第二十話 仕事なので
金曜の朝、若月湊が席に着いてPCを開くと、チャットの未読が溜まっていた。
昨日の続きだった。
<暁の記録の書庫>が止まったのは一昨日の夜で、復旧したのは昨日の日没だ。そのあいだ、書庫の参照を契約に含んでいる各社は、全部止まっていた。
謝罪文を契約書に書いたのは、昨日の朝だった。同じ文面が、各社の契約書に届いたはずだった。
書き終わる前から、呼び出しは入っていた。動かない、という用件だ。向こうも、動かないものを抱えて朝を迎えている。
今日も、朝から続いた。
石の部屋に呼ばれて、口上を返して、頭を下げる。同じ説明を、相手を変えて繰り返す。いつ止まって、いつ戻ったか。原因は調査中で、分かり次第お伝えします。ご迷惑をおかけしました。
三件目の魔術師が、灰色のフードの奥から訊いてきた。
「原因は、何だったんでしょうか」
「調査中です。分かり次第、契約書にてお伝えします」
「……そうですか」
それ以上は訊かれなくて、ほっとした。答えられることは、まだ何もない。
戻って眼鏡をかけ直すと、チャットの未読がまた増えている。
社内では、原因報告の準備が進んでいた。書庫の悪魔からは、相変わらず短い返事しか来ない。訊いたことには答えるが、それ以上は言わない。何を基準にしているのかは、誰にも分からない。
上司の望月が、チャンネルに手順をまとめて流していた。どこまでを今の段階で答えてよいか、線が引いてある。湊は了解のリアクションを押した。
昼前、湊は昨日からの経緯を一とつにまとめて、同じチャンネルに貼った。
いつ止まって、いつ戻ったか。今どこまで分かっていて、どこからが調査中か。各社に出した文面も添える。
少し経って、隣の席の月岡が椅子を回した。
「助かる。これ、そのまま説明に使えるな」
「使ってください」
「うちの担当先、まだ三社残ってるんだよ」
「うちも、午後に二件入ってます」
「今週、長いな」
月岡はそう言うと、またモニタに向き直った。
一昨日の夜から、ずっと同じことをしている。まだ三日目だった。
引き出しから、個包装のチョコレートを一とつ出す。袋を剥いて、口に含んだ。
ビターチョコは、口の中で体温に抵抗するように渋みを振りまいた。舌の上で転がすと、ゆっくりと柔らかくなって、香りが広がってゆく。苦味の中に隠れていた甘さが、溶けた中から姿を見せた。
存分に柔らかくしてから、まだ硬く残っている部分を奥歯で噛む。歯応えはもう薄れていて、ずぐりと崩れた。喉を流れ落ちる感覚に、目を細める。
湊は次の呼び出しに立ち上がった。
◆◆◆
午後、<理と若木の魔術師>から呼び出しが入った。
立ち上がって、髪を撫で付ける。眼鏡を外して机に置き、黒い革手袋をはめる。
石を敷き詰めた床と壁、わずかな照明。灰色のローブとフードが、短剣の向こうにあぐらをかいて座っている。
口上を返して、頭を下げた。
「お問い合わせありがとうございます。ご用件をどうぞ」
「昨日の障害の件で、確認をお願いしたいです」
魔術師が、一枚目を掲げた。
「復旧後に参照を試した記録です。時刻と回数、それから通った数と、返ってこなかった数を分けてあります。二十四回試して、四回は司書に繋がらないまま終わりました」
続けて、もう一枚。
「参照した本の範囲と、使った魔法陣の写しです。範囲は一昨日までと変えていません」
湊は順に目を通した。いつも通り、並べ方に迷いがない。
「ありがとうございます。こちらでも確認いたします」
いつもの契約書とは別の契約書を呼び出した。これは、<暁の記録の書庫>と繋がるための、悪魔との契約書の写しだった。いつから存在するのか分からない。湊も古いものだとしか、聞いていない。
<暁の書庫>の契約を確認する。内容に問題ない。今は、その契約が間違いなく履行されているか、が問題だ。
履行に問題が出ていることは分かった。契約に問題がない以上、昨日の復旧にまだ問題があると考えるのが、妥当だろう。
