第十九話 障害
<理と若木の魔術師>の事務所に着くと、樗木真那はいつものようにトートバッグを置いて、机の上の書簡帳を開いた。
取引先ごとに一冊ずつ、薄い帳面が重ねてある。一冊ずつ、最後の頁を見る。昨日はなかった連絡が増えていないかを確かめる。
三冊目で、手が止まった。
――<秤と灯火の魔術師>、魔法陣の運用担当です。
――昨夜から、そちらに保守をお願いしている魔法陣が動いていません。<暁の記録の書庫>の参照で止まっているようです。状況を確認してください。
――<秤と灯火の魔術師>
残りの帳面も開いた。同じ用件が、あと二冊に来ていた。
真那は自分でも参照を試してみた。通らない。
メールにも一件、業界の外の依頼元から来ていた。今朝の早い時間だった。
それから、契約書の束に手を伸ばす。黒い表紙に金の線で魔法陣が描かれた、分厚くて重い本だ。一冊ずつ開いて、最後の頁を見て、閉じる。何も増えていない。それを繰り返す。
<月と物語りし悪魔>の契約書を開いて、また手が止まった。
――我、<月と物語りし悪魔>の従順なる僕、謹んで告ぐ。
――<暁の記録の書庫>に障害あり。参照能わず。復旧の刻、追って報せる。
印字のように整った文字だった。署名は「従順なる僕」とあるだけで、誰が書いたのかは分からない。
<暁の書庫>を参照する魔法陣が止まったのは、今回が初めてではない。あのときは、この本を開いても何も書かれていなかった。契約の問題で、<暁の書庫>の問題ではなかったからだ。
今度は、<暁の書庫>全体の問題らしい。
訊きたいことはある。影響がどこまで及ぶのか。復旧の見込みはいつなのか。帳面には、返事を待っている用件が三つある。
<月語>の僕を呼び出そうかと、少しだけ考えて、やめた。
向こうは今、障害の対応をしている。ここで呼び出したら、その手を止めさせることになる。
何かございましたら、いつでもお呼び出しください。そう言われている。何度も言われている。それでも、今ではない。
真那は目を閉じて、息を吸い込んだ。目を開けて、吐き出す。
まず、自分たちの問題でないことを確かめる。先週、契約を結び直したばかりだ。新しい条項、戻した魔法陣、参照の手続き。一とつずつ確認した。三十分で済んだ。
隣の席の鏑木に声をかけて、小檜も呼んでもらう。三人で手分けを決めた。
小檜が影響の範囲を数え上げる。止まる魔法陣と、一時対応で回避できる魔法陣を選り分ける。鏑木が記録を取りながら、その一時対応を手伝う。真那は、書庫の参照を前提にしている外部との契約を洗い出して、連絡を取る。
小檜が机に手をついて、棚のほうを顎で示した。
「うちの分は、午前中に出せると思う。あとはよろしく」
「はい。出たら手順を流します」
小檜が席に戻っていく。鏑木はもう記録の様式を開いていた。
連絡の手段は、相手によって違う。
業界の外の依頼元には、電話とメールでいい。悪魔の側の取引先は、儀式を組むしかない。魔術師の組織には、書簡帳を使う。
真那は帳面を一冊引き寄せて、頁を繰った。空行を指先で撫でてゆく。
――<理と若木の魔術師>、契約管理の担当です。
――本日、<暁の記録の書庫>に障害が出ています。参照ができません。復旧の見込みは、分かり次第お知らせします。
――現在、こちらで一時対応をしています。対応が完了しましたら、またお知らせします。
――<理と若木の魔術師>
撫でたところから、印字のように整った文字が浮き上がってくる。今ごろ、どこかの机に積まれた帳面の一冊に、同じ行が浮かんでいる。
同じ連絡を、ほかの帳面でも行った。朝の三冊を入れて、全部で七冊。
書簡帳は開くまで、内容が変わったことが分からない。相手が開くまで、届いたことにならない。
昼前に開き直すと、朝の一冊に返事が来ていた。
――<秤と灯火の魔術師>、魔法陣の運用担当です。
――承知しました。対応が完了次第、確認いたします。復旧の見込みが分かりましたら、お知らせください。
――<秤と灯火の魔術師>
三行だけだった。名乗っているのは組織と役割で、それより先はない。十年以上続いている取引先でも、お互いの顔も名前も知らない。
ほかの帳面にも、少しずつ返事が来はじめていた。
午後になっても、問い合わせは増え続けた。動かない。いつ直るのか。うちの契約はどうなるのか。真那は机に積んだ帳面を、何度も開き直した。開くまで、来ているかどうかが分からない。先方も、同じことをしているはずだった。
悪魔の側の取引先には、書くだけでは済まない。
