第十八話 好かれやすいんですね
若月湊は、抱えていたものを玄関の床に下ろした。土鍋の箱、調味料の袋、野菜と肉の袋。腕が軽くなって、そこでようやく息を吐く。
樗木真那が、後ろ手にドアを閉めた。
「お財布、返しますね」
コートのポケットから出して、差し出してくる。
受け取ろうとして、手が止まった。
さっき、この人の手が自分のポケットに入っていた。布越しに、体のすぐ脇で指が動いているのが分かった。あのときは何とも思わなかった。荷物を持っていたし、そのほうが早かったし、店員も待っていた。
今になって、その感触を思い出して、落ち着かない。
「若月さん?」
「……いえ」
湊は財布を受け取って、自分でポケットに入れた。
顔を上げると、真那はもうコートを脱いで、袋を提げてキッチンに立っていた。
湊は真那のコートを持ち上げた。
「コート、掛けておきますね」
洋室に行って、ハンガーを出して、コートを掛ける。自分もコートを脱いで掛ける。真那のコートは、湊のコートとスーツに挟まれた。
キッチンに戻ると、真那はもう土鍋を箱から出していた。流しに置いて、水を張っている。
「土鍋って、本当は先にお粥を炊いたりするんですけど」
「そうなんですか」
「ひびに米が入って、目が塞がるんだそうです。今日は、いいことにします」
「はい」
真那はぐるりと洗って、水を切って、それからコンロに置いた。
湊は、その後ろに立っていた。
「何か、手伝いますか」
前もそう言って、断られた。それでも、言わずにはいられなかった。
真那が振り向いた。
「白菜、ちぎってもらえますか。手でいいので」
湊は隣に立って、渡された白菜を受け取った。
半分に切られたものを、根元から葉のほうへ裂いていく。芯のところは厚くて、指に力が要った。ちぎるたびに水気の音がして、まな板の上に積み上がっていく。
真那が手元を覗き込んだ。
「そのくらいで大丈夫です」
「豆腐は」
「出しておいてもらえますか。パックのまま」
言われた通りにする。それから、棚を開けて皿を出した。白い無地の、少し深さのあるものが二枚。この部屋に前からあった不揃いの皿は、その隣に並んでいる。
箸を二膳。
真那が鍋に出汁のパックを落として、切った野菜を入れていく。長ねぎ、しいたけ、春菊。ちぎった白菜。それから豚バラの薄切りを、一枚ずつ広げて沈めた。鶏肉も、一と塊ずつ入れてゆく。
蓋をする。
しばらくすると、蓋の縁から湯気が細く上がりはじめた。
真那が動きを止めた。
「あ。おたま、忘れました」
「……ないですね」
「取ってきます」
「大丈夫です。箸で取りましょう」
湊は自分のキッチンを見回して、言葉を足した。
「今度、買っておきます」
真那が振り返った。
「おたまを、ですか」
「はい」
真那は少し笑って、コンロの火を弱めた。
◆◆◆
鍋敷きがなかったので、畳んだ布巾を二枚重ねて、その上に土鍋を置いた。洋室のローテーブルは、二人で向かい合うと膝が近い。
蓋を取ると、湯気が顔まで来た。
白菜は煮汁を吸って透き通っている。しいたけは笠が開いて、裏が濃くなっていた。豚バラは煮汁の中でほどけて、縁が縮れている。鶏肉は、ふっくらとしていた。出汁と醤油の匂いに、肉の脂の匂いが混ざっていた。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせて、同じ鍋に箸を入れた。
白菜の芯を噛むと、甘かった。煮汁を吸って柔らかくなっていて、噛むほど甘い。長ねぎはもっと甘かった。とろりと崩れて、最後に繊維が残る。しいたけを噛むと、ぎゅっと濃い出汁の味が飛び出してきた。
真那が箸で春菊の絡んだ豚バラを摘まんで、湊の皿に載せた。
「お肉も食べてください」
「はい」
脂の溶け出した肉は、噛むと甘かった。煮汁と一緒に飲み込むと、喉の奥まで温かくなる。その温かさが、腹の底まで落ちてきた。体に熱が回る。
春菊は苦かった。苦いのに、口の中に残るのは甘さのほうだった。
湯気が上がり続けている。窓が曇っていた。
「若月さん、豆腐も食べてください」
「食べてます」
「まだ一つも取ってないです」
「……取ります」
しばらく、箸の音だけがしていた。
仕事では、黙る時間を作らないようにしている。相手が考えているあいだは待つが、間が空きすぎれば何か言う。そういうふうに体が動く。
今は、それを考えなくて良かった。向かい合って、出汁の味がして、体は温かかった。
食べ終えて、湊は背中を後ろに預けた。
腹が重い。部屋が暖かい。土鍋からはまだ湯気が上がっている。
ビーズが小さく鳴って、背中の形に凹んだ。そのまま体が斜めになる。腕から力が抜けて、床の上に落ちた。
天井の灯りが、少しだけ遠く見えた。
真那が、小さく笑ったようだった。
「ケーキ、食べないんですか」
湊は起き上がった。
「食べましょう」
二人で鍋と食器をシンクに運ぶ。
冷蔵庫から箱を出してきて、リボンをほどく。六つが行儀よく並んでいた。
「樗木さん、どれにしますか」
「じゃあ、このフルーツのを」
真那はタルトを取った。湊はチーズケーキを取る。
フォークを引き出しから二本出した。菓子についてきたプラスチックのもので、何本も溜まっている。
