第十五話 こんな仕事の仕方
改札を抜けると、ホームの先に樗木真那が立っていた。
若月湊は、その隣まで歩いて声をかけた。
「おはようございます」
真那が振り向いて、目を丸くした。
「おはようございます。……気付きませんでした」
「よく言われます」
真那の目の下に、薄い影があった。疲れているのだろう。湊はそれを、口には出さなかった。
代わりに真那が、こちらを見上げてきた。
「月末ですね」
「大変ですよね、月末」
頷いて、返す。
少し前にも、同じことを言った気がする。
電車が来た。各駅停車しか停まらない駅なので、選ぶ余地はない。
乗り込んだときは、肩が触れる程度の混み具合だった。
そこへ、駅ごとに人が乗ってくる。ひと駅進むたびに、体の向きを変える余地がなくなっていく。真那が扉の脇へ押されていくのが見えて、湊は扉の枠に手をついた。腕の下に、少しだけ空間ができる。その空間に、真那の体が収まった。
真那は、トートバッグを体の前に持ってきて、両手で抱きしめるようにしていた。肩をすくめて体を小さくしている。つむじが見えた。
真那が見上げてきた。湊は窓のほうへ目を移した。
何か言うべきか、何を言えばいいかも分からなかった。
ついた手に力を入れる。背中を押されても、腕の下の空間をできるだけ狭めないようにする。それでも半歩、湊は真那に近付くことになった。シャンプーのような匂いがした。
電車が揺れて、真那の額が湊の胸に当たった。すぐに離れていく。
乗り換えの駅で、扉が開いた。人がどっと降りていく。湊もその流れに乗った。
「いってらっしゃい」
押されながら、真那が小さくそう言った。
ホームに降りたところで、湊は振り返った。
車内はもう空いていて、さっきまで詰まっていた真那の周りに隙間ができている。扉が閉まって、電車は行ってしまった。
返事をしそびれた。
◆◆◆
十一月の最終営業日だった。
午前のうちに三度呼ばれて、戻るたびにチャットの未読が増えている。月末は、どこも駆け込みで動く。
チームのチャンネルには、上司の望月から連絡が届いていた。
――月末なので、今月の対応記録の締めをお願いします。
了解のリアクションが次々に増えていく。湊も同じものを押した。
呼び出しが切れたところで、記録を締めにかかる。
<理と若木の魔術師>の件を、一本にまとめた。
書庫が参照できなくなったという問い合わせから始まっている。最初は契約の通りですとしか言えなくて、相手が原因を突き止めてきて、司書の悪魔に要望を出して、返事を待って、結び直しの段取りを決めて、文面を起こして、締結。
ひと月と、少し。
最初の記録には「契約の通りにご案内」とだけ書いてある。あのとき書けたのは、それだけだった。一昨日の分には「締結、完了」と書いた。
この一か月で、あの魔術師とは何度も会った。最初から、記録を二枚揃えて持ってきた相手だった。資料の並べ方に迷いがなくて、こちらが訊く前に必要なものが出てくる。ああいう相手は、多くない。
書きながら、一昨日の儀式の終わりを思い出す。
頭を下げ合って、顔を上げたとき。灰色の仮面は顔を全部覆っているし、声はローブが変えている。見えるものは、何もない。
それでも、あの魔術師は笑っていた気がした。顔を上げるまでの間の取り方、肩の落ち方、息の抜け方。そういうもので、なんとなく分かる。
連休は休めたと言っていた。楽しい予定があって、と。
それなら良かった、と湊は思う。
それは、記録には書かない。書くことではない。
◆◆◆
午後、望月が湊の席まで来た。
「<若木>さんの結び直し、お疲れ様。記録、読んだよ。丁寧だった」
「ありがとうございます」
望月は手元の端末に目を落としたまま、続けた。
「ただ、少し時間を使いすぎじゃない?」
湊は顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「あの案件だけ、記録が厚いから。先月と比べても」
責める口調ではなかった。ただ、褒めてもいない。
「結び直しでしたので、儀式の回数が」
「うん、それは分かる。分かったうえで、ね」
望月は端末から目を上げた。
「取引先と良い関係ができてるのは、悪いことじゃないよ。ただ、若月さんが持ってる契約はほかにもあるでしょう」
「……はい」
工数は、それぞれに任されている。望月がそこに口を出すのを、湊は見たことがなかった。
