。クレソンを添えて、ソースをかけた。
席に戻ると、湊が真那の皿を見て、困惑したように眉を寄せた。
「……ここ、スイーツビュッフェですよ」
「ありましたよ、ローストビーフ」
「ありましたけど。樗木さんも、ぶれないですね」
「そうでしょうか」
ローストビーフは、脂の少ないところを薄く切ってあって、噛むと肉の味が濃かった。ソースの酸味はさっぱりとしていて、玉ねぎの甘みもあって、肉の味にちょうど良い。しっかり食べた、と満足できる味だった。
湊は、ほうじ茶のムースから始めた。匙を入れると、栗色の層と、下の茶色の層が混ざりあう。掬って口に運ぶと、しばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「これ、下のほうが苦いんです」
「苦いんですか?」
「ほうじ茶が効いてるので。それが、和栗の渋さとはまた違う味で。それを全体の甘さでまとめてるんです。渋さと甘さの調和が絶妙で、だから食べられるんです」
一息に言ってから、湊は二た匙目を口にした。ほう、と息を吐き出して、口元がほころんだ。柔らかくて、幸せそうな笑顔だった。
「本当に生き甲斐なんですね」
「それはもう。これなら、いくらでも食べられます」
真那もちょっと笑った。この人なら確かに、いくらでも食べられるだろう。
紅茶が運ばれてくる。湊は、角砂糖を四つ落とした。真那はもう、何も言わなかった。
二度目に台へ行ったとき、真那はモンブランを一とつ取った。
席に戻ると、湊は真那の皿を見ていた。何も言わずに真那の顔を見て、それから少し微笑んだ。
真那は手元に視線を落とした。湊が言う通り、ケーキを飾る栗のクリームは細く絞られている。フォークを入れると、中のクリームも栗色をしていた。それを口に運ぶ。ほろりと崩れ落ちて、口の中でほころぶように甘さが広がった。栗の香りはふくよかだった。
クリームは甘過ぎず、真那も気に入った。
◆◆◆
窓の外が、暮れていく。
ビルの輪郭が滲んで、下のほうから順に灯りが点いていった。四時半を回ったところだ。並んで座っているので、二人とも同じものを見ている。
互いの顔は、振り向かないと見えない。それが、気楽だった。
湊が立ち上がったのは何回になるだろう。今は和栗と黒蜜きなこのミニパフェを食べている。
真那は、黒蜜の艶々とした色を見ながら、紅茶のカップを持ち上げた。
「最近、やることが多くて」
一と口飲んで、言葉を続ける。
「自分の手際が悪いのかなって、思うんです」
湊が、パフェを食べていた匙を止めた。
「俺も、そう思ってるんです」
真那は、瞬きをした。
「若月さんも、ですか」
「はい。前より、遅くなってる気がして」
湊は、匙をフォークに持ち替えて、飾られていた栗を突き刺した。
「一件ずつ、ちゃんとやろうとするんです。そうすると、次が詰まる。詰まらないように急ぐと、今度は雑になる。どっちにしても、あとで自分に返ってくるんですよ」
「……分かります」
真那は紅茶のカップを置いた。
「わたしも、終わらないんです。終わらないから残って、残ったぶん次の日がずれて。それで、どこかで間違えるんです」
「ありますね」
「周りの人は、ちゃんと回してるんですよ。それを見ると、余計に」
「それも、ありますね。分かります」
「大変ですよね。やることは多いし」
「そうなんですよ」
前にも、こんなことがあった。月末までの仕事があって、と言ったら、俺もです、と返ってきた。あのときも、同じ相槌だった。
真那は湊のほうに顔を向けた。
湊も、こちらを見ていた。
目が合って、二人で少し笑った。
自分の手際の問題だと思っていた。それは自分の問題で、だから人に話すことじゃないと思っていた。
それでも今、そのことを話した。聞いてもらえた。同じだった。自分だけじゃなかった。それだけで、気持ちが少し楽になった。
湊は、フォークで突き刺した栗を口に入れた。そしてまた、パフェに向き直る。
真那はまた窓のほうを向いて、紅茶を飲んだ。ぬるくなっていて、飲みやすかった。
◆◆◆
時間が来て、伝票が運ばれてくる。
真那は先に財布を出した。
「今日は、わたしが」
「いえ、俺の希望なので、俺が出します」
「いつものお礼なので」
真那は引かなかった。解呪してもらって、甘いものをもらって、今日は予約まで取らせている。そのうえ、会計まで出してもらうのは申し訳ない。
湊は、少し黙った。
「……では、それぞれで」
落としどころとして、それは正しかった。正しいので、真那は断れなかった。
また、お礼にならなかった。
◆◆◆
アパートに着いた頃には、外はもうすっかり暗かった。
階段を上がって、廊下を歩く。湊のドアの前を通り過ぎて、その先が真那の部屋だ。
湊は真那の部屋の前まで一緒に来た。真那の部屋の前で、二人で足を止めた。
真那が見上げると、湊はいつもより柔らかな表情をしていた。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
先に言ったのは、湊のほうだった。
「わたしも、楽しかったです」
真那は、そう答えた。嘘ではなかった。ビュッフェは綺麗だったし、栗は美味しかったし、高いところから見る街は静かだった。
「じゃあ、また」
「はい、また」
真那がドアを閉めるまで、湊はそこにいた。
部屋に入って、コートを脱ぐ。クローゼットを開けて、スカートは奥に戻さずに、手前に掛けた。
そのとき、クローゼットの壁の向こうで、冷蔵庫を開ける音がした。少し間があって、閉まる音。
あれだけ食べたのに、まだ食べるのか。
真那は、ラウンジで笑っていた湊の顔を思い出した。口元がほころぶような、あの笑い方。きっと今も、壁の向こうで同じ顔をしているのだろう。
真那は、一人で笑ってしまった。




