第十六話 マグカップ
土曜の昼過ぎ、樗木真那の部屋のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、若月湊が立っていた。小さな紙袋を提げている。
「こんにちは」
「こんにちは。どうぞ」
真那は体をずらして、湊を通した。
洋室に通すと、湊はローテーブルの脇に座った。入り口に近い方、ベッドやクローゼットから遠い位置だ。
湊はテーブルに紙袋を置いた。
「美味しそうだったので」
紙袋には、商店街の和菓子屋の名前が入っていた。ケーキ屋の二軒先にある、古い店だ。
中から出てきたのは、平たい折り箱だった。開けると、串に刺した団子が行儀よく並んでいる。焼き目のついた団子に、とろりと透き通った茶色の葛餡がかかっていた。
真那は瞬きをした。
「みたらし団子」
「はい」
「わたし、これ好きなんです」
「そうですか」
好きなものが出てきて、嬉しくなった。
真那はキッチンに立って、湯を沸かした。
マグカップを二たつ出す。棚の奥から、小さなガラスのポットも出した。中には角砂糖が入っている。真那は角砂糖を使わないので、減るのは湊が来たときだけだ。
紅茶を注いで、つまんだ角砂糖を片方のカップに落とす。ぽとん、ぽとん、ぽとん、ぽとん。四つ。
訊かなくても、数は分かっている。
それを洋室に運んで、湊の前に片方を差し出して、そこで動きが止まった。
湊が見上げてきた。
「どうかしましたか」
「あ、いえ」
真那はカップを置いた。
「……このマグカップ、すっかり若月さんのになってるなって思って」
マグカップは二たつとも、前から真那のものだ。柄も大きさも違うけれど、どちらを使っても困るものではない。
それなのに、毎回、同じほうを渡していた。
湊は、自分の前に置かれたマグカップに視線を落とした。
「そうですか」
真那はもう片方を自分の前に置いて、座った。
団子を一本取る。
焦げた醤油の香ばしさが鼻をくすぐる。艶々とした半透明の葛餡が落ちそうで、片手を添える。
一と口。かじると、まずしょっぱい。そのあと、甘い。米の弾力は強くて、歯を押し返してくる。それを噛みちぎって、串を口から離す。口の中で噛むと、葛餡の甘じょっぱさが、団子に絡む。噛みごたえがある。
何度も何度も噛んで、ようやく飲み込んだ。唇が葛餡の味になっている。
「美味しい」
素直な感想だった。
湊は紅茶を飲んでいた。
「それは良かったです」
「若月さんは、食べないんですか」
「食べますよ」
湊はマグカップを置くと、一本取って、一と口食べた。それから、いつもの真面目な顔で言った。
「やっぱり、あんこのほうが良くないですか」
「それ、この間も言ってました」
「言いましたね」
真那は笑って、もう一と口食べた。
どうってことない話ばかりした。月末で、今週の仕事が長かったこと。コンビニの棚がもうクリスマスになっていること。
真那は、団子の合間に紅茶を飲んだ。渋みが、口の中の葛餡の名残を綺麗にさらってくれる。
「クリスマスって言っても、平日なんですよね」
湊は、団子をもう一本持ち上げて、真那のほうを見た。
「そうですね」
「仕事してるから、あまり有り難みも感じないですよね」
「分かります。あ、でも、お菓子は限定の味がいろいろ出るので、それは楽しみですね」
湊の持っている団子から、葛餡が落ちる。湊はそれを反対の手で受け止めた。その手を持ち上げると舌を出して舐めとった。小さく「しょっぱい」と呟いた。
真那も、カップを置いて団子をもう一本手にした。
「どんなものを買うんですか」
「今の時期だと、チョコレートが多いです。アルコールを使ったものですが、美味しいのがあるんですよ」
それから、冬季限定のチョコレートについて、湊はしばらく話し続けた。
紅茶はもう一杯入れた。二杯目も、角砂糖は四つ入れた。
◆◆◆
話しているうちに、窓の外が暗くなっていた。
「夕飯、どうしますか」
真那が訊くと、湊は少し黙った。
「……考えてませんでしたが、冷蔵庫にはまだあるので」
「それ、甘いものですよね」
「そうですね」
しれっと答える湊に呆れつつ、真那は自分の冷蔵庫の中を思い出す。
「肉じゃがでも作りましょうか。じゃがいもと玉ねぎが余ってるので」
「良いんですか」
「豚肉も、冷凍にしたものが残ってるんです」