フォークを入れる前に真那を見ると、真那もこちらを見ていた。目が合う。
「若月さん、食べないんですか」
「食べます。樗木さんも、食べてください」
「はい」
湊は視線をケーキに落とした。
チーズケーキは、フォークを入れると音もなく沈んだ。下の土台が、少しだけ抵抗する。それもフォークで崩した。
口に入れると、まず酸っぱい。冷たくて、舌の上でゆっくり崩れてゆくと、甘さも広がってくる。土台の香ばしさを、奥歯でざくりと噛み砕く。今日はずっとこの気分だった、と思い出す。
真那は、タルトの上の苺をフォークで刺した。
「これ、真ん中のクリームが酸っぱいんですね」
「レモンを使ってるんですよ。果物も酸味があるので、ちょっと甘めでもさっぱりして、いくらでも食べられます」
真那が湊を見て、笑った。
「いくらでもは無理ですけど。でも、確かに食べやすいです」
甘いものを食べながら笑っている姿が、なぜだか嬉しかった。
湊はシュークリームに手を伸ばした。持ち上げるとクリームがたっぷりで、ぼってりと重い。皮が薄くて、指の力を加減しないと潰れそうだった。
噛んで、薄い皮を破る。中からクリームが飛び出してくる。手と顎を持ち上げて、こぼれそうになるクリームを舌で舐め取る。濃い卵の味がする。薄い皮は、ただ無力に蹂躙されるだけだった。その度に、クリームが溢れてくる。クリームを舐める。甘い。飲み込む。
真那は、タルトの上のキウイを口に運んでいた。
◆◆◆
九時を過ぎたころ、真那が立ち上がってコートを着た。
「ケーキ、ご馳走様でした」
「こちらこそ。鍋、ご馳走様でした」
湊がドアを開けて、真那が出る。
廊下に、小さいものが立っていた。
膝より低い。柊の葉が数枚、重なるようにして体の形になっている。艶のある濃い緑で、縁にとげが並んでいた。赤い実が二たつ並んでいて、それが目なのだろう。
「かざって」
舌足らずな声で、それは言った。
真那が身を屈めた。
「あなた、商店街から来たの?」
「かざって」
柊が跳ねて、真那のコートの裾に取り付いた。
真那が手を伸ばしかける。
湊は、その手より先に柊を掴んだ。
とげが指に刺さった。
「……っ」
思わず力が入る。柊は手の中でじたばたと葉を鳴らした。
「いたい」
「黙れ」
湊は掴んだまま腕を伸ばして、廊下の端まで歩いて、放った。柊は暗がりに落ちて、跳ねて、こちらを見た。赤い実が二たつ、動かずにこちらを向いている。
湊は睨み返した。
「消えろ」
柊は、しばらく動かなかった。それから、とげを一度だけ揺らして、暗がりへ跳ねていった。音はしなかった。
湊は指を見た。小さな点が二たつ、赤くなっている。血は出ていなかった。
真那が、廊下の端を見ていた。
「何も、あそこまでしなくても」
「貴女、拾うでしょう。危険なのに」
「それは……」
真那は、まだそちらを見ている。あの精霊を気にしていることに、少し苛立った。
「樗木さん、精霊に好かれやすいんですね」
逆かもしれない、と思った。真那が精霊を気にかけるから、精霊が寄ってくる。どちらにしろ、気に入らない。
真那が瞬きをした。
「考えたことありませんでした」
「気をつけた方が良いですよ」
「えっと……はい」
野良精霊は危ない。何をするか分からないし、話が通じる保証もない。弱った人間につけ込むし、一度懐かれれば次も来る。そしてこの人は、放っておかない。拾ってしまう。
「部屋の前まで行きます」
「え」
「また来るかもしれないので」
真那は少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「はい」
三、四メートルだった。
並んで歩くと、すぐに着いてしまった。
真那が鍵を開けて、振り返る。
「ありがとうございました。今日は、楽しかったです」
「……はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まって、鍵のかかる音がした。
湊は廊下の端をもう一度見てから、自分の部屋に戻った。
◆◆◆
部屋は静かだった。
シンクに置きっぱなしの食器を洗って、棚に片付けた。
次に土鍋を洗った。洗って、水を切って、伏せる。それから、置き場所を決めなければならないことに気が付いた。
シンクの下を開ける。前は、封も切っていないスポンジの袋と古い雑巾しか入っていなかった。今は、今日買った調味料が並んでいた。醤油、味醂、料理酒、砂糖、だしのパック、ポン酢。
土鍋は、一番手前に置いた。大きいので、そこしかなかった。
扉を閉める。
この部屋に、少しずつものが増えている。今まで、必要だと思っていなかったものばかりだ。
ローテーブルには、ケーキの箱が開いたまま残っていた。湊はそれを持って、冷蔵庫の前に屈んだ。
三つ残っている。ガトーショコラと、オペラと、プリン。二人で食べて、それでも三つ残った。
なぜあんなに買ったのか、分からない。あのときは買いたかった。ケーキを買うというのに、楽しさより苛立ちのほうが勝っていた。
それから、廊下でのことを思い出す。間違ったことをしたつもりはない。けれど、どうして苛立ったのか。思い返せば、真那は戸惑っていたように思う。
何か、間違っただろうか。分からない。
湊はケーキの箱を入れて、冷蔵庫を閉めた。