ロッカールームでローブを羽織って仮面をつける。備品置き場で短剣と畳んだ布を出す。契約書は自席から持つ。三つ抱えて、廊下を歩く。
石の部屋で布を広げて、端から順に指で辿る。短剣を抜いて前に置き、あぐらをかいて口上を唱える。一度目では、何も起きない。一呼吸おいて、もう一度。
空気が動いて、煙が立ち上る。
現れた僕に、事情を説明した。書庫が止まっていること。参照を使っている契約に影響が出ること。復旧の見込みはまだ立っていないこと。
相手は最後まで聞いてから、頭を下げた。
「承知いたしました。復旧の報せをお待ちします」
真那も頭を下げる。閉じる口上を唱えると、煙が巻いて、あとには何も残らなかった。
ロッカールームで仮面を外して、ローブを脱いで畳む。備品置き場に短剣と布を戻す。
儀式室は二たつしかない。予定表は午後まで埋まっていて、空いた枠を押さえては、時間が来るたびに着替えに行った。
二件目の僕は、説明を聞き終えるとすぐに言った。
「契約の履行が滞るのであれば、その旨を書面で」
「はい。本日中に用意いたします」
それだけだった。頭を下げて、閉じる。
着替えて、備品を戻して、席に戻って、帳面を開き直す。返事が二通、増えていた。返して、また次の枠の時間になる。
変質した声のまま、一日中、謝り続けていた。
帳面は、机に座ったまま書ける。けれど、返事がいつ来るかは分からない。儀式は、着替えて、運んで、石の部屋まで行かなければならない。けれど、その場で話が終わる。
一番手間のかかるやり方が、一番ちゃんと話せる。
そして今日、<月語>とだけは、一度も顔を合わせていない。いつものあの僕も、今頃は対応で忙しくしているだろう。
◆◆◆
三時を回ったころ、真那は事務所の奥の棚に向かった。
契約精霊たちの器が並んでいる。鳥の巣箱、小さな壺、硝子瓶、蓋つきの籠、植木鉢。いつもは昼前に来る。今日は三時間遅れていた。
「おそい おなか すいた」
「ごめんなさい」
巣箱の口から、金平糖を一粒落としてやる。別の器からも声がして、そちらにも一粒。植木鉢には如雨露で水をやった。土に染みていく。俯いているフウリンソウに声をかけていると、しばらくして花が持ち上がった。
器の並びも直した。窓に近いもの、遠いもの。棚の上と下。
近くの籠の中から、小さな声がした。
「きょう なにか あった?」
「ありました。ちょっと大変で」
真那はそこで言葉を切った。次の予定まで、あと十分もない。
棚を端から端まで見て回って、全部の器に手を入れた。いつも通りだった。
真那は棚に背を向けた。
夕方、契約書を開き直すと、また連絡が増えていた。
――<暁の記録の書庫>の障害、解消せり。復旧の刻は本日、日没。
――原因は追って報せる。
窓の外は、もう暗い。
真那は参照を試した。通る。もう一度。通る。
三度目で、司書に繋がらないまま終わった。
もう一度やると、今度は通った。
記録を出してみる。「参照を試みた」とだけ残っていた。繋がらなかったことは、どこにも書かれていない。結果すらなかった。
同じ手順を何度か繰り返してみる。五回に一度か、六回に一度か、そのくらいの割合で、止まる。やり直せば通る。
手を止めて、考える。やり直せば動くのなら、業務は止まらない。
明日、確認しよう。真那は契約書を閉じた。
◆◆◆
事務所を出たのは、九時を回ってからだった。
駅はまだ、人が多かった。いつもの路線に乗って、各駅停車で揺られて、最寄り駅に降りる。
商店街のシャッターは、ほとんど下りていた。街灯のモールだけが、まだ光っている。
住宅街に入って、真那はふと空を見上げた。
月が出ていた。ほとんど丸い。高いところにあって、雲は出ていなかった。
しばらく見上げてから、また歩き出す。
手前の建物を過ぎると、駐車場越しにアパートのベランダ側が見えた。二階の手前が自分の窓で、その奥が隣の窓だ。どちらも暗かった。
角を曲がって、階段を上がる。廊下を戻って、隣のドアの前を通って、自分のドアを開けた。中に入って鍵を掛ける。
クローゼットを開けて、コートを掛ける。部屋着に着替えて、動きを止めた。
壁の向こうで、冷蔵庫が低く鳴っている。それはいつも鳴っている。
水の音はしない。洗濯機も回っていない。
まだ帰っていないのかもしれないし、もう寝ているのかもしれない。足音のしない人なので、どちらなのかは分からなかった。
真那はクローゼットを閉めて、そのままベッドに倒れ込んだ。