真那は冷蔵庫を開けた。じゃがいもと玉ねぎとにんじん。冷凍庫には、半額で買った豚の薄切りが一パック。
鍋を出して、調味料を袋に詰める。醤油、味醂、酒、砂糖。菜箸とおたまも要る。ご飯は朝に炊いたものがあった。
両手が塞がって、ドアを開けるのに戸惑っていたら、湊が脇に立って開けてくれた。
湊の部屋のキッチンに立って、鍋を火にかける。油をひいて、豚肉を広げた。脂の弾ける音がして、色が白く変わっていく。そこへ、切った野菜を落とす。
湊は、真那の隣に立って見ていた。
「手伝いましょうか」
「大丈夫です。狭いので」
水と調味料を入れて、蓋をする。煮立つまでの音が、だんだん大きくなっていった。
湊が棚を開けて、食器を出してきた。
白い無地の茶碗が二たつ。少し深さのある皿が二枚。箸が二膳。
しばらく前に、真那が百均で買って持ち込んだものだ。湊が洗ってから、そのまま部屋に置きっぱなしになっている。
棚の中には、前からあった皿も二枚ある。大きさも柄も違う、揃いではないものだ。白い無地の一式はその隣に並んで、すっかり、この部屋に馴染んでいた。
湊は何も言わずに、二人分の食器を用意した。
蓋を取ると、湯気が上がった。じゃがいもは角が崩れて、煮汁を吸って色が変わっている。玉ねぎは透き通って、にんじんは端が丸くなっていた。豚肉は煮汁の中でほどけている。
深さのある皿に盛って、茶碗にご飯をよそう。ローテーブルに並べると、食卓になった。
湊が手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
真那も手を合わせた。
湊は、最初に玉ねぎを持ち上げた。口の前で少し息を吹きかけて、冷ましてから口に入れる。そして、ご飯を一口。次はにんじん。いつものように、綺麗な箸遣いだった。じゃがいもを箸先で崩して食べて、肉はそのあと。
食べてる。良かった。真那はいつものようにほっとして、それから自分も食べ始めた。
豚肉は、脂が溶け出して代わりに煮汁をたっぷり吸っていた。出汁の味と肉の脂が重なって口の中に広がった。ご飯に合う。
じゃがいもは、箸で割るとほろりと崩れた。こちらも煮汁をたっぷり吸い込んでいる。甘い。しょっぱい。
くったりとした玉ねぎと柔らかくなったにんじんも、それぞれの甘みが煮汁に絡み合っている。
煮汁の染みたご飯は、それだけでもう一と口いける。
しばらく二人とも黙って食べていた。箸の音だけがしていた。
この人といると、楽だ。
話していても、黙っていても、落ち着いていられる。
安心できる。力が抜ける。どうしてかは分からない。分からなくても困らないのが、不思議だった。
◆◆◆
食べ終えて、二人で食器を運ぶ。湊が流しの前に立った。
「洗います」
「ありがとうございます」
湊が背中を丸めて、食器を洗いはじめた。
真那は調味料を袋に戻していった。醤油、味醂、酒、砂糖。それから鍋と、菜箸と、おたま。
「明日も、夕飯作りますね」
湊の手が止まった。蛇口をひねって、水を止める。
「……作ってもらってばかりですけど」
「わたしが勝手にやってることなので」
袋の口を結んで持ち上げる。やっぱり、重い。
「ただ、これ、毎回持ってくるの、そろそろ面倒で」
「置いていってもらっても、構いませんけど」
「うちでも使うので」
言ってから、真那は少し考えた。考えて、思い付いて、隣の湊を見上げた。
「……この部屋用に、揃えませんか」
湊は少しだけ目を伏せた。それからまた、真那を見た。
「うちに置くものなら、俺が買います」
「じゃあ明日、一緒に買いに行きましょう。荷物、持ってもらえると助かります」
「はい、持ちます」
玄関まで見送られる。湊が頭を下げた。
「ご馳走様でした。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
廊下に出る。三、四メートル歩けば、自分のドアだった。
振り向けば、湊はドアから半歩出て、こちらを見ていた。真那が頭を下げてドアを閉めるまで、動かなかった。
◆◆◆
真那はドアを閉めて、鍵をかける。
袋から調味料を出して、一本ずつ元の場所に戻す。醤油、味醂、酒、砂糖。鍋はシンクに置いた。
それから、ローテーブルに残っていたマグカップを二たつ、キッチンへ運んだ。
洗って、水を切って、いつもの場所に伏せる。二たつ並べて。




