第十四話 お疲れ様でした
樗木真那は、その日の朝も、書簡帳と契約書の確認から仕事を始めた。
月末に向けて連絡が必要な書簡帳が何冊か。それと、返事が必要な連絡も二たつあった。契約書に新しい書き込みはないが、月末に向けた予定が入っているものはいくつかある。
特に、<月と物語りし悪魔>との契約の結び直しは、今日だった。連絡がないということは、直前の予定変更はない、ということだ。ほっとする。
儀式室は、午後の遅い時間を押さえてある。
一日の仕事を終えてから、ロッカールームで、いつもより丁寧に支度をした。
仮面を手に取って、縁を指でなぞる。前任者から引き継いだものだ。灰色の漆が擦れて、下の木地が覗いている。塗り直すほどではない。漆は乾くのに日数がかかるので、どちらにしても今日は直せない。真那は布で表と裏を拭いて、それから顔に当てた。
ローブは、掛け直しの記録を確かめてから羽織った。期限はまだ十分に残っている。裾の皺を手で伸ばして、フードを整えた。
こうして整えたところで、相手に見えるのは灰色の塊でしかない。それでも、今日は整えた。
備品置き場で短剣と畳んだ布を出す。契約書は自席から持つ。三つ抱えて、廊下を歩いた。
儀式室で布を広げ、短剣を抜いて前に置く。あぐらをかいて、膝に契約書を載せた。
「これは<月と物語りし悪魔>と<理と若木の魔術師>との契約である。我、<理と若木の魔術師>の一人が、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕との対話を求める。偉大なる<月と物語りし悪魔>の名において、姿を見せよ」
一度で、空気が動いた。
いつもは二度三度唱えなければ出てこない。今日は日時を決めてある。向こうも、待っていたのだ。
煙が立ち上って、黒い革手袋がそれを掻き分ける。撫で付けた黒い髪、目元を覆う白い仮面、黒いスーツ。灰色の部屋に、白と黒が浮かび上がった。
男は口角を大きく吊り上げた。薄い唇が三日月の形になる。それから、優雅に頭を下げた。
「我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕の一人が、<理と若木の魔術師>と<月と物語りし悪魔>との契約に従い、求めに応じよう」
姿勢を戻して、男は続けた。
「本日は、よろしくお願いいたします」
お問い合わせありがとうございます、ではなかった。今日何をやるかは、もう決まっている。
「はい。よろしくお願いいたします」
真那は契約書を開いて、膝の上で支えた。
「<理と若木の魔術師>は、<月と物語りし悪魔>との契約のうち、<暁の記録の書庫>の参照について、ここに結び直すことを求める」
「<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、これに応じる。<暁の記録の書庫>の参照の上限、新たに定むるものとす」
頁の上で、文字が動いた。
古い上限を書いた条項の字が、端から薄れていく。紙に染み込んでいくように灰色になって、消える。その上に、新しい文字が浮かび上がってきた。
印字のように整った字だ。
角の擦れた古い契約書の、この一頁だけが、今この瞬間に書き換わっている。
真那はそれを目で追った。参照の上限が改まる。それに紐づいた条項の文面も、順に置き換わっていく。先日この僕と突き合わせた文面と、一文字も違っていなかった。こちらが端から当たった条項も、漏れずに入っている。
やがて、文字が落ち着いた。頁は、はじめからそう書かれていたような顔をしている。
締結だった。
真那が契約書を閉じると、部屋の空気が少し緩んだ。
男が、口を開いた。
「連休は、少しはお休みになれましたか」
定型ではない。雑談だった。
この人は前にも一度、そういうことを言った。あまりご無理なさらないでください。あのときも、返事をするのに間があいてしまった。
真那は少し迷ってから、頷いた。
「はい。楽しい予定があって」
ビュッフェのことを思い出していた。高層ラウンジから見た景色。ローストビーフとモンブラン。甘いものについて語る声。それから――。
「それは、良かったです」
男の声に、真那は視線を上げた。細長い手足の男が、こちらを見ていた。
真那は膝に手を置いて、座ったまま深く頭を下げた。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
男も、立ったまま頭を下げた。
お互いに掛け合った声が、部屋の中に柔らかく響いた。
顔を上げる。白い仮面の奥は、見えない。それでも、笑っている気がした。
それで、ようやく体の力を抜くことができた。
真那は床の短剣を握って持ち上げる。ひょい、と男が身を引いた。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
「何かございましたら、いつでもお呼び出しください」
男は優雅に腰を折って頭を下げる。
煙の中に、その姿が消えた。
◆◆◆
ロッカールームで仮面を外して、長く息を吐いた。
束ねていた髪を解いて、掻き回して、また束ね直す。ひと月近く抱えていたものが、ようやく肩から下りた。
はじめてこの件で呼び出した日は、煙が消えた五秒後に叫んでいた。今日は、叫ばずに済んだ。
席に戻ってしばらくすると、小檜がやってきた。
「戻したよ。試してみて」
真那は参照を走らせた。
動いた。分けずに、一度で、以前と同じように。
「動きました」
「はい、おしまい」
小檜はひらひらと手を振って、自分の席に戻っていった。
隣で、鏑木がモニタから顔だけこちらに向けた。
「お疲れ」
「ありがとうございました」
真那はモニタに向き直って、記録をつけた。
――結び直し完了。参照の上限を変更。一時対応を解除。
書き終えて、キーボードから手を離す。三行で済んでしまった。
◆◆◆
駅前のコンビニを出たところで、隣に人が立っていた。
若月湊だった。相変わらず、足音がしない。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
並んで歩き出す。
湊が、真那に視線を向けた。
「何か、良いことありました?」
「分かりますか」
「顔が」
真那は片手で自分の頬を押さえた。この間も、職場で同じことを言われたばかりだった。自分では分からないのに、外からは見えるものらしい。
真那は手を下ろして、湊を見上げた。
「仕事が一つ片付いたんです。それで、今日はお酒も買っちゃいました」
「お酒、飲むんですか」
「たまにですけど。今日は良いかなって」
「良かったじゃないですか」
湊も、コンビニの袋を提げていた。プリンとチョコレートの箱が透けて見えていた。
「若月さんは、今日も甘いものですか」
「今日も、です」
「土曜日、あれだけ食べたのに」
「土曜日は土曜日で、今日は今日です」
あんまり真面目な顔で言うので、真那は笑ってしまった。つられたように、湊も笑う。
「俺もちょっと、良いことがあって」
「そうなんですね」
「ケーキも買いました」
「何のケーキですか」
「モンブランです」
街灯の下で、湊の顔がよく見えた。土曜日にビュッフェで見たのと同じ、口元がほころぶような笑い方だった。
空には、半分になる手前の月が出ていた。西の低いところで、屋根の上に引っかかるように光っている。冷たい風が吹いて、真那は袋を持ち直した。
アパートの階段を上がって、廊下を歩く。二たつのドアの前で立ち止まった。
湊が、静かに言う。
「おやすみなさい」
真那も、静かに答えた。
「はい、おやすみなさい」
部屋に入って、鍵をかける。
真那は部屋着に着替えると、袋から缶ビールとつまみのジャーキーとサラダチキンを出した。
今頃は湊も、モンブランを食べてるのだろうと思った。
ビールを開けて、壁に向かって一人で乾杯した。