「こちらの問題の可能性が高いです」
湊には、これ以上のことは分からない。詳しい調査も書庫を直すのも司書の悪魔で、湊は窓口でしかない。
「すぐに対応いたします。司書の悪魔に伝えて、原因が分かり次第、契約書にてご連絡いたします」
魔術師が、頭を下げた。
「助かります」
「いえ、とんでもないです」
魔術師は、さらに言葉を続けた。
「障害対応、お疲れ様です。大変ですよね」
湊は、契約書を閉じる手を止めた。
「……仕事なので」
突然のことで、そっけなく返してしまった。もっと他に言いようがあったかもしれない。
今になって嬉しさが込み上げてきて、もどかしくなった。
けれど、今から言葉を足すのも、不自然な気がした。
何も言えずに、魔術師を見下ろしていた。
魔術師が紙を下ろす。その手が、いつもより遅い。フードの中で、長く息を吐く音がした。
疲れている。それは想像できた。書庫の参照を前提にした契約が、いくつも止まったはずだ。止まれば、連絡が必要になる。湊と同じだ。ずっと対応に追われているのだろう。
その中で、この魔術師は記録をまとめて持ってきた。湊を労った。
それでようやく、言葉が出てきた。
「……そちらこそ、昨日は大変だったでしょう」
フードが、少しだけ動いた。
「いえ、そちらほどでは」
返答を聞いて、失敗したと思った。
ここで大変だったと言えば、こちらを責めているように聞こえてしまう。それを避けてくれた。気遣われている、と思った。
こういう失敗も困り方も、これまであまりしたことがなかった。気遣うのはいつも、自分の役目だと思っていた。
これ以上、湊から言えることは少ない。
「お互い、お疲れ様でした」
魔術師はそれには何も言わず、小さく頭を下げて、短剣を握った。
「我、<理と若木の魔術師>の名において、対話の終わりを告げる。<月と物語りし悪魔>の従順なる僕よ、<月と物語りし悪魔>の名において立ち去れ」
湊は頭を下げた。
「何かございましたら、いつでもお呼び出しください」
煙の中を、戻ってゆく。
◆◆◆
戻って眼鏡をかけ直して、湊は社内チャットを開いた。
書庫の悪魔に、確認したことをまとめて送る。<若木>の参照が、六回に一度ほど通らないこと。契約の状態に問題はないこと。一昨日の障害の名残と見られること。相手が取った記録の写しも添えた。
返事は、すぐには来なかった。
次の呼び出しに出て、戻って、また開く。
――承知した。
それだけだった。直すとも、いつまでとも書かれていない。訊いたところで、返ってくる言葉は増えない。
それでも、伝えるところまでは終わった。あとは向こうが直す。
湊にできるのは、ここまでだ。
夕方、その日の対応記録をまとめる。
<若木>の件は、すぐに書けた。
――報告を受け、事象を確認。書庫側の残存と判断。司書へ連携。対応中。
これで足りる。嬉しかったことも、気遣われたことも、もちろん書けない。
ほかの件も順に片付けていく。今日はどの担当の記録も厚い。<若木>の記録も、今日は他の記録に紛れて目立たなかった。
定時を過ぎたころ、ようやく呼び出しが切れた。
月岡が鞄を提げて立ち上がった。
「お疲れ。来週もよろしく」
「お疲れ様です」
フロアの人がまばらになっていく。望月はまだ残っていて、誰かと小声で話していた。原因報告は、たぶん来週まで続く。
湊は眼鏡を外して、目のあたりを指で押さえた。しばらくそうしてから、かけ直す。
帰ったら何を食べるか、冷蔵庫の中を思い出してみる。チョコレートがいくつかと、ゼリーと、あとは何があっただろうか。買い置きは少なくなっている。
いつもなら、そこで楽しみになる。何を買って帰ろう。何か新しい味が並んでいるかもしれない。
今日は、それだけでは足りない気がした。
何が足りないのかは、分からない。帰りの電車で考えよう。今はとにかく、疲れた。
湊は荷物を取って、席を立った。