望月はそこで少し間を置いた。
「次に大きいのが来たら、月岡さんと分けようか」
「いえ、大丈夫です。今回で一区切りなので」
「そう。なら良いけど」
望月は頷いて、何かあったら言って、とだけ言い残して行った。少し行ったところで、別の担当にも声をかけている。今日は全員の記録を見て回っているのだろう。
湊は、自分の返事を思い返した。
考える前に、断っていた。
隣の席で、月岡が顔を上げていた。名前を呼ばれたからだろう。目が合って、月岡は何も言わずにモニタへ戻った。
湊は、自分の対応記録を開いた。
言われるまで、見返したことがなかった。
儀式の数を数えてみる。ひと月で、六回。ほかの契約は、多くても二回だった。回数の多さは、結び直しがあったからだ。仕方ないことだ。
そう思っても引っかかりは消えなくて、内容を確認する。
ほかの案件は、いつも通りだった。経緯があって、対応があって、結果がある。要点だけが押さえてある。
<若木>の件だけが、違った。
日付をまたいで何度も出てくるし、一回ごとの記録も長い。相手が持ってきた資料の中身、こちらの説明、確認したこと、次の段取り。全部書いてある。
ほかを手抜きしているわけではない。<若木>だけが、普通より多い。
先週、呼ばれる件数は変わってないのに残業が続いて、段取りが悪くなっているのかと思った。
段取りではなかった。偏っていた。
担当している契約は多い。一とつにかけられる時間は短くて、それを丁寧に捌いていくのがこの仕事のはずだった。
一件一件に時間をかけて対応できたら良いんですけど、と隣人にこぼしたことがある。そうもいかなくて、と続けた。
そんなことを言いながら、<若木>の件にだけ、それをやっていた。
こんな仕事の仕方をすると思っていなかった。
理由を探してみる。資料を揃えてくる相手だから、話が早い。丁寧な相手には、丁寧に返したくなる。
そこまで考えて、それが理由になっているのか分からなくなった。
責められてはいない。丁寧だった、と言われた。
それでも、気持ちは落ち着かなかった。
◆◆◆
部屋に帰って、スーツを脱いでハンガーにかけた。部屋着に着替えて、冷蔵庫を開ける。
紫芋のタルトが残っていた。いつ買ったのかは、もう覚えていない。
菓子についてきたプラスチックのフォークを、引き出しから一本取る。何本も溜まっている。
ビーズクッションに沈んで、タブレットを引き寄せる。骨伝導イヤホンを耳にかけて、音量を絞った。
紫の餡は艶があって、上に黒胡麻が散らしてあった。焼き色のついた生地は、フォークの先で押すと硬い。餡は大人しくフォークを受け入れたのに、生地は抵抗した。フォークが少ししなって、最後には生地のほうが負けた。
ざくりと音を立てて生地が割れる。生地の欠片が脇に落ちる。断面は二層になっていた。下が薄い黄金色で、上が紫だ。
ほのかに香る芋の匂いに、期待を煽られて、口角が上がった。薄い唇が三日月の形になる。
フォークを口に運ぶ。生地はもう抵抗しなかった。舌の上で、香ばしくほろりと崩れ落ちた。それから、芋の餡の甘さが舌にねっとり重くまとわりついてくる。噛むと生地が崩れ、餡と混ざり合って、香ばしさと甘さが混ざってゆく。その合間に、黒胡麻の匂いもした。
飲み込むと、喉に重さが落ちてゆく。その喉まで甘い気がした。
「あぁ……沁みる」
湊はビーズクッションに首を預ける。しばらく天井を見詰めて、二た口目のためにフォークを入れた。
そこでふと、今日のことを思い出した。
時間を使いすぎじゃないかと言われたこと。それが事実で、<若木>の案件だけ記録が長くなっていたこと。それから、儀式でいつも会っている魔術師のこと。楽しい予定があったと言っていた。休めたなら良かったと思った。記録に書けない部分が増えている。
硬い生地にフォークを刺したまま、湊は動けなかった。
取引先と良い関係ができているのは悪いことじゃない、とも言われた。けれど、これは良い関係、なのだろうか。
不意に、イヤホンから笑い声がした。
タブレットを引き寄せて、別の動画にした。なんでも良かった。気分を変えたかっただけだ。
イヤホンからは、誰かのお喋りが流れてきた。何を言っているのかは、耳に入っていなかった。
湊はまた、タルトを一と切れ口に運んだ。ねっとりした甘さ。生地の香ばしさ。変わらない味がした。




