第十七話 夕飯の話です
日曜の昼過ぎ、樗木真那の部屋のチャイムが鳴った。
時計を見ると、約束の時間より十五分早い。
ドアを開けると、若月湊が立っていた。黒いコートを着て、少し猫背で、眼鏡の奥からこちらを見下ろしている。
「こんにちは」
「こんにちは。早いですね」
「……時間があったので」
「すぐ出ますね」
真那も慌ててコートを羽織る。靴を履いて、鍵をかけた。
廊下に出ると、空気が冷たかった。十一月の最後の日だ。明日から十二月になる。
階段を下りて、脇道を抜ける。大通りに出て駅のほうへ歩くと、商店街が見えてきた。
街灯に金色のモールが巻き付けてある。八百屋の軒先に赤と緑の造花が下がっていて、その向こうの薬局には綿を詰めた雪だるまが置かれていた。スピーカーからは、鈴の音の曲が流れている。
「すっかりクリスマスですね」
「秋、あっという間に終わりましたね」
湊が先に歩き出したので、真那もついていった。
スーパーは商店街の真ん中にある。自動ドアをくぐると、暖房の生温い空気と、惣菜の揚げ物の匂いが一緒に押し寄せてきた。
真那は積んであった籠を一とつ取った。
「若月さん、何か食べたいものありますか」
湊は少し考えるような間を置いた。
「何も思いつきません。強いて言うなら、今日はチーズケーキの気分です」
「夕飯の話です」
「すみません」
真那は笑ってしまった。
「帰りにケーキ屋さんに寄りましょうか」
「良いんですか」
「デザートがあっても、良いと思います」
湊の口元が、嬉しそうにほころんだ。
表情の分かりにくい人だと思っていたけど、最近はちょっと分かるようになってきた気がする。
真那は売り場に目をやった。
「お鍋にしましょうか」
「鍋、ですか」
湊は呟いて、ちょっと困ったように真那のほうを見た。
「……ありません、鍋」
「知ってます。買いましょう」
入り口のすぐ脇に、季節物の平台が出ていた。土鍋が段になって積まれている。黒い釉薬のもの、白っぽいもの、蓋に青い線の入ったもの。値札が斜めに刺さっている。
真那は真ん中の大きさのものを取り上げた。二人で使うのに、良さそうな大きさだった。
「これで良いですか」
湊は素直に頷いた。
「はい。俺は分からないので、お任せします」
「持ってください」
湊は箱を受け取って、両腕で抱えた。抱えた途端に、身の置き所がなくなったような顔をした。
野菜売り場へ行く。白菜は半分に切られたものにした。長ねぎ、しいたけ、春菊。豆腐は絹にする。真那は籠に入れながら、後ろを振り向いた。湊は土鍋の箱を抱えたまま、律儀についてきている。
精肉の棚で、真那は豚バラの薄切りを二パック取った。それから、鶏もものパックも籠に入れた。
「肉、多くないですか」
「足りないより良いです」
「……樗木さんですね」
湊の中で、真那はすっかり肉の人になっているらしい。間違ってはいないから、真那は何も言わなかった。
調味料の棚へ回る。真那は籠を持ち替えて、並んだ瓶を見上げた。
「それで、何から買いますか」
「何から、というと」
「置くものです。若月さんの部屋に」
湊は棚の前で立ち止まった。醤油だけで、大きさも銘柄も十種類ほど並んでいる。
湊は、その前から動かなくなった。
「どれが良いですか」
「どれでも良いですよ」
「……分かりません」
真那は横から手を伸ばして、一番小さい瓶を取った。
「これにしましょう。大きいと、使い切る前に古くなるので」
「なるほど」
味醂と、料理酒と、砂糖。だしのパック。それから鍋用のポン酢を一本。真那が取って、籠に落としていく。湊は隣に立って、それを見ていた。
真那は湊を見上げる。
「塩と胡椒は、ありますか」
「……どうでしたっけ」
「わたしは、見た覚えがないです」
「買います」
レジで、真那は財布を出そうとした。
湊がそれを止めた。
「うちに置くものなので」
食材の分だけでも出そうとしたけれど、それも断られた。土鍋の箱をレジ台に置いて、湊が全部払った。
袋に詰め終えると、荷物は思ったより増えていた。土鍋の箱、調味料の入った重い袋、野菜と肉の袋。湊はそれを全部持った。
真那は袋に手を伸ばした。
「どれか持ちますよ」
「持つって言ったので」
そう言って、湊は真那には何も渡さなかった。
自動ドアを出ると、冷たい空気が頬に当たった。
商店街を、もと来たほうへ戻る。
日が傾いていた。四時を過ぎたばかりなのに、空はもう夕方の色をしている。街灯が、店先の緑と赤の飾りを照らしていた。
二人分の夕飯を提げた男の横を、真那は歩いた。
歩調が、いつも合う。真那の歩幅に合っているのだと気付いたのは、しばらく前だった。
「最近、ちょっと大変だったんですよ」
真那の言葉に、湊はちらと視線を寄越した。
「仕事ですか」
「はい。急に割り込みの用事が入って、それが思ったより大きい話になって。結局、しばらくそれにかかりっきりでした」
「大変ですよね、そういうの」
「そうなんです」
あの一件は、ようやく片が付いた。書類も全部揃えて、記録にも落とした。今になってみれば、悪い仕事ではなかったと思う。
「取引先の方が良い人で」
「そうなんですか」
「こちらの事情も分かってくれて。無理しないでくださいって、言ってくれたりして」
言いながら、真那は少し笑った。あれは仕事の相手が言う言葉ではない、と思ったのを覚えている。それでも、言われたときには確かに楽になった。
湊が、土鍋の箱を抱え直した。
「……そうですか」
「はい、優しい方なんです」
返事がなかった。
横を見ると、湊は前を向いたまま歩いていた。
「……その人、男の人ですか?」
何を訊かれたのか、すぐには分からなかった。少し戸惑ってから、頷いた。
「はい」
湊は何も言わずに、袋を持ち直した。
◆◆◆
商店街の終わりに近いところに、ケーキ屋がある。和菓子屋の二軒手前だ。
ガラスの扉に、貼り紙が出ていた。
――クリスマスケーキ ご予約承ります。十二月二十日まで。
湊が、その前で足を止めた。
「寄りますね」
「どうぞ」
帰りに寄りましょう、と言ったのは真那だった。そのときは笑顔を見せていたのに、今は笑っていない。ケーキを買うのだから楽しそうにしても良いのに。
理由が分からないまま、真那はケーキ屋の扉を開けた。荷物を抱えた湊が通る。
店の中は甘い匂いがした。ショーケースの中に、小さなケーキが行儀よく並んでいる。苺の乗ったもの、栗のクリームを絞ったもの、つやつやした茶色のもの。奥のほうには、赤い帽子をかぶった砂糖菓子のサンタが、いくつも積まれていた。
湊はガラスに顔を近付けて、端から順に見ていった。
「すみません。チーズケーキと、ガトーショコラと、オペラと」
店員がトレイに移していく。
「あと、このプリンと、そちらのシュークリームと、それから」
五つ目がトレイに載って、真那は横から口を出した。
「そんなに食べられますか?」
「食べたい気分です。あ、あと、フルーツタルトをお願いします」
結局、六つになった。店員が箱の蓋を閉じて、リボンをかける。
湊は両腕が塞がったままだった。土鍋の箱と、袋二たつ。
「コートの右のポケットに財布あるので、そこから出してください」
「あ、はい」
真那は湊の右側に回った。見上げる位置に肩がある。コートのポケットに手を入れると、指先が硬い革に触れた。二たつ折りの、使い込まれた財布だった。
中から札を抜いて、店員に渡す。釣りを受け取って、元通りに畳む。
ケーキの箱は、真那が持つことになった。
「お財布、返しますね」
「両手が塞がってるので、そのまま持っていてください」
真那は財布を自分のコートのポケットに入れた。
店を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。
商店街を抜けて、大通りを渡る。脇道に入ると、街の音が急に遠くなった。並んだ家の窓から、灯りが漏れている。どこかの台所から、味噌汁の匂いがした。
湊は両腕いっぱいに荷物を抱えて歩いている。真那はケーキの箱を、慎重に持って歩いている。
アパートの階段を上がった。廊下を少し戻って、湊の部屋の前で止まる。
湊が、自分のドアを見た。それから、抱えた荷物を見下ろした。
「鍵、財布に入ってます」
「はい」
真那はポケットから湊の財布を出した。小銭入れのところに、鍵が一本だけ入っていた。
鍵を差して、回す。取っ手を引くと、玄関の暗がりが開いた。
真那はドアを押さえたまま、体をずらした。土鍋の箱がドア枠にぶつかりそうになって、湊が危うく避けた。
ケーキの箱を抱え直して、真那も中に入る。後ろ手に、ドアを閉めた。




